2001年7月
平成13年7月
  147号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
人民中国雑誌社 沈文玉社長を迎え  「人民中国」について懇談
 6月14日、人民中国雑誌社の沈文玉社長と王衆一副社長が、張哲東京支局長の案内で、来岡。15日10時、協会を表敬訪問したあと、11時30分から八仙閣で開かれた歓迎昼食会に臨んだ。会には、中国で編集している日本語の月刊雑誌「人民中国」の愛読者(岡山・中国三誌友の会員)と協会理事合わせて30人が出席して、忌憚のない意見の交換をした。

 沈文玉社長は挨拶の中で、岡山の読者が「人民中国」誌を愛し、愛情を込めて読んでくれていることに感激している。また、岡山の「中国三誌友の会」が、平素、日中両国の友好に尽力すると共に、中国三誌の普及を熱烈に図っていることに敬意を表し、感謝すると述べた。

 毎月、読者から貴重な意見を頂いているので、それを参考に誌面を刷新して、時代の変化と要求に応じた良い雑誌作りに努力している。文字離れをしている若者たちが手に取り易いように、表紙を、中国の各界の若い成功者で飾ったり、文字を減らして写真を増やし視覚的魅力を出したり、いろいろ工夫している。今後とも誌面向上のため、アドバイスを頂きたい。誌名変更については、創立50周年までは現在のままでいくので諒解してほしい。

 読者からは、意見を言ったら早速採用されて、毎月の号数の文字が大きくなったと、お礼の言葉が述べられた。また、今後掲載してほしい記事や写真について、ひとりひとり細かな希望を話した。短時間に充実した話し合いができた。

 
岡山県日中教育交流協議会 「悠久」5号発行
 日本と中国の青少年の交流が年を追う毎に盛んになっている。夏休みに、アムダグループ国際貢献トピアの会が、洛陽市申窪小学校、上海市威海路小学校の児童を招いて、アジア子どもサミットを開く準備を進めている。阿波村立阿波小学校の6年生は、今夏も昨年に続いて第4回中国体験学習を実施する。

 7月に発行された岡山県日中教育交流協議会の会報「悠久」5号に阿波小学校の体験学習の報告が載っているので紹介する。
北京市唐家嶺小学校との交流  阿波小学校校長 森脇 利夫
 平成12年度は、第3回目で児童5人と保護者を含め計11人が、8月8日から11日の3泊4日の日程で、岡山空港を発ち上海から中国の首都北京市へ行き、現地の小学生との食事や観光も含めての異文化交流の体験学習を行ないました。

 交流をした学校は、阿波村と同じくらいの面積の中日友好農場の中にある、全児童約200人の北京市唐家嶺小学校でした。

 初めての中国への訪問で、全員がとても緊張した気持ちで交流会の会場へ案内されました。机上には、中国の子どもたちが収穫した葡萄と桃が並べられ、ジュースも用意されていました。

 早速、それぞれの代表あいさつで交流会が始まり、お互いの児童の出し物の披露を行いました。本校の児童は、日本の遊びの一つとして「けん玉」を紹介しました。また、昨年運動会で取り組んだ「よさこいソーラン」の踊りや「ふるさと」の合唱と笛の演奏を行いました。中国の児童はトランペットの演奏や日本でおなじみの「四季の歌」を電子オルガンで演奏し、全員で合唱しました。

 続いて、交流会でお互いが一緒に楽しめるものはないものかと事前に相談して、練習を重ねていた卓球の交流が実現しました。中国では、卓球が盛んで強いのだろうと子どもたちも予想していましたが、やはり、実際に対戦してみてかなりの力の差を感じたようでした。最後には、とうとう先生同士の対戦になり、その場の雰囲気もとても和やかになったようでした。

 交流会の最後は、お互いの記念品の交換をしました。本校の子どもたちは、けん玉と図画工作で制作した浮世絵の版画を渡しました。

 その後、校内の教室や運動場の見学をさせてもらい、パソコンが48台もあるのに驚きました。

 それから、レストランでそれぞれの学校の児童が交互にテーブルに座り、本場の中国料理を囲んで楽しく昼食をしました。言葉は通じませんが、身振りや手振りやメモ帳に漢字を書いたり通訳の方に聞いたりしながら積極的なコミュニケーションがしだいにとれるようになってきました。

