2001年11月
平成13年11月
  151号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
第7回日中友好サマーキャンプ in 北房町 タイムカプセルを掘り出す 2001年へのメッセージ
 14年前の1987年8月、岡山市日中友好協会主催の第7回日中友好サマーキャンプが北房町上津井の運動公園で開かれ、特別企画として21世紀の開封を約束してタイムカプセルが埋められた。2001年には、日本と中国はどうなってるだろうか?そして世界は…と、みんなの熱いメッセージや記念の品物、新聞などが収められた。
第7回サマーキャンプ参加者(1987年8月・北房町海洋センター前)
 そのタイムカプセルが、10月20日、当時の参加者や北房町の関係者、吉備国際大学中国人留学生ら約30人が立ち合い、片岡和男協会会長、高野一男町長らがスコップで後援の一角からタイムカプセルの漬物の壷を掘り出した。

 壷は水に漬かっており、ビニルの袋の中にも水が浸み込んで、メッセージは紙を1枚ずつはがして判読しなければならないような状態であった。

 メッセージの用紙には、次のようなサマーキャンプ実行委員会の呼びかけが書いてあり、その横に参加者のメッセージを記入するようになっている。『本年は日本と中国が国交を回復して15周年を迎えます。でもこのところ日中間の話題と言えば、光華寮問題をはじめ必ずしも明るいものばかりではありません。そこで第7回サマーキャンプ実行委員会では、"日中友好の明るい未来を拓こう!"と、この夏日中友好のタイムカプセルを計画しました。カプセルを開くのは、2001年の7月7日、この日、日本と中国の関係が今より素晴らしい状況にあるように…』
            
14年ぶりに掘り出されたタイムカプセル
 2001年へのメッセージを2~3紹介すると、小学校6年生の女の子は、
「2001年には、中国と日本が簡単に行き来できて、言葉も少しずつでも覚えて、中国の人と日本の人がみんな友達になって楽しく過ごせるようになったらいいと思います。2日間で、ほとんどの人と友達になれたから大人になって中国語を覚えて、1年ぐらい中国に行ったら、もっとたくさんの人と友達になれると思います。今日は、中国の人に日本に来てもらったから、今度は私たちが中国へ行ってあげる番だから、早くそうできればいいと思います。」
 吉林省延吉市から来た女子留学生は、
「2001年に中国人と日本人の友情は、今よりもっと深くなると心から信じています。できれば2001年7月7日、カプセルを開く時参加させていただきたい。」
 北九州から参加した方は、
「小学校2年生の孫とこのキャンプに参加した。夜、中国人の留学生たちと話し合い楽しい会となった。日中友好は、若い人の時代を迎え、2001年には不動のものとなっているでしょう。永久に仲良く助け合わねばならない。再び戦争などあってはならない。

私は中学3年の時に、日本の敗戦を迎えたが、戦争中、中国で行った日本軍の蛮行は、心の痛みとして今も申し訳なく思っている。新しい日本、新しい中国、共に発展して平和な世界を築きたいと思う。」

 岡大留学生会館の女子留学生は、
「中国と日本の友情は"万古長青"。私は信じています。」
などと記されている。

 14年前のメッセージと今回参加した人のメッセージを一緒にして再びカプセルが埋められた。10年後に開かれる。その時、日本と中国、世界はどうなっているだろうか。
水に濡れたメッセージを乾かす
第11回日中友好書道展 出品作品を募る
 書(含墨絵等)作品の交流を通じて、日本中国両国の友好親善に尽くすことを目的とした書道展が、12月4日から9日まで岡山県総合文化センター第2展示室で開かれる。協会も後援している。友好目的に気楽に出品して下さるようお願いする。出品点数1人3点以内、(ご自身の作品とご所蔵の中国側の作品を合わせて)。搬入陳列は日本側12月3日12時より、出品料1人5,000円、当日会場で納入する。表装は展示できる状態とする。

 出品希望者は大至急連絡して下さい。問い合わせ先、曽我英丘、岡山市撫川1085、電話086-293-3637.

