2001年3月
平成13年3月
  143号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
岡山市・洛陽市友好都市締結20周年 第2回委員会開かる―記念事業決まる―
 2月27日午後1時30分より勤労者福祉センターで岡山、洛陽友好都市締結20周年記念事業第2回委員会が開かれ下記の通り、記念事業が決定した。
「岡山市民友好訪中団」の派遣
【日時】 4月17日~4月21日
20周年を記念して、市民から公募した「岡山市民友好訪中団」を派遣する。洛陽市では、各種記念事業を通じて友好と相互理解を一層深め、また洛陽牡丹花会への参加など、中国の伝統文化にふれていただく。
【内容】 4/17(火) 洛陽市人民政府主催歓迎会
4/18(水) 午前 洛陽牡丹公園参観
        午後 洛陽市内参観(龍門石窟、白馬寺、関林)
洛陽牡丹花会に特別参加
【洛陽市からの提案】 詩吟など日本文化の紹介
【現在の状況】 定員(145名)を満たし、現在キャンセル待ちの方が数人いる。萩原市長、逢坂委員長、職員3名、通訳1名(計6名)の参加予定。OHK(岡山放送)が番組作成のため同行取材予定。
3/24(土)午後 岡山市役所7階大会議室にて結団式及び説明会を開催。
「洛陽市政府代表団」受入れ
 昨年末に、洛陽市から20周年を記念して「洛陽市政府代表団」を派遣したいとの申し出があった。約8名を10日間程度受入れる予定(岡山滞在は4日間)

【内容】 訪問時期、人数、期間は未定。
【岡山での行事】 岡山市主催歓迎夕食会(訪問団員含む20名程度)。市内施設視察。(日時は検討中)

「洛陽市子供訪問団」受入れ
【日時】夏休み
 岡山市子供海外派遣事業で、平成7年度から毎年中学生を洛陽市に派遣してきた。平成12年度にその答礼として、洛陽市から中高生29人、引率2人が来岡。ホームステイや少年自然の家に宿泊、市内各施設を見学し友好を深めた。13年度も中学生を派遣したいとの洛陽市から申し出があり、これを受入れるもの。生徒15名、引率2名を10日間程度受入れる予定。(岡山滞在は7日間)

「洛陽の伝説と民話」の出版
 岡山市日中友好協会からの提案事業。大阪在住の片山義郎氏執筆による『洛陽の伝説と民話』を共同出版し1500部を作成して、市内の小・中学校などに無料配布し、洛陽市を広く紹介する。(日時は検討中)

インターネット囲碁大会
 岡山県囲碁同好会と洛陽市囲碁友の会は、友好都市締結以来、囲碁を通じて交流を続けている。このたび、20周年を記念して、インターネットを通じて日中共通の文化である囲碁の対局を行い、市民レベルの交流、囲碁レベルの向上を目指す。(日時は検討中)

「中国展」参加
【日時】 5月23日~5月29日
 高島屋岡山店で開催される「岡山市洛陽市友好提携20周年記念 大中国展」に参加する。洛陽市側からも物産展示会を行いたいとの要望あり。(主催:大中国展実行委員会)洛陽市から書画・牡丹絵の芸術家を呼び、会場で実演制作する。

洛陽市少年サッカー受入れ
【日時】夏休み
 岡山市少年サッカー連盟(会長・逢沢一郎)は、これまで姉妹都市を始めとする都市にサッカーチームを派遣し、少年達の交流を深め国際的な感覚を養ってきた。このたび、洛陽市側から平成13年度に小学生のサッカーチームを派遣したいとの申し出があったため、当交流事業の共催を行う。
【内容】 夏休みに少年サッカーチームを受入れるが、その連絡事務等の調整補助、交流に対する市内の移動交通経費(バス借り上げ実費程度)を負担する。

岡山市・洛陽市学生交流シンポジウム
【日時】 7月31日~8月4日
 テーマ等更に検討する。

日中女性フォーラム 上海の教育事情
 昨年11月21日から4日間、中国の上海で日中女性フォーラムが開催された。このフォーラムには、岡山市から「教育」と「福祉」関係の女性リーダー15名が参加し、両市共通の課題である少子高齢化に向かうこれからの「教育」と「福祉」の進むべき方向について熱心な話し合いが行われた。その報告会が2月3日、岡山県生涯学習センターで開かれた。