 帰りのバスの中では、お互いの住所を紙に書いて交換するなど、自然の形で打ち解けた雰囲気に包まれ、別れの際には、少し淋しさを感じて、涙ぐむ児童の姿がみられました。

 もっともっと時間があれば、と思われる交流を経験した1日でした。

私と岡山(24)  後楽館中高校教師 張 晶
     洛陽の外国語学校から来ました。  岡山は静かできれいなまちですね
―張先生は4月に新しく来られたのですね。
張:そうです。昨年の耿先生と同じ洛陽の外国語学校から来ました。

―今お住まいは?
張:原尾島のマンションから毎日自転車で通っています。マンションの生活環境はとても良くて、満足しています。冷房もまだ使っていません。買い物も不自由していません。ハッピータウンも近いし、トポスや100円ランドも良く利用しています。

―学校の状況は?
張:日本語の授業は、生徒は50人、教科書は去年と同じ日本製のもので教えています。中学の方は6人です。みんな真面目です。任期は1年ですから、来年3月で交替です。4月にはまた次の人が来ます。
 非常勤の佐藤先生のほかに中国語でお話し出来る方がいないので、皆さんとの意思の疎通は全て日本語です。でも英語の先生方にいろいろ相談したりしています。

―お留守宅は?
張:定年退職した父が、6歳の娘を見てくれています。まだ幼稚園ですが、この9月から小学校へ上がります。近所に友達がたくさんあるので、元気に良く遊んでいます。淋しがってなんかいませんが、わたしの方が心配で、こちらからよく電話をしています。

―これから、しばらく岡山での生活をなさることになりますね。岡山の印象は?
張:一口でいえば、静かできれいな、よい町ですね。わたしは好きになりました。一人住まいですが、楽しくやっていけると思います。趙先生(韓国から来ておられる韓国語の先生)がなにかと面倒を見て下さいますから、安心しています。

―ところで、日本語は大学で勉強されたのでしょうか?
張:いいえ。主に洛陽の外国語学校で習いました。
 大学は黒竜江大学へ行きました。父も母も山東省生まれですし、わたしもあまり日本語には縁がなかったのですがはじめて日本へ来て、いいところだと感じています。
 学校では外国語教師ですから、当然英語の先生、韓国語の先生との接触が多く、ほかの科目の先生とはお話しする機会があまりないのですが、いろんな方とも親しくなりたいと思っています。東京へ留学して来ている妹(張宝さん)とも日本の事情もお互いに知らせ合うことも出来ますし、もっといろいろと学びたいと思っています。

―そうですね。またとない良い機会ですから、日本文化の良い点をどんどん知って、吸収していただきたいですね。わたしたちの(市日中の)集会にも一度ご案内して、みんなにお話でもお願いしたいですね。良い時期をまた考えましょう。今日はどうもありがとうございました。どうぞ健康にも十分ご注意くださいますように…。(文責 家野四郎)

台湾訪問記(4)                                協会理事 岡本 拓雄
順益台湾原住民博物館

 台北中正国際空港での出迎えから見送りまで4日間、つきっきりで世話をしてくれた廖さんは、教員を退職したあと、台北の旅行社のガイドをして17年間勤めた経歴の持主である。私が原住民博物館に行きたいと言うと、廖さんは、台北に来る日本人の観光団で原住民博物館に行く者は、めったにいないのになぜ先生は、そこに行きたいのですかと問う。理由を話すと長くなるので、原住民に対し心の痛む思いがあり、単なる好奇心ではないことだけ伝えた。

 1942年、日本人が太平洋戦争の戦勝に酔っていた頃、師範学校の一期先輩の須永さんが、幹部候補生のバッジをつけた軍服姿で学寮に来た。軍の機密で詳しいことは言えないが、今、高砂義勇隊の中から選抜された優秀な兵十数人に特別な訓練をしていると話した。高砂族というのは、日治時代、台湾原住民をそう呼んでいた。清朝時代は「生蕃」、漢化の進んだものを「熟蕃」または「平浦蕃」と呼んでいた。今は「高山族」または「山地同胞」と呼ばれている。話をもとに戻すと、それから2年あと、新聞の一面を大きく飾った陸軍特攻隊高千穂空艇隊の隊長が須永少尉で、隊員が高砂族の青年であったのである。アメリカ軍の基地へ突入して全員玉砕した。あの時、軍の機密の訓練というのは、決死の斬込隊の訓練だったのだ。

