2001年6月
平成13年6月
  146号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
岡山市・洛陽市友好都市締結20周年記念事業 大中国展 ―日中友好コーナー賑わう―
 5月23日から29日まで、高島屋岡山店8階で、岡山市・洛陽市友好都市締結20周年記念事業の一つとして大中国展が開催された。協会は、会場の一隅に「友好コーナー」を設置し、20周年を市民にアピールするとともに、協会への理解と協力を訴えた。連日多くの市民が訪れ賑わった。

 岡山市から提供された、岡崎平夫岡山市長と任普恩洛陽市長が交わした「友好都市締結議定書」と「万古長青」の友好の旗幟は、平素は見られないものだけに市民の注目の的であった。萩原誠司岡山市長と片岡和男岡山市日中友好協会会長の挨拶文と、締結当時の交流、3周年、5周年、10周年、15周年、その間の写真パネル20枚、交流の足跡などが展示された。20年前の日中関係について質問する人、自分が写っている写真に歓声をあげる人など、それぞれの思いで見学していた。

 洛陽人民政府派遣の書画家、屈吟庵さんと屈穎穎さんの即席揮毫と販売をした。希望の図柄と色で牡丹を画いてくれるので注文が殺到して、翌日まで待たされた人も出た。

 屈吟庵さんは、中国牡丹書画院名誉院長と洛陽中国書画院副院長の肩書きを持つ一級美術師で、各地の作品展で数多くの金奨を受賞している。来日は2回目。字の裏書の特技の保持者・見学者の氏名を聞いて裏書きをし、めでたい言葉を書き添えてプレゼントするので、もらった人は大喜びだった。

 屈穎穎さんは、吟庵さんの娘さんで、洛陽中国書画院副秘書長と洛陽龍門購物中心書画精品屋経理の肩書きを持つ画家と実業家で、硬筆画牡丹の名手である。初めて来た日本で、言葉が通じないのも意に介せず、積極的にお客と交流していたのが印象的だった。

 また、洛陽特産の杜康酒の紹介と唐三彩の販売コーナーを設けた。杜康酒は中国の銘酒中の銘酒。日中国交回復の時、当時の田中角栄総理が杜康酒を好んだため、中国の周恩来総理が河南省へ専用機を飛ばし急遽とりよせて宴席に間に合わせた逸話が残っている。日本の酒造り職人のことを杜氏と言うが、この杜というのは、まさしく杜康の杜である。杜康酒が酒の原点であり、この杜康酒の産地が友好都市・洛陽市の汝陽県杜康村である。今回、洛陽市民政府の特別の協力と税関の特別許可を得て、限定1,000本輸入した。一般販売できないので、希望者に協賛金の形で1本2,500円(税別)で注文を受け付けた。

 唐三彩は、タイル板と大小さまざまの馬が展示された。高さ30センチの馬が売り切れて、急遽とりよせるといううれしいハプニングが起きた。2,500円という安さが受けたようだ。中国旅行の経験者は、中国で買うよりは安いと話していた。

 会期中、協会理事が交替で店番に出た。みんなの協力で、岡山市・洛陽市友好都市締結20周年記念事業が計画どおり、一つ一つ成果を挙げているのは、まことに喜ばしいことである。

 
小林よしのり『台湾論』を越えてを読む 作品社 1,800円         協会理事 岡本 拓雄
 この本は今、中国から講義をうけている「新しい歴史教科書をつくる会」の歴史教科書の著者のひとりである漫画家の小林よしのりが書いたマンガ「新ゴーマニズム宣言スペシャル台湾論」を検証、批評する主旨で書かれたものである。

 執筆にあたっているのは、「東アジア文史哲ネットワーク」に集まった日本・台湾・中国などの研究者と日本・台湾の協力者である。したがってそれぞれの専門的立場から多岐にわたった内容になっている。

 第一部は小林よしのり「台湾論」のどこが問題か?