 中国側からは、謝麗娟政治教協商会議副主席、袁雪芬対外友好協会副会長、李麗婦女連合会副主席、張雪娜対外友好協会常務理事ほか8名が出席した。上海の各界を代表する女性リーダーの錚々たる面々が参加しているのを見ると、この女性フォーラムに対する中国側の期待と熱意のほどが窺い知れる。

 余偉星上海市婦人連合会児童部副部長は、中国の子どもの教育の一端を報告した。上海では、一人っ子に対して、いかに社会化教育を行うかが重要課題になっている。一人っ子は、自分の文化水準を高めることに努力しフリースタイルの活気を重んじる。また創造性に富んでいる。しかし、責任感、勤勉、節約等の面では劣っている。

 そのため上海では、一人っ子を全面的に養成する社会化方法を強化している。例えば、各種類各レベルの親学校を作り、親に子どもを教育的に科学的に教育する方法を教える。

 次に、最近、女の子の成長が早くなり、大学進学率を見ると女子生徒の進学率が初めて男子生徒を上回った。その重要な原因の一つは、女子に対する確かな教育に恵まれたということである。婦人連合会は、児童教育の社会化に参与するとともに、女子生徒の心身発達の特徴に基づき、16歳花期に入る少女が有能な人材になる活動を展開している。思春期にあたる少女に対して、自尊、自信、自律の心を養い、男女平等のもとで発展するよう教育している。

新世紀の交流 交流20年を省みる
 洛陽-岡山の交流20年の思い出が深い。行き交った文物、人々が走馬燈のように甦る。その少なくない成果をよろこびたい。

 しかるに交流は「奔流」となったか。土石が運ばれ、それに埋没したかのようでもあり、過去を自省せずにいられない。

 たとえば87年、友誼の梵鐘が長泉寺にもたらされた。そして今日、人心に沁みわたるように鳴りひびいているだろうか。

 その後、白馬寺の「国際寺院化計画」が発表、岡山にも企図が伝えられた。海法方丈のすばらしい構想だった。

 しかしその壮大さのためか、これに呼応できなかった。打てばひびくほどの友誼に結ばれていたわけではない。また時宜を得ていなかった。

 なお交流事業は堆積、深まりこそすれ、失われることはない。いずれかの春に逢えば芽が吹き、花咲くことである。

 今後5年、10年後に何ができ、どうなっているか。計画がすぐれた未来性をもち、市民に共感されるなら必ず実行、実現される。岡山発信で言えば

1.洛陽の豊かな文化、歴史を共有しよう。破壊と創造をくりかえしてきた古都は「人間のダイナミズム」を教えてくれる。
2.滞在型の交流が望まれ、共通のプロジェクトで利益を分かちあい、両国に揺るぎない友情を培おう。
3.長期の交流計画を立ちあげ、環境保全、緑化など人類に裨益する夢プランを出そう。

 これらのことが次世代の日中交流を促進する。必至の情勢として近未来が構築されなければならない。
(協会理事 宮本光研)

世界遺産めぐり(3) 龍門石窟 世界遺産に登録 今年は洛陽の旅が盛り上がる気配
 今まで、ユネスコ世界遺産に登録されていた中国の文化財は、23であったが、オーストラリアで行われていた第24回世界遺産委員会会議で中国が申請していた①洛陽龍門石窟 ②青城山と都江堰 ③明清皇家陵寝…明顕陵(湖北鐘祥市)・清東陵(河北遵化市)・清西陵(河北易県) ④安徽古民居建築…西逓・宏村 の4項目が新たに登録された。中国は、1985年にユネスコの「世界文化と自然遺産保護公約」に調印し、これで合計27ヵ所の文化遺産、自然景観地が登録されたことになる。

 龍門石窟は、洛陽市街から南へ13キロメートル行った伊水川両岸の山々、1キロメートルに渡って掘られている。敦煌石窟、雲岡石窟と並んで中国の三大石窟の一つに数えられ、山水の風光に恵まれた中国の重点風景名勝区である。龍門石窟の掘削は魏北の太和年間に始まったが大規模な造営は400年後の隋・唐時代まで続けられた。現在までに1952の洞窟、750の仏龕、40以上の仏塔と10万以上の大小様々な仏の彫刻が残されている。代表的な洞窟には、最も早く掘削された古陽洞、外観がもっとも雄大で派手な賓陽洞、100余りの漢方の処方が刻まれた薬方洞、15,000体の石の仏像が彫られた万仏洞、一番大きな仏像の高さが17メートル以上の青空大仏が安置された奉先寺などがある。