 さて、原住民博物館であるが、故宮博物院から徒歩約2分の所にあり、1991年に個人の郷土愛によって創設された。「企業の利益は社会へ還元」するという林清富氏が、長年に亘って集めた文物を基礎として、原住民の豊かな文化と歴史を保存し継承するために、生活、服飾、宗教、集落等について詳しく紹介している。

 1階のインフォメーションコーナーには、日本語版のビデオが置いてあるので、映像によって原住民の生活についての基礎知識が得られる。2階には、各部族の工芸用品と住居の模型が常設してあり、日常用品を通じて生活を紹介。3階には、各部族の服装と装飾品が展示してあり、服飾文化と社会背景の関りを紹介。地下の1階では、祭祀用具を通じて信仰の世界を紹介している。

 1974年にインドネシアのモロタイ島で30年ぶりに発見された元日本兵は、台湾原住民のスニオンさんである。同じ「日本兵」として戦地で血を流した80,433名の台湾人(高砂族を含む)は、戦後「日本人」ではなくなったため充分な補償を受けていない。日本人として、心の傷む話ではないか。(完)

你好(ニイハオ)…洛陽編  第8回岡山市技術研修生報告会 
                           児子睦美さん、濱本明子さん、和仁久見子さん
 6月23日、西川アイプラザ友好交流サロンで、第8回岡山市洛陽派遣技術研修生3人の帰国報告会があった。

 1年間の留学生活で見てきた洛陽での人々の生活を、3人が「衣・食・住」を中心に話した。「食」の部では、中国の家庭料理「水餃子」の試食会があった。誌面の都合で、食の部のみ紹介する。

中国風水餃子作り
 中国では、お正月やお祝いごと、人が集まる時など、みんなで楽しく餃子を作ります。その量の多さは、日本人の想像をはるかに越えるものであり、まさにダイナミック!こんなところにも国民性が感じられます。日本は餃子と言えば焼き餃子が多いですが、中国は餃子と言えば水餃子のことを指します。

【材料】(約40個分)
  • 強力粉・・・300グラム
  • 豚挽き肉・・・200グラム
  • 白菜・・・300グラム
  • ニラ・・・1束
  • 生姜・・・親指大1個
  • 胡麻油・・・大さじ1
  • 醤油・・・大さじ1.5
  • 塩・・・小さじ1
  • 味の素・・・少々

【作り方】
(1)皮を作る
大きなボウルに粉を入れ、水4分の3カップを少しずつ加えながら、粉を寄せるようにしては掌で押さえうけ、これを繰り返しながらだんだん丸くまとめていく。多少ばさつく感じにかためにする。更によくこね、硬いゴムまりのようになってきたら、濡れ布巾をかけて30分寝かせておく。
(2)皮を寝かせている間に、具を作る。
【具の作り方】
  1. 野菜はすべて刻んでおく。白菜は塩少々を加え、塩もみして水洗いをしてからしっかりしぼり水気を切る。
  2. ボウルに先ず、挽き肉とニンニク、生姜、調味料を入れる。挽き肉に調味料がなじんだらニラを入れて混ぜ最後に白菜を入れて全体を良く混ぜる。
  3. 寝かせておいた皮の真中に穴をあけ、ドーナツ型にする。少しずつ輪を広げ、太さが直径2センチぐらいになったところで輪を切って、棒状にする。
  4. 太さ2センチの棒状になった皮を、打ち粉をしたまな板におき、長さ1.5センチくらいの長さに切っていく。
  5. いよいよ皮を伸ばしていく。まず、切り口を掌で押し平たくする。これを小さな麺棒で直径10センチくらいに伸ばしていく。
  6. 最後に、具を包んでいく。
  7. よく沸騰したお湯の中に餃子を入れる。くっつかないように、箸でつつきながら軽く混ぜる。ふきこぼれそうになったら茶碗に軽く1杯ほど指し水をする。指し水を3回くらいした所で味見をし、よかったら火を止める。
これで出来上がり。お好みでタレをつけて召し上がれ。