 第一章は、日本の植民地支配は良かった?第二章は、台湾人は親日的?第三章は、日本と台湾の歴史的関係。

 第二部は、小林よしのり「台湾論」の背景。第四章は、小林よしのりを解説する。第五章は、小林よしのりとネオナショナリズム。第六章は、これからの日本・台湾・東アジアの関係を考える。

 特別インタビュー陳梅郷と吉田有希の小林よしのり「台湾論」は針小棒大と台湾・東アジアを考えるための推薦文献116冊から成っている。

 小林よしのりは、さきにマンガ「新ゴーマニズム宣言スペシャル戦争論」を出版して多くの若い読者を獲得した。この「戦争論」の延長上に「台湾論」が描かれている。「戦争論」は「祖国のために命を捧げる」という「日本精神」の価値を説いたマンガであるが、戦後民主主義的なものによって否定された「日本精神」が旧植民地の台湾の中にあるという物語の構造になっている。小林よしのりは、アジア航空に乗って、ジャパンロビーたちの出迎えを受け、アンバサダーホテルに泊まって、日本語の話せる台湾人から「日本の要人」として接待を受け、反中国的な案内人の説明を聞いて「台湾論」を画いているが、ある特定の日本人にとっては心地よい側面を持っているが、あまりにも自己中心的で国際的に通用する論ではない。今年の2月に翻訳本が台湾で発行されるや大騒ぎとなり、終に小林よしのりは、入台禁止処分になった。

 「日本人」であることが心地よくなるために、かつて日本の植民地だった「台湾」をダシに使い、「台湾」との対比によって、東アジアの別の域や国に対する誹謗・中傷を行っているのは許せない。(文中敬称略)

台湾訪問記(3)                                協会理事 岡本 拓雄
 台北市の見学場所を二二八記念館と順益台湾原住民博物館と故宮博物院の3ヶ所指定して案内を依頼しておいたので計画どおりの旅ができた。

台北二二八記念館
 台湾総統府の近くの二二八平和公園の一角にある。北バスセンターまで迎えに来てくれた台北在住の教え子4人と合流して総勢7人で歩いて行った。5分ほどで公園に着いた。この二二八記念館、日治時代(日本の植民地時代を台湾ではこう呼んでいる)NHKの台北放送局(JFAK)として使用されていた建物で、1945年8月15日、昭和天皇の敗戦の詔書の王音が放送された歴史的な建物である。

 日本人が台湾の二二八事件を知ったのは、事件が起こってから何十年も経ったつい最近のことである。14年前まで戒厳令が施かれていて、国民党政権は二二八事件に触れることをタブーとし、書くことも語ることも禁止していたからである。

 日本の敗戦で植民地から開放された台湾の人たちは、父祖の国・中国に復帰したと大変喜んだ。全島の町や村に「光復山河」「歓迎祖国復帰」のアーチが建てられ、みんな心から解放を祝った。

 1945年10月、国民党軍12,000余と官吏200余名が陳儀長官に卒いられて基隆港に上陸した。何百キロも離れた田舎からも、たくさんの人が祖国の兵隊を歓迎するため港に出向いた。ところが上陸した国民党軍の低い士気と、番傘を背負い天秤棒で釜や薪を荷ったわびしい身なりに、劣悪な装備を目のあたりにして、喜び勇んで出かけた人々は驚き失望した。国民党軍への驚愕と失望は、「祖国復帰」に一抹の不安を抱かせ、期待と喜びに微かな影を落とした。このことも二二八事件の遠因になっていると思われる。

 二二八事件は1947年2月27日の夕暮れどき、台北市の淡水河沿いの台湾人商店街の大稲●(つちへんに呈)で起きた。密輸タバコの取締員(広東人)が中年の台湾人寡婦から、商品の密輸タバコの没収だけでなく所持金までも取り上げたため、寡婦は跪いて現金の返却を哀願したが、返却されないばかりか銃で頭部を殴打され血を流して倒れた。一部始終を見ていた群衆が憤慨して、一斉に取締員らを攻撃したため、取締員らは逃げながら発砲、傍観の一市民に当たって即死させた。それがいっそう群衆を刺激することになり、ただちに近くの警察局と憲兵隊を包囲して、逃げ込んだ取締員らの引き渡しを要求したが拒否された。

 翌28日午後、起こった群集は長官公署前広場に集まり抗議のデモを行うと同時に政治改革を要求した。ところが長官公署の屋上から憲兵が機関銃で群衆を掃射し、数十人の死傷者が出る惨事となった。市民は放送局を占拠して、全台湾に向けて事件の発生を知らせた。3月1日には事件は台湾全土に波及した。陳儀行政長官は台湾人の要求を受け容れるかのように装う一方、ひそかに国民党政権中央に増援部隊の派遣を要請するとともに、危険人物のリストを作成し、台湾人の大粛清を準備していた。

