2002年8月
平成14年8月
  156号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
中国江西省南昌市松柏小学訪日団を迎えて     岡山市立平島小学校校長 赤松 康弘
 平島小学校は今年、今だかつてない体験をした。昨年の8月、本校児童11名、大人15名(内6名が本校職員)が初めて訪中した。(この間の事情については、2001年度岡山県日中教育交流協議会会報「悠久」第6号にて詳述)今年は平島小学校が、お迎えする年であった。昨年8月帰国以来、企画・立案を繰り返し、何度も職員会議を開き検討を重ねてやっと実現した一大イベントである。

 交流が現実するに至る過程では、様々な障害と問題が続出した。しかし、6月28日に無事、岡山空港に訪中団を30分遅れで、迎えた時には、ほっと一安心したものである。

 その日は簡単に紹介しあった程度で、即、ホームステイ宅にご案内した。翌、30日には本校体育館で児童全員による歓迎会を開催し、「日本の文化を伝えよう」という統一テーマで学年ごとに発表した。このような形式の発表は中国では珍しいらしく大変お褒めの言葉を戴いた。平島小学校児童代表による歓迎の言葉に続き、子どもたちの司会により次々と出し物が披露された。
  • 1年生の出し物「鹿児島小原節」
  • 2年生の出し物「日本の昔遊びの紹介」
  • 3年生の出し物「中国と日本みんな仲良し」
  • 4年生の出し物「花太鼓」和太鼓と巫女舞
  • 5年生の出し物「岡山の昔話・桃太郎」
  • 6年生の出し物「越天楽」リコーダーとオルガン
  • 教職員の出し物「ドンパン節」太鼓と銭太鼓
 そして、最後に中国松柏小学児童が出し物を披露してくれた。合唱「二つの櫂をこごう」、琵琶独奏「劉陽河」、踊り「ソーラン節」等であった。いずれも、その全体統制の見事さには目を見張らずにはいられなかった。何にもまして印象的であったのは、演技している中国の子供たちの笑顔の素敵さであった。平島の子ども達にとって、正にカルチャーショックだったようである。やる時はやる、といった強い意思を感じた。

 この日は、学区全域にご案内状を配布し、宣伝したせいか、さしも広い体育館が満員となった。地区の方の関心の高さを実感した次第である。先ずは文化交流大成功であった。

 6月30日の午後からは、岡山市「犬島自然の家」に場を移し、交流・交歓の場を持った。

第3回理事会 NPO法人化を話し合う
 7月12日(金)13時30分から、協会事務局で本年度3回目の理事会を開いた。10名の役員が出席して、次の事項を協議した。

1.NPO法人化について
 非営利組織(NPO)は、文字どおり営利を目的としない組織で使命実現を第一に考える営みである。収益活動もできるが、その使途は使命実現の活動にしか支出できない。
 協会をNPO法人化することによるメリットとデメリットについて、多面的に話し合った結果、前向きに取り組むことが決まった。

2.日中友好茶館について
 日中国交正常化30周年記念・岡山あいフェスティバル2002参加事業として「日中友好茶館」(仮称)を企画、お茶を楽しみながら日中友好の場を提供する。日時は、11月30日(土)と12月1日(日)。500円程度の「お茶券」を発行するので、ご協力をお願いする。詳細は会報157号で発表する。

3.洛陽との医療福祉交流
 福祉医療・老人福祉の交流を深めるため、シンポジウムを開く。岡山と洛陽双方の医療福祉の専門家による討議をする。時期は2003年1月~2月を予定。また、短期間(3ヶ月以内)医療福祉関係機関に研修生を受け入れる。岡山済生会総合病院及びライフケアセンターの協力を得る。

4.その他 未収会費の件
 協会会員の会費が、なかなか集まらないので、財政難に陥っている。現在、年2回会費納入状況を連絡している。何年滞納したら会員の資格を失うか、会則に明記する必要があるかどうか検討することになった。

医学交流で結ばれた固い絆 我与片岡和男先生的中日情 
                               洛陽医専附属医院 医師 朱 天●
 ちょうど第20回洛陽牡丹花コンサートが開かれた4月12日、洛陽大酒店で私は再び14年来の親友である日本岡山市日中友好協会会長、また医学博士である片岡和男先生及び弘子夫人とお会いしました。片岡和男先生が引率して来られた岡山市日中友好訪問団は、主に洛陽牡丹花会に参加するために来られました。お会いする時は、いつも久しく離れていた家族と再び会った時のように、とても感激し興奮します。片岡和男先生と洛陽市民は、厚い友情と強い絆で結ばれています。先生は今年75歳のご高齢でありながら、労を厭わず、常に自分の持っている最大の努力をはらい、両市間の友誼を深めるために奔走されています。片岡先生の白髪頭と穏やかな笑みを拝見すると14年前の事を思い出します。