中国残留孤児問題を考える 棄てられた日本国民に公的支援を急げ!
 2月23日(金)午後6時半から。岡山県国際交流センターで、岡山県華僑総会主催の「中国残留孤児を理解する岡山の集い」が催されたので参加した。

 講演者は、竹川英幸大阪中国帰国者センター理事長。小学校6年生の時に敗戦になり吉林省勃利の開拓団から退却する途中、家族と離ればなれになり残留孤児になった。考えるに、この「残留孤児」という言い方は、少しおかしいのではないだろうか。中国在留日本人が、敗戦後自ら望んで残留したわけではない。日本国家が国の責任で安全無事に故郷の地日本に帰国させなかったために止むなく残留せざるを得なかったのではないか。残留孤児問題を考える基本は日本国民を海外に棄て去った日本国の責任を見逃してはならないということである。

 敗戦後55年経った今、10歳で孤児になった者は65歳になっている。年老いた孤児が実の親を捜して日本にやって来るが、親は、とっくに亡くなっている。肉親判明率は低下するばかりで、気の遠くなるような肉親探しが終る見通しは立っていない。

 厚生省は昨年から集団訪日調査をやめ、調査官を中国に派遣して「孤児認定」を行い、手掛かりのある人だけ訪日させるという方式に変えた。

 厚生省は、訪日しなくても希望すれば永住帰国を認めるといっているが、帰国のための情報は、定住地の決定、身元引受人をどう捜すかなど身寄りのない孤児たちは、不安を募らせており、新方式に対する不満の声があがっている。敗戦時の国の責任を自覚していないやり方と言われても仕方がないのではなかろうか。

 すでに帰国した帰国者も、日本で暗い苦しい生活を強いられている。

 戦争を実行した軍人に軍人恩給を支給し、その犠牲になった中国孤児には生活保護で生活しろという国の帰国者政策は容認できるものではない。

 帰国者の団体が「帰国者の公的支援法」を議員立法で制定するよう請願書を提出する。超党派で成立するよう祈っている。
(協会理事 岡本拓雄)

漢詩鑑賞  登鸛鶓楼      王之渙
白日依山尽 黄河入海流
欲窮千里目 更上一層楼
白日山に依りて尽き 黄河海に入りて流る
千里の目を窮めんと欲して 更に上る一層の楼
 鸛鶓楼は山西省の永済県にあった3階建ての楼の名前である。東南に中条山を望み、眼下に黄河を見下ろす名勝で、多くの人たちがここに遊び、詩を作っている。

 作者の王之渙は鸛鶓楼に登り、はじめ楼の2階にあって、沈む夕日と遥かな地平へ流れていく黄河のその果てまでを見極めようとして、楼の最上階へと歩を進めたのである。二十字の中に整然とした形式を保ちながら、雄壮で広大な大自然の風景をとらえ、しかも夕暮れの中に時の流れを描いてそこはかとない寂寥感をただよわせている。

 この書道作品は有名な西周毛公鼎銘文を臨習した上でその風格を保って金文字体で書いたものである。銅器銘文とは鐘鼎、戈戟、簋爵等に鋳或いは刻んだものだから鐘鼎文又は金文と称す。青銅器は商の時代より起こり、周の時代は盛んになった。資料によると現存の商、周の銘文の鋳有の青銅器は4000件以上である。銘文の内容はほぼ当時の祭儀、銘命、田猟、征伐、訴断、契約等の記録である。毛公鼎腹の内壁には銘文32行、489字を鋳してある。文辞は『尚書』如く古奥であり、周の廟堂の文字である。毛公鼎の文辞の長さは西周青銅器の銘文の中では雄をとなえられる。この銘文は中国の書道史においても顕著な地位を占める。毛公鼎銘文の筆法は穏健、遒勁、屈曲は円転、布局は自然錯落、字体は精美、端庄、質朴、渾厚、雍雅粛穆、気勢雄偉、巍巍壮観として西周青銅器銘文の精品である。
(中国留学生会会長 馬福山)