 3月8日に、北部の基隆港と南部の高雄港に上陸した増援部隊は、そのまま手あたりしだいに台湾人に向けて発砲した。台湾人に対する無差別の殺戮は基隆と高雄に始まり西部から東部に転じて、約2週間で台湾全土を完全に鎮圧した。殺戮には機関銃が使用されたほか、鼻や耳を削ぎ落とした上に、掌に針金を通して数人一組に繋いだり、麻袋に詰めて海や川に投げ捨てるなど、きわめて残虐なものであった。その数約3万人といわれている。

 台北のまちかどで起きた小さな事件がきっかけで、台湾全島をゆるがす大騒動に発展した原因は、国民党の官吏と軍人の無規律、横暴、貪欲にある。二二八事件は、起こるべくして起こったと言っても過言ではない。

 さて、二二八記念館であるが、事件勃発後50年経った1997年2月28日に開館した。これより先1990年2月に、わが国の国会にあたる立法院で、初めて「二二八事件」の犠牲者に対して黙祷が捧げられた。台湾の民主化の流れの中で生まれた記念すべき施設である。

 1階は二二八事件の背景と原因と経過と影響を明らかにする文献・図片・文物等が展示されている。2階は、事件で殺された者の遺品や当時の出版物、事件後の特務機関によるテロの恐怖、公義の和平運動等の写真が展示されている。入場料20元(約80円)

 せっかく異国の支配から開放されて祖国復帰を喜んだのも束の間、国民党の軍隊に無差別に多くの人を殺され、その後も戒厳令の下、恐怖政治におののいた台湾人の心情は察するに余あるものがある。

漢詩鑑賞  尋隠者不遇     中唐 賈島
松下問童子 言師採薬去
只在此山中 雲深不知処
松下童子に問えば 言う師は薬を採りに去ると
只此の山中に在らんのみ 深くして処を知らず

【鑑賞】 ある日、作者の賈島は友人の隠者を訪ねていき、松林のもとの庵に着き、召使の少年に聞くと、少年は「先生は薬草を採りにお出かけです。」と応えた。そうすれば、隠者はほかでもない山にいるに違いない。けれども、雲が深く立ち込めていて、そのありかもわからない。

 賈島(779~831)。字は浪仙、別に●(もんがまえに良)仙。号は碣石山人。範陽(現在の河北省●(さんずいに豕)県の人)。唐朝中期の著名な詩人。いくたびも科挙に落第して佛徒となり、無本と号した。その後、洛陽に出てきて韓癒(768~824)に文章を学び、僧籍を去って進士に及第した。元稹(779~831)、白居易(772~846)の平易、通俗な詩風に反対し、苦吟して字、句を練るべきことを主張した。

 賈島は深山幽谷、奇松怪石、雲霧繚●(いとへんに堯)として知られる黄山に遊んだという伝えはなく、この詩も黄山で作られたものではないであろう。しかし、有名な黄山には隠者がよく似あう。この詩をあえて黄山の項に加えた所以である。深い山に隠れ暮らし、そこで山菜、薬草を採り、自生のものを食して生きる―自然とあくまで一体となる者こそ、真の隠者と考えられていた。

 賈島のこの五言絶句は雲たれこめた深山と松下の童子を配し、その背後には見えざる隠者があって一幅の山水画楽しめるようだ。隠者は作者の理想であろう。整然とした20字の詩句には一点の無駄もない。

 作者の賈島は苦吟の詩人として知られている。文を練り上げる有名な「推敲」という言葉は彼の詩作にまつわる物語からでている。五言律詩「李凝の幽居に題す」の第二連に「鳥は宿す池辺の樹、僧は敲く月下の門」とある。この中の「敲く」は初め「推す」であった。そのどちらが良いか、熟考、苦吟の後に「敲く」になったというのである。