洛陽の伝説と民話 より (2)                              片山 義郎 編訳 
白馬寺 斉雲塔

 ずっとずっと昔のことですが、白馬寺の門から東へ300mほどの所に水の青々とした池がありました。それほど大きな池ではありませんが、底がわからないほど深かったのです。いつごろからかその池に一匹のガマガエルの精が住みつきました。このガマの精は雲や霧を吐き出したり、風や波を起こすことができました。怒りだすと跳び上がり、池の水が四方にあふれて大波となって村におそいかかるか、さもなければ農作物を水びたしにしますので、、当地の人々は不安でなりませんでした。このため人々はその池をガマ池と呼びました。

 白馬寺が建立されると、当時の人々は続々と寺へきて線香を焚き、ガマが災害をおよぼす有様を訴え、どうか罰してくださいと祈りました。ある年の12月8日、白馬寺から一人の和尚が出てきました。身には袈裟をまとい、手には金の鉢を持ち、足にはわらじをはいてゆったりガマ池のほとりへ来ました。和尚は念仏をとなえながら池の周りを3度回りますと、岸に立って金の鉢を上げてたたきました。すると心地よい音がひびき、遠くまで伝わりました。

 ガマの精は池の中でその音を聞き、よく見ますと勇ましそうな坊主頭の男が池のそばに立って戦いを挑んでくるようでした。ガマの精はそれを見ると怒って腹をふくらませたと思うと突然跳び上がりました。それと同時に天地は暗くなり、強風が起こって泥水の波が押し寄せました。和尚はガマの精の凶暴さを見て怒りをおさえられなくなりました。そこで金の鉢を上げ大波を踏まえてガマの精と格闘をはじめました。戦うこと九九八十一回、ガマの精はへとへとに疲れて技も使えなくなりました。和尚がそのすきに金の鉢を投げつけますと、カーンと大きな音がして小山が落ちてきたかのように、池もガマの精もすっぽりおおってしまいました。すると黒雲までが飛び散って青空となり、強風も収まって静かになりました。人々は知らせを聞いて急いで駆けつけ、和尚が災難を除いてくれたことを喜び合いました。

 ガマの精は金の鉢に閉じ込められて逃げ場もなく、「わたしを殺さないでください。これからは生まれ変わって悪事から足を洗い、仏門に帰依いたしますから」と和尚に救いを願うしかありませんでした。

 和尚は慈悲深い人でしたから、その願いを聞き入れてやりました。そして金の鉢のそばに立ってお経をとなえますと、突然鉢がぐーんと高くなり、あれよあれよという間に雲にそびえるほどの美しい宝塔になりました。上下合わせて十三層もありましたので、斉雲塔と名づけました。それからのガマの精は斉雲塔の下で年じゅう香を焚いて、それまでの罪をざんげしました。

 冬が去り春がきて、1日また1日、1年また1年と過ぎていくうちに、ガマの精の汚い皮が次第にはがれていき、やがて光り輝く金色のガマになりました。すがすがしい風が吹く月のきれいな夜になると、斉雲塔の上に金のガマがあらわれ、心にしみるようなきれいな声で「ケロ、ケロ、ケロ」と鳴くのが聞こえました。

 金のガマは今でも斉雲塔に住んでいると言われています。もし信じられなければ試してごらんなさい。白馬寺の門から東へ300mほどにある斉雲塔のそばへ行って力いっぱい手をたたくと、まるで金のガマの背中をたたいたように、「ケロ、ケロ、ケロ」という美しい声を聞くことができるでしょう。

ちょっとチャット(6) 私の中国友人                      協会理事 小路 廣史
 十数年前、協会に入会直後協会訪中団に参加し洛陽を訪問した。市長表敬の時、私が市職員だったことで、別に武振国市長と戴保安外弁副主任から両市交流について提案を受け、帰国後松本市長に報告した。両市の縁組は前職がらみで洛陽に親近感を持った。理事就任後は洛陽要人が来ると協会から連絡があり懇談する中で親しい人が増えた。だが数年前からは会長、事務局一部役員等で接しているので昵懇だった人とは疎遠になった。