山東省に遊ぶ                                   会員 里山 八智代
 今年の夏、私は、中国山東省科学技術大学に短期留学しました。余暇を利用してかつて歴史の舞台になった地域や登場人物の足跡を尋ね歩いて来ました。

 山東省には、一山、一水、一聖人、と言う言葉があってこれは泰安の泰山、済南の泉水、聖人孔子を指し、いずれも天下を誇る呼称であります。また、山東省を旅しますと”九州”と言う字が目に入って来るのですが、これは後漢の時代、全国を十三州に分け魏が九州を領有した当時の名残りのようです。山東の人々は今なおこの地で格を大切にしているのでしょう。

 青島から車で西北に走って行くと、臨●という小さな街がありますが、春秋戦国時代には巨大な商業都市として繁栄した斉の都でした。

 そこに古車馬博物館が有るので見学することにしました。巾広い公路沿いに三角形の屋根が見え、夏草が茫々として見るからに殺風景な感じの野原でした。三角屋根は、粗末な小屋の様で覗くようにして中へ入ると、地下へ下りる暗い通路に出て鉄の手摺りに触り薄明りの中に微かな土の匂いを感じました。

 手摺りの下には大きな土のプールがあり、凝視していると徐々に土の形が見え始め車輪が土の中に減り込んでいるのが分かりました。

筆者(斉州市博物館にて)
 目をゆっくりとずらして見ると同じ型の物が見え、またその隣にも連繋して並んでいるのが分かって来たのですがやがて車輪の傍に馬体の骨がこれも連繋して横たわっているのを発見し、声も出ないほど驚いてしまいました。それは夥しい数の車馬殉死の場面でした。

 聞くところによれば、発見当時そのままの状態を保存補強して地下博物館にしたのだそうで、この上部は公路が通り古墳のような築山も無く知らない人には地下博物館の存在は一向に分からないと思われました。西安兵馬俑坑に並ぶ驚愕の博物館でした。

 臨●からさほど遠くないところに青州市があります。この地もまた古くは山東省の政治、経済、文化の中心でありました。1996年10月の事です。龍興寺跡の地下3m45余から大小400点以上の石仏群が発見され中国考古学上20世紀の十大発見の一つだという事で、一躍青州市が有名になったそうです。坑の中からは、北魏時代、東魏、北斉、北周、隋、唐、そして一番新しいものは北宋1026年の銘が有るそうです。それらの石仏が一段一段丁寧に積み重ねられていたといいます。

 現在は近くに立派な二層の博物館が造られ、4年間の修復を終えた石像が、広い館内にゆったり安置されています。1階では、巨大な石仏と石灰岩に金箔を施した三体仏や如来立像、またインドグプタ朝様式に似た仏像、日本の飛鳥時代の仏像に共通する微笑みの表情を五等身の三尊仏に見たりして、陶酔の時を過ごしました。2階では、夥しい石仏が修復を待っていて、展示というよりは、同類の石材に区分されて置かれているように見え、どういう理由か立像は悉く足首から先と手首から先が切り取られていました。周囲には、石材の破損屑が無造作に積み上げられていて、何だか舞台裏を覗いたような不思議な気持になりました。考えてみればこの石屑の中から一つずつ修復にもっとも合致する破片を探し集める考古学者の作業が、どれだけ大変な仕事であるのかを知りました。

 昨年10月中国国宝展が、東京で開催されました。この時青州市博物館の石佛は、発掘以来初めて海外出陳を果たしました。きめの細かさ、生き生きした形象は、学術界、美術界愛好家の多大な関心と興味を集めたそうです。
殉死した馬 (古車馬博物館)
斉州博物館外観
漢詩鑑賞 龍門遊眺(りゅうもんゆうちょう)        韋 応物(い おうぶつ)
(やま)(うが)ちて伊流(いりゅう)(みちび)く 中断(ちゅうだん)(てん)(ひら)くが(ごと)

都門(ともん)より(はる)かに相望(あいのぞ)めば 佳気朝夕(かきちょうせき)に(しょう)

(もと)より出塵(しゅつじん)()(いだ)くに (たま)たま携手(けいしゅ)客有(きゃくあ)

精舎層阿(しょうじゃそうあ)(めぐ)り 千龕峭壁(せんがんしょうへき)(となり)

(くも)()りて(みち)()(はるか)に  (たに)(さんずいに間)に(いこ)えば(かね)(すで)(せき)たり

花樹煙華(かじゅえんか)(ひら)き 淙流石脈(そうりゅうせきみゃく)(さん)

長嘯(ちょうしょう)して遠風(えんぷう)(まね)き (たん)(のぞ)んで金碧(きんぺき)(すす)