 この篆刻作品はリンゴの木を印材に遊印書体で作ったものである。「遊印書体」というのは最近、世間に流行り、絵手紙などに使われるいわゆる自由自在で、「あそび」書体の印のことである。リンゴの木の印面、枝などの自然の形、特性を利用して、自由書体の手書きの漢字、カナ文字を使った手彫りのものである。この印は伝統的な篆刻作品と違い、自由で手書きの書体で完成している。例えば「松下門童子」の印は金文書体でありながら、「松、下、子」などの字を昔の字より簡単にして、読みやすくした。「只在此山中」、「雲深不知処」の印も手書きの字体を自然に変貌させ、伝統的なかたい法書より自由、自然なイメージを感じさせる。

 最後に申し上げたいのは、この印材になるリンゴの木は印を作るだけのために木を切ったものではなく、豊かな果樹園のリンゴの木から採られた剪定枝一つ一つの無造作でかわいい表情を生かすため、大自然の恵みに対する感謝と地球への小さな思いやりでこの印材に使ったものである。
(中国人留学生 馬 福山)

洛陽の伝説と民話 より (1)                              片山 義郎 編訳 
 岡山市・洛陽市友好都市締結20周年記念事業の一つとして企画した「洛陽の伝説と民話」の出版準備は、着々と進んでいます。翻訳者・片山義郎さんの諒解を得て、前宣伝を兼ねて、その中の一話を紹介します。挿絵は家野亮子さんです。

庶民の味方 董老官
 清のころ、偃師県尚荘村に董という人がいました。この人は十三省都察院の都御史(行政監察庁の監察官)だったことがあり、年をとったので引退して故郷に近い洛陽城内に住みました。彼は生涯清廉潔白な役人で、どこへ行っても民百姓の苦難を考えていましたので、人々はみな彼を尊敬して董老官と呼びました。董老官の物語は洛陽の大通りから路地裏まで、また女子供にいたるまで誰でも知っています。ここではそのひとつをお話しましょう。

ロバを叱る
 董老官が洛陽に隠退していたころ、洛陽の県知事は大雨が降ると人夫に輿を担がせ、役人たちをつれて街へ遊びに出るという風変わりな道楽を持っていました。自分は輿に乗っているのに、人夫や役人たちには雨具をつけさせません。そのうえ街の者には雨に濡れたまま礼をさせるのでした。こんな道楽にふけるのでみんな彼を恨みましたが、逆らう者は誰もいませんでした。のちに人々がこのことを董老官の耳に入れましたので、彼はこの変な知事をこらしめてやろうと思いました。

 ある雨の日に董老官は一頭のロバをつれて街で知事を待ちかまえていますと、ほどなく知事が輿に乗ってやってきました。

 輿が近くまで来たとき、董老官はわざとロバに一鞭打って走らせました。ロバが街なかをけんめいにはしりましたので、董老官は知事の輿を見ながら「ロバを止めろ!ロバを止めろ!」と大声で叫びました。

 街の人々はそれを一斉に助けにきました。

 知事は輿の中で人々の叫び声を聞いて、「わしが遊びにきているのに誰が騒いでおるのか?引っ捕まえろ!」と役人たちに命じました。

 「申し上げます。あれは董老官がロバを捕まえているのです」と役人が答えました。「何?」と知事が輿から顔を出して見ますと董老官がいたのでびっくりして、「みなの者、早くロバを捕まえろ!」と叫びました。

 人夫や役人たちは知事を恨んでいましたから、命令を聞くと輿をどんと放り出し、知事がひっくり返ったのもかまわずロバを捕まえにいきました。

 知事は痛さをこらえて輿からはい出し、董老官の方へ行きました。そのとき人々がロバを鞭でたたきながら、あてこすりを言いました。

 「この馬鹿め!雨の降らぬときは外へ出ぬくせに、雨の日に外へ走り回るとは、もっと調教してやらねばならん。今度雨のときやたらに外を走り回ったら、たたき殺してやるぞ!」

 董老官はロバを叱りつけ、知事には気がつかなかったふりをしてロバを引いて行ってしまいました。

 知事は董老官の言外の意味を悟り、しらけた気持ちになって役所へ帰っていきました。それから知事はもう雨の日に外出しなくなりました。

ちょっとチャット(5) 「台中日本人学校」再建記念式に参加して     協会理事 片山 主計 
 5月4日、標記式典に招かれて台湾まで行ってきた。「台中日本人学校」とは過去3年間私が勤務した学校で、一昨年の台湾大地震によって倒壊したものである。