豆事典 漢字
 漢語は漢字で表記するが、総字数約5万に対し、常用字は約3千である。歴史は古く、最も早期では「甲骨文」があり、これは3000年以上昔の漢字である。古代、青銅器上に刻まれた「金文」も漢字の古体の一種である。秦は天下統一後、字体整理を行い、全国的に「篆書」の使用を定めた。後、篆書が簡略化されて「隷書」となり、さらに簡略化されて現在の「楷書」となった。

 長期間、中国では「繁体字(日本で言う所の旧字体)」が使用されていた。繁体字は画数が多く学習も困難なので、中国政府は1956年1月「漢字簡化方案」を出し、比較的大規模に漢字簡略化に着手し、1964年5月「簡化字総表」を全国に公表した。現在、台湾・香港・マカオ以外では、全て字画の簡略化された「簡体字」を使用している。
(「中国・情報早わかり」より)

「穴から穴へ13年」を読む 劉連仁と強制連行 早乙女勝元著 草の根出版会
 「劉連仁という人を知っていますか?」と聞かれたとしても、ほとんどの人は、とまどい気味に首をかしげるのではないだろうか。

 劉連仁は1913年生まれで、中国山東省草泊村に住んでいた。1944年8月のある朝のこと、法事の手伝いで家を出た彼は、突然に4人の男たちから銃剣を突きつけられた。村役場に連行され、200人の男たちと数珠つなぎの状態で港町青島へ移送された。貨物船の船底には約800人がぶち込まれていて、7日間かかって九州の門司港に着いた。

 全員が4班に分けられ、劉連仁らのグループを乗せた汽車は、北へ北へと走って日本列島のさい果ての地、北海道の留萌の炭鉱に着いた。ここの明治鉱業昭和鉱業所が労働現場だった。

 作業は、昼夜二交代制だった。朝は暗いうちから坑内に入り、出てくる時も暗くなってからで、日の光を見ることはめったにない。毎日およそ12時間近い重労働で、しかも、1日にトロッコで何車分という過酷なノルマが課せられていた。ぐずぐずしていたり、ノルマが終らないと、シャベルやつるはし、鉄棒などでこっぴどく殴られた上に一方的に労働時間が延長された。鉄棒などで殴られれば、たちまち皮膚は裂けてしまい、傷口に石炭屑が入って、たいていは化膿する。半年以上も風呂に入れず、不衛生な体では抵抗力は望むべくもなかった。昼食の休憩時間は10分ちょっとで給えられる食料は饅頭1個きり。栄養不足から失明した者もいる。事故死、衰弱死、病死続出で、まさに生き地獄そのものだった。

 1945年7月末のある日、現場監督ともみ合いになり、このままでは殺されると思ったので逃亡を決意し、うまく脱出に成功した。

 着のみ着のまま逃走したので金も食料も無い。山中の雑草で飢えをしのいだ。昼は出歩かないようにして、夜になると農家の畑で野菜を頂き、海岸では、流れついた昆布を拾って、がつがつむさぼり食った。昼はほら穴にかくれ、夜は穴から出て食料を探す。一ヶ所に長くいると見つかり易いので、穴から穴へ移り、終戦も知らず13年逃亡生活を続けた。1958年2月、偶然にも狩猟に来た日本人に発見され捕われの身となった。札幌の北東にあたる当別町郊外材木沢の山中だった。手足の凍傷がひどく、歩くのもやっとの状態だった。

 劉連仁は、札幌の北警察署に移されたが「雪の当別山中に穴籠り、中国人?不審な男」の新聞報道を見て、北海道華僑総会、席占明事務局長が駆けつけてきた。劉連仁は、ここで、はじめて戦争は13年も前に終わったこと、しかも日本は中国を含む連合国に無条件降伏して敗戦国になったことを知ったのである。
(協会理事 岡本拓雄)