日落(ひお)ちて都城(とじょう)(のぞ)めば 人間何(じんかんなん)役役(えきえき)たる

 
龍門遊眺
禹王(うおう)が開いて伊水を導いたと伝えられる龍門山は、中央で裂けてまるで天の職人が切り開いたようだ。
洛陽の城門(南の定鼎門(ていていもん))から遠望すると、龍門には清らかな気が朝な夕なに立ち昇る。
日ごろ浮世を(のが)れようという気持があったが、たまたま今日は手を取り合える人がいた。
寺々の建物は山の上に下にとへばりつき、無数の石龕(せきがん)は険しい岸壁に隣合って(うが)たれている。
雲にすがるように登る山道ははるかに続き、谷川のほとりに憩えば寺の鐘はものさびしい。
花の木はもやに包まれた花を咲かせ、水流は大岩の筋模様(すじもよう)の上を散るように下る。
口をすぼめて息を吐きつつ遠くの風を呼び起こし、深い淵に臨んでは金と(みどり)に輝く水で口をすすぐ。
日暮れに洛陽を遠望しつつ思った、人の住む世は何と心を悩ますところかと。

韋 応物(737?~804?中唐)
 陝西省西安市京兆の人、一説に洛陽の人とも言われている。字は不祥、号は蘇州という。若い頃は任侠を好んだが、玄宗が亡くなった後は、心を入れかえて学問に励み、●(さんずいに除)州・蘇州の刺史となり、大和年間(827~835)に太僕少郷兼御史中丞などを歴任した。人となりは高潔で善政を行なったので人々に慕われた。

 官を辞してからは、人との交際を断って暮らしたと言われている。陶淵明・謝霊運の流れを引く自然派の詩人で、王(維)孟(浩然)葦(応物)柳(宗元)と並称され、唐代自然詩人の代表である。著書に「葦蘇州集」十巻がある。

敦煌研究院から妹尾信子さんの便り…遥かに莫高窟を想う…
 考古学を通して中国と交流したいと話していた妹尾信子さんから、敦煌莫高窟三二〇窟の「飛天」の絵はがきが届いた。莫高窟の対岸に位置する莫高山荘に宿泊して、毎日、午前中3時間、午後3時間は石窟の中で壁画に囲まれ、幸せな時間を過ごしているそうだ。敦煌の文化が生まれ育まれた地での生活を満喫している様子が伺われる。

 先日、岡山県立美術館で開かれた敦煌美術展の展示室の入口に敦煌研究院樊錦詩院長の美術展開催の祝辞が掲示してあった。妹尾さんはこの院長の下で研究をしているんだと思うと、岡山と敦煌の距離が急に縮まったように感じた。

樊錦詩敦煌研究院院長
敦煌「発見」から100年
 1900年のこと、王円●(たけかんむりに録)という一人の道士(道教の僧)が偶然、敦煌莫高窟の蔵経洞を発見した。

 この7年後の1907年、イギリス籍の探検家オーレル・スタインがこの地を訪れ、経典の価値の高さに着目する。そして貧乏道子と交渉して、経典の買い取りに成功。スタインが持ち出した経典や古美術品は、実に7,000点余といわれる。また話を伝え聞いたフランスの東洋学者ポール・ぺリオもやってきて、5,000点余の経典を買い取って行く。道子は、後に重要資料の国外流出の罪を問われて処刑された。このように大量の敦煌文書が海外に流出し、敦煌の壁面も絶え間なく破壊された。この痛ましい教訓に学んで、常書鴻らが1944年に敦煌芸術研究所(現・敦煌研究院)を設立、今日まで数世代の人々が敦煌保護という困難な事業に貢献してきた。

 莫高窟の中にある塑像は、整理されたものだけで2,415体。壁画の数は未だ不明である。シルクロードを伝わった最大の文明といわれる仏教。敦煌で最初に石窟が造られたのは、前泰時代の366年頃といわれている。以来、北魏から元に至る1000年間に石窟は造営された。ここで、毎年4月8日、町から集まった人々が胡弓を弾き、歌をうたって釈迦の生誕を祝う。莫高窟は、今も生きた信仰の場であると同時に、世界の研究者が集まる「敦煌学」の研究の場でもあるのである。
320窟の飛天(初唐)
砂漠の中の小さなオアシス(莫高窟)
ちょっとチャット(10) 張大先君の思い出                  協会理事 岡崎 邦泰
  中国が私にとって身近なものになったのは、今から約10年前、私が岡山ロータリークラブの米山記念奨学会委員長のときに遡る。中国からの留学生のカウンセラーを担当する事になり、岡山大学医学部病理学教室の大学院学生であった張 大先君とのお付き合いが始まった。彼は上海の中医学院出身の漢方医で、東岡山の県営団地に奥さんと住んでいた。上海には幼稚園に通う娘さんがおり彼のご両親が育てておられた。彼は岡山大学で活性酸素の研究を行っていた。