 しかし留学生との交流は続いている。私宅に招いた人では今は音楽家の人もいる。日本の祭りを楽しんで貰いたくて家常菜(家庭料理)を供しハッピ、ハチマキで神社参り境内の夜店に中国の廟祭を思い出すとか。賑わう中で町内役員の招待で軽食を囲んで交流した。また洛陽、西安、武漢、柳州等へ帰国した人達から手紙や現地からの電話で「気候が良いので来ませんか」有り難いが実現せず。

 今も洛陽人のY氏との交流がある。彼は洛陽派遣で仲間と1年間留学して帰国後、再度来岡し自費で岡大の博士号取得。この間、家族を呼び寄せ、学費・生活費で奥さんの大きな助けがあっただろう。Y氏は現在大手IT会社のバリバリ社員だ。感心したのは日本の風習に早く溶け込んだことだ。盆・暮れには夫婦で挨拶に来るし、長女出産には日本流の「命名札」を持参した。「二人っ子」を心配すると外国では例外とのこと。

 特筆したいのは長男のB君で成績抜群。中学で生徒会長現在県立普通科高校の優等生。将来の進路は「航空工学」とか。そういえば中学の頃に飛行機の模型作りをしていたことを思い出した。もの静かな好青年だ。彼は父の願望で国立有名大学に見事合格するだろう。奥さんも日本語が上手になり生活も安定して喜ばしい。一家の日本滞在中を十分にエンジョイされたいと願っている。

活動日誌
6/15 中国三誌友の会、第101回記念・沈文玉人民中国雑誌社社長、王衆一副社長と懇談会(八仙閣)
6/19 洛陽の伝説と民話の編訳者・片山義郎氏と打合会(協会)
6/21 会報146号発行
6/30

第7回日中友好ボーリング大会(両備ボウル)

会員消息
【入会】
広常健二さん(岡山市幸町)

【人事】
永山久也下津井電鉄社長(協会副会長)が社長を退任して会長に就任、後任社長に永山久人氏が就任した。

中国関連消息
「悠久」5号発行
 岡山県日中教育交流協議会の会報「悠久」第5号が発行された。(事務局は当協会と同じ)主な内容は、第2回中国事情調査団速報・海外体験学習―阿波小学校・私の小さな交流の実践(小川政美氏)となっている。「悠久」5号希望者は、岡山市日中友好協会事務局までご連絡下さい。

ボーリング大会の結果
 協会主催、両備ボウル・玉撰洞・高島屋岡山店・綾野酒店・アジコム協賛で開かれた第7回ボーリング大会には、日本人22名、中国人18名計40名が参加した。協議の結果は下記のとおりである。
 全体優勝・・・山本 文(女)
 中国人優勝・・・韓 宇峰(男)
 男性最高得点・・・宗海 勝房(男)
 女性最高得点・・・劉 学軍(女)
 予想ニアピン賞・・・芝一之(男)、宗海勝房(男)、林美幸(女)、三上陽子(女)、渡辺隆啓(男)、醜靖宇(男)、王立平(女)
 予想ハズレ賞・・・山下通雄(男)
 ブービー賞・・・韓 雲龍(男)

先憂後楽
 歴史教科書問題をめぐって韓国、中国はじめアジア近隣諸国の猛反発を受けている。この問題は今に始まったことではないが、今回は8月に中学校教科書に採択されるかどうかという時間的な問題もあり、今後の日本政府の対応次第では外交上大きな支障となってくるだろう。

 1982年協会訪中団で洛陽市を訪問したとき、やはり教科書問題で日中間がぎくしゃくしていた。記者会見が開かれインタビューに応えた団長の赤木協会長は歴史を改鼠することは我々の意図することではない、大変憂慮していると述べ、洛陽側の理解を得た。民間の交流には何等支障がなかった。

 日本の教科書をめぐって何故こんなに近隣諸国が関心をもち、記述に反発するのか?と疑問に思う人が少なからず存在し、それがなんとなく反発への反発となっているように思われる。しかし、感情的にならず、痛みを受けた人々の声に真摯に耳を傾け、日本の外交に汚点を残さないようにしてもらいたい。それは屈辱でも屈服でも無い、日本として日本人として近隣諸国と仲良く付き合っていく上での前提条件であろう。(松)

「岡山と中国」ご希望の方にはご郵送いたします。  
また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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