 私と片岡先生の友情は1988年から始まりました。その年、私は洛陽技術研修生として友好都市である日本岡山市へ派遣され、技術交流するために岡山済生会総合病院へ行きました。当時、私の日本語レベルはとても低く、その上、訪日前は日本についての理解はほんのわずかでしたので、多少緊張しておりました。その日、病院につくと、その当時病院院長をしておられた片岡先生が温かく私を迎えいれて下さいました。それから病院の各部門へ連れて行って下さり、一人一人私に病院の職員を紹介して下さいました。お会いして何日も経たないうちに、私と先生との距離はすぐに近くなり、私の緊張感もすぐに解けました。これ以後、お互い更に深い交流をするために、先生の傍にはいつも小さなノートが置いてあり、意思の疎通が困難な時には、面倒がらず筆をとって筆談で話しました。日本語のレベル向上のために、週に2回、日本語の勉強を指導してくれる先生を手配するよう職員に指示してその場を設けて頂きました。そして、私のヒアリングと会話能力の向上のために尽力して下さいました。先生はまた仕事上でも生活上でも手厚く面倒を見て下さり、自ら私の研修計画を立て、手術方法の教育、病室の患者に対する接し方の指導や、院内の定例討論会にも参加させて下さいました。何か困ったことはないか要求することはないかと常に私をきにかけて下さり、とても感動しました。手術時、先生の熟練した巧妙な手術方法は勉強になるものばかりで、合理的な作業方法を多く学びました。私は今日も、先生のその手術方法を使用し、また私の後輩医師にも伝授しています。

 岡山での研修期間、先生は私に対してだけでなく、他の洛陽の研修生にも同じように至れり尽くせりのご配慮をして下さいました。頻繁に私を夫人と一緒に旅行へ連れていって下さり、私たちをご自宅に呼んで日本料理を賞味させて下さいました。お正月には在日中国人を集めて、楽しく語り合える場を設けて下さり、私たちは日本に来てからの感想を話しました。時間が経つに連れ、私たち洛陽からの研修生は先生の家の常連になり、関係も密接になっていきました。先生はまるで私たちのお兄さんのように気にかけ、お世話して下さいました。厚い友情が深く芽生えたため、研修が終了し帰国の際には涙の別れとなり、とても離れがたく辛いものでした。帰国後も、私と片岡先生ご家族との手紙のやり取りは続き、先生はいつも私に仕事の状況を聞き、出来るだけの助言を下さいます。

 新安県に、貧しくて子供が教育を受けられないところがあると知ると、日本人の友人と力を合わせ募金活動をし、希望小学校の建設を実現させました。高齢の方だけでなく同僚の方にも自ら岡山で洛陽のために教育事業基金を募っておられます。2年前、私と妻が再び岡山を訪問した時、片岡先生と夫人はすぐに会いに来て下さって、何を望んでいるかを問い、私が日本と技術交流をしたいという希望を持っていることを知ると、すぐにその交流内容とその計画を立てて下さり、再び日本医学の最新の動きを教えて頂きました。

 先生は既に古希を迎えて、退職されて自宅へいらっしゃいますが、先生は常に労を厭わず、岡山の至るところを奔走して、洛陽のことを宣伝し、日中友好会員を増やし、日本の友人を洛陽へ訪問させ、多くの日本の友達に洛陽を理解させようと努力されています。さらに私を感動させることは、中日友誼や仕事を一層良くするために、記憶力の衰退にも負けず、中国語の学習を始められたことです。現在先生の中国語のレベルは相当の域に達しています。また、先生は冗談で、洛陽へ中国語を習うために留学すると言われています。(原文は中国語、日本語の翻訳は中藤季子)

「長江下り」の旅に思ふ(2) 2002.4.7-12                          三島 靖子
高瀬舟も斯くてありしか小舟曳く 異国の男になぞる幻影

救命具を身につけ飛沫(しぶき)に悲鳴あげ 揺れる小舟に居る心地せず

閻魔大王像の暗闇覗きて身の毛立つ 再現されしあの世の地獄

新三峡ダムの完成後には此の鬼城も 予想遥かなる孤島とならん

世界一のダムの工事に畏怖しつつ 中国兵を垣間見し一瞬

「完成後に再びダムへ」とガイドは叫ぶ 今日を限りの三国志の夢

厖大なる中国の活気の羨まし 気掛かりなるは日本の行く末

豪華船にて外貨を稼ぐや中国の イメージチェンジの二夜のパーティー

スキヤキソングに皆手を叩き足鳴らす 吾も歌ひて国際交流

事も無く帰国して夫と安堵しぬ これが最後の旅やも知れず

思い出の追善旅行(2)―亡夫の遺灰を長江へ撒く―           協会会員 小林 昌子
 船中で、洛陽から同行して頂いた柴新勝先生が回向の書画を書いて下さいました。