 さて彼と初対面のとき私は彼に「終戦の時、多くの日本人孤児が誕生した。里親として、昨日まで敵国であった国の子供を引き取り、しかも当時決して裕福ではなかった彼らが、わが子と同様に育て上げてくれた。もしも私が逆の立場であったらおそらくこの種の行為は出来なかったであろう。このような中国の人々に敬意を表する」と申し上げた。彼には私の話にインパクトがあったかどうかは解らないが、その後の岡山での二年間の生活で私を大変信頼してくれたことは確かであった。「先生は乳癌の専門家であり、是非先生のノウハウを中国に伝えたい。」との事であった。私は大して気にも止めていなかったが、彼が帰国して数ヶ月経ったある日、河北医科大学 孫院長から正式な招聘状を頂いた。

 1996年8月私は北京経由で石家荘にある河北医科大学第二病院を訪れ3日間滞在し、臨床カンファレンス、日本の乳癌の臨床的研究と題する講演、手術、病棟回診などさせて頂いた。滞在中通訳を務めてくれた同大学病理の干教授(岡山大学医学部大学院卒)から、その後日本の大学で乳癌病理を研究したいとの強い希望を伝えてきた。私はご恩返しの意味から、母校の徳島大学医学部へお願いし、大学の国際交流基金を預けるようにして、彼女を迎えた。

 彼女は2度来日し、それぞれ3ヶ月の滞在で、休日返上して研究に没頭し多くの成果をもって帰国した。現在は上海市人民第一医院へ移り病理部門の主要スタッフとして活躍中である。

 さて冒頭の張 大先君、その後はカナダへ移り、トロントに在住している。たまたま私の長男がニューヨーク医科大学に留学し、休日を利用して彼を訪ね熱烈歓迎を頂いたとの手紙を送って来た。ふり返って見れば、この10年の間に中国の良い友人が出来た。ささやかな草の根の運動ではあるが、今後も続けたいと考えている。

活動日誌
10/18 会報150号発行
10/20 北房町サマーキャンプ記念のタイムカプセル開封
11/8 中国三誌友の会、第105回例会
11/19

平成13年度第3回理事会

会員消息
【入会】
三宅理恵さん(倉敷市)
笠岡秀夫さん(岡山市西市)

【お悔み】
伊加保憲さん

中国関連消息
龍門石窟展

 昨年ユネスコの世界文化遺産に登録された仏像遺跡の精髄を紹介する「龍門石窟」展が、滋賀県信楽町のミホ・ミュージアムで開かれている。

 展示品は、龍門石窟研究院をはじめ国内外の美術館から集めた約50点。王朝の盛衰、民族。文化の交流と衝突から生み出された多彩で個性豊かな美に触れることができる。

 今回の企画展は、龍門石窟研究院の優れた所蔵品を中核にして、日本やアメリカにある彫刻も合わせて約50点を揃えた貴重な試みである。近年、洛陽市がイタリアと共同で発掘した奉先寺遺跡の仏像など、国際的に関心が集まっている龍門石窟の現状を知ることができる。

 会期は12月16日まで。月曜日休館、ミニ・ミュージアムの電話(0748-82-3411)

 晩秋の近江路へ2人で(勿論1人でもよろしいですが)グループで、お出かけになられては如何でしょうか。アジア・コミュニケーションズは、国内旅行のお世話もしています。ご利用下さい。

先憂後楽
 『日中女性フォーラム』が岡山市のさんかくセンターで開催された。昨年上海市で第1回が開催され、今回はその第2回目ということになる。

 上海市から王妹宝総合部部長を団長とする婦女連合会が来岡し、岡山市の専門家や従事者らと教育と福祉の分野で報告と討議をおこなった。協会は招聘団体として岡山市と協力して事業をサポートした。

 女性の自立と権利擁護などを目的に設立された中国の婦女連合会は各地に末端組織をもち、政府への政策提言や各職場での女性の擁護など大きな力をもっている。日本でも最近男女雇用均等法や共同参画という言葉が登場し、女性の社会的地位は大きく前進している。ただ女性団体となると、婦人会を始め多くの各種団体がそれぞれあるが、中国のような統一的な性格の組織はないだろう。

 社会体制やシステム自体が異なっても、少子化や高齢化など共通の抱える問題があり、経験交流は双方にとって学ぶところはたくさんあり、今回のフォーラムも大いに盛り上がり、今後の継続発展が期待される。

 表面上の友好交流から、具体的な交流を通じて、思い過ごしや思い違いなどが徐々に溶解されて、相互理解が深まる。こういう活動をサポートしていくことも協会の大きな役割だろう。(松)


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