ちょっとチャット(2) 少林寺拳法について                  協会理事 赤木 宣雄 
 1年前の2000年3月号(132号)の本紙に人民中国2月号より"国際化が進む少林寺拳法"というタイトルで載っていたものを全文そのまま掲載しましたが、その時紙面の都合上書けなかった事を今回書かせていただきます。書けなかった事とは"少林寺拳法"という文字・名称の事なのです。人民中国2月号にはタイトルも含め5ヵ所にこの"少林寺拳法"という文字が出ています。同じ丘桓興記者が翌3月号に中国古寺巡礼③で"少林寺―禅と拳法の整地"というタイトルで記事を書いておられますが、しかし何故か"少林寺拳法"という文字は一ヵ所もないのです。その代わり2月号にはなかった"少林拳法"や少林拳"という文字が出てきています。実は正しいのはこの"少林拳法"なり少林拳"なのです。ですから人民中国2月号の正しいタイトルは"国際化が進む少林拳"なのです。原因が丘記者の単なるミスなのか、訳者のミスなのかは別としてこの"少林寺拳法"という名称は普通名称ではなく財団法人少林寺拳法連盟所有の固有名称なのです。創始者は岡山県作東町出身の宗道臣師家(1911年2月10日~1980年5月12日)です。

 宗師家は特務機関員として東満州を中心に活躍していましたが敗戦をソ連との国境の町、綏陽で迎え、敵地における敗戦国民の惨めさや悲哀を十二分に体験し、イデオロギーや宗教や道徳よりも国家や民族の利害の方が優先されるという国際政治の現状から、「人・人・人すべては人の質にある」と悟られた。そして帰国後の日本の荒廃ぶりに将来を憂い志のある青少年を集め祖国復興に役立つ人間を育てようと決意され、中国在住中に学んだ"少林拳法"や少林拳"をはじめ各種中国武術を基に、日本人に合うように整理再編し、既存の日本武術やボクシングなども参考にして新たに作られた武術なのです。そして"少林寺拳法"と名付けたのは宗師家の先師である文太宗老師が若い頃、河南省の嵩山少林寺の僧で、この文老師より法脈継承の儀式を行った場所でもあり、祖師達磨の遺跡でもある少林寺の名を永く世に残す事を願い付けたものなのです。洛陽と鄭州との間にあるこの嵩山少林寺を私たちは祖山と呼んで憧れの地、心の故郷としているのです。

活動日誌
2/8 中国三誌友の会第97回例会。ピープルズチャイナ誌の記事について。中国訪問者の報告。
2/27

岡山市・洛陽市友好都市締結20周年記念事業実行委員会に片岡会長、松井事務局長参加。

会員消息
 加計学園を創立し、今日まで理事長の任にあたっていた加計勉氏が退任し、後任に加計孝太郎氏が就任した。

中国関連消息
張哲東京支局長を招いて友好交流会
 岡山中国三誌友の会第100回例会記念行事の一つとして、人民中国雑誌社の張哲東京支局長を招いての友好交流会が開かれる。張氏は、4月9日夜、来岡。10日午前、協会を表敬訪問、午後5時より八仙閣で交流会。11日帰京の予定。

中国映画 「初恋の来た道」
 ベルリン国際映画祭で銀熊賞受賞。巨匠張芸謀の最新作。

 舞台は華北の美しい村。主人公は都会からやって来た若い教師に恋して、その想いを伝えようとする18歳の少女。少女は想いを手作りの料理の数々に込め、やがてその想いは彼のもとへ届くのだが、時代の波(文革)が押し寄せ二人は離れ離れに。

 真心とは?人間が誠実であるとは何か?を切々と、そして瑞々しい映画美で描き出す感動作。

 3/17(土)~3/30(金) 12:45、14:45、16:45、18:45 シネマクレールにて上映。(協会共催)

 協会で、前売りチケットを1,500円で販売しています。

先憂後楽
 3月10日、谷口澄夫先生の合同葬が開催され2,000名近い参列者が最後のお別れをした。教育界のみならず政・財界など岡山県を代表する人々ばかりだったが読まれる弔辞は普段の言葉で語られ先生の人間味あふれるお人柄を忍ばせた。

 陝西は福武教育振興財団の理事長を務めておられたが、この財団が毎年実施している海外教育事業調査団の団長として前後4回中国を訪問されている。方面は北京、上海、広州、大連、長春、瀋陽、洛陽、西安、フフホト、包頭、敦煌、ウルムチ、トルファンと実に広範囲にわたっている。

 また10回記念として訪問した新彊トルファンでは40度を越す暑さの中でも休まれることなく団員と行動をともにされた。

 道中多くの句を詠まれたがその中に「炎熱の地平に挑み行く」という句がある。厳しい自然の中を生き抜く人間の強さを表現し、米寿にならんとされていた先生の強靭な気力を伺わせた。

 日中友好にも深い理解と支持を寄せていただいた偉大な大先輩を衷心より追悼したい。(松)


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