 テレビに写し出される惨状に肝も潰れる思いをしたのは1年半前のことだった。毎日通った道が、買い物をした市場が…押しつぶされた校舎が、亀裂だらけの運動場が。私はじっとしておれず、すぐに募金活動を開始し、岡山市で集まった金額600万円余を携えて台湾へ飛んだ。

 半年くらいは休校になるかと思いきや、地震後20日で現地や幼稚園を借りて授業を行っているという。台湾側の絶大な援助のもとに、新しい土地を提供され、今立派な、日本人学校では世界一といわれる校舎が完成した。

 式典は、厳粛な中にも国際色豊かで心暖まるものであった。両国国旗の立つ中で、私は子供たちといっしょに両国の国家を思い切り歌った。そこには国旗国家の問題など微塵もない、台湾に住まわせていただいている感謝と、日本人としての誇りがあるだけであった。羽織袴姿の校長挨拶、ラフなスタイルの台中県知事挨拶、そして日本からの客人。なべて台湾に対する感謝と、この式典での子供たちの素晴らしさを称えられた。

 きちんと座って、話される人の顔を食い入るように見ている1年生。児童会代表・生徒会代表の堂々とした挨拶、そして最後は児童・生徒による合唱曲『ふるさとの四季』であった。この「ふるさと」に始まる唱歌メドレーは、日本を離れて生活している万人の心を打ち、客人である私でさえ目頭を押さえずにはいられなかった。プラスバンドでごまかして、まったく歌を歌わない日本の中学校の卒業式、それに比べてここの生徒の歌声は「これこそ音楽だ」というものだった。いじめも非行もない学校。私は大声で叫びたい、ここにこそ本当の教育があると。

活動日誌
4/24 岡山市国際交流協議会総会(協会は団体会員加入)
5/11 中国三誌友の会、第100回記念親睦旅行。中国古代文明展参観(広島県立美術館)
5/17 会報145号発行
5/23 グループ風雅演奏会
5/23 大中国展(29日まで、高島屋岡山店)
6/15

沈文玉人民中国雑誌社社長訪日歓迎会

会員消息
【入会】
岡山市岩田町、岡山ビジネスカレッジ(賛助会員)

中国関連消息
日中友好ボーリング大会
 恒例の友好ボーリング大会が下記のとおり開催される。7回目の大会である。友好第一!比賽第二!のスローガンの下、年齢、性別、経験の有無を問わない誰でも参加できる。勿論協会会員外でも参加できる気楽な大会である。今年も両備ボウルの協力で、シューズ代無料の上、2ゲーム楽しんで600円。表彰式を兼ねた親睦会もある。
日時 6月30日(土) 14時~16時
集合 13時30分(時間厳守) 遅れた場合は参加できない
場所 両備ボウル(当日、直接行く) 桑田町13-32 TEL:231-6215
参加料 600円(2ゲームと親睦会費) 当日受付
申込み 岡山市日中友好協会へ TEL:225-5068
予定人員

日本人20名、中国人20名

先憂後楽
 教育事情視察団で上海からの帰途、日本は本当に豊かで良い国なのだろうかと、つくづく考えさせられた。おりしも、上海では秋のAPEC会議に向けて経済貿易相会議が開かれており、李嵐清副総理が上海入りするなど活気に満ちていた。

 学校で生徒が海外体験旅行する場合、修学旅行でなければ先生は引率であっても校長からの出張命令は出ず、自主的に行ったという形になる。もちろん、出張旅費は出ない。国際化を推奨はするが金は出ないというのが日本の現状だ。

 しかしこれでは、せっかく学校交流の気運が盛り上がり、相互訪問が実現しても、長期的な交流には支障をきたすであろう。今後の国際的な視野にたった青少年の育成という観点からも、教育予算への配慮を望みたい。

 情報化教育(中国では信息化教育)でも特に上海の場合は日本の比ではない。あの人口が多い上海で幼稚園から大学までの学生10人に1台のコンピューターがまもなく達成されるという。そしてそれらはすべてネットワークで結ばれるらしい。とにかくやり始めたら早い国だ。(松)


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また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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