 黄山岩壁にしっかりと根を張った老松の尊厳と、神州富士山を背景に、『萬古長存 頌小林淑人先生 二千零二年 雲天柴新勝 於神州輪』

 中国では、死者を称え記念し追想する古語で、亡くなっても何時までも皆の心の中に生きているとの意味だそうです。老いゆく私の余生の指針としたいと有難く頂戴致しました。

 三峡は巫山十二峰が折り重なるように屹立しています。巫峡では壮麗な神女峰、奇峰に息を飲む思いがしました。西陵峡の●(のぎへんに末)帰香渓の名所、王昭君の故郷を過ぎたあたりで、長江本流を堰止め、治水、発電、水運とも世界一の三峡ダム建設の現地を見学しました。2009年の完成をめざして、昼夜交代制で工事を進めているそうです。ダム模型を前に、小柄な美女趙さんの熱い覇気のある説明に中国躍進のすさまじい息吹を感じました。

 瞿唐峡、巫峡、西陵峡の3つの峡谷が連なる壮大な自然のパノラマにくぎ付けになった三峡下りでありました。

 中国をこよなく愛し、友好の旅を楽しんでおりました亡き夫の遺骨、遺書を携えて、計らずも11年前と同じ旅程の足跡を訪ねた8日間でした。洛陽王城公園・仙子像の前での写真と同じ服装で今一人で立ちました。白馬寺に参じ、時の方丈のねんごろな読経供養を頂き、み仏の霊もさぞかしと感涙しました。三峡風景区巫山のあたり、共に歩んだ胸のお骨を、生前の日中友好の絆になりたいという願いを込めて、日本に続く長江の水に撤骨し回向をしたいという願いを果すことができました。

 ご同行の皆様のご厚情、記念の写真と共にうれしく感謝お礼を申しあげます。

ちょっとチャット(14) 黄山に上り長江を下る                協会会員 橘髙 康子
 6月28日から8日間、岡山県教職員互助組合の企画で長江と黄山の旅に行きました。27名が参加しました。初日から強行軍でした。成都経由、重慶到着が翌朝の2時を過ぎましたが、クルーズに出航しました。

 先ず、豊都で鬼城を見学して急な石段で足慣らしをしました。翌日は瞿塘峡の白帝城と巫峡の支流にある神農渓を遊覧し、最後に西陵峡を遊覧した後、三峡ダム工事の現場を通過して、数々の歴史の跡やスケールの大きさに感動しながら下船しました。

 次は武漢へ一泊し、二度目の黄山へ向かいました。昨年は雲谷寺から東海の果てしなくつづく石段を歩いて登りましたが、今回は温泉郷の桃源賓館から西海の瀑布を抜けてロープウェイ乗車口まで歩き、玉屏まで乗車した後は、頭上に蓮花峰を頂きながら、急斜面を登り気象台へ着きました。昼食後光明頂から天海を眺望して宿舎の西海飯店へ入りました。

 翌日は4時半に起床し、ご来光を清涼台で待っていましたが雲に遮られ見ることができなくて残念でした。

 獅子峰や夢筆生花を眺めた後で、始信峰から千メートルもの谷底を見た時は実にスリルがありました。朝食後、霧雨の中を出発し、アジア一長いというロープウェイに乗りました。ロープウェイからの景色もまた格別でした。荷物を置いて出た反対側のホテルまで山麓の町を見学しました。屋根に宇田津のある家や高所の茶畑、下から眺める天都峰と七二峰あるという黄山の眺めは壮観でした。

 美しい風景を後にして屯渓の老街を見学しました。夕食後黄山空港に向かう頃に、上海空港は台風の為閉鎖との情報が入ったために宿泊し、翌朝の便で虹橋空港に着きました。浦東空港からの岡山便へは乗れないと覚悟していましたが出発を遅らせてくれたので無事帰国できました。皆様のお陰で感謝と感動の旅ができました。

活動日誌
6/23 第47回中国語検定試験
6/25 「岡山あいフェスティバル2002」推進会議
6/28 南昌市松柏小学校と交流
6/29 第8回日中友好ボウリング大会
7/1 「悠久」第8号出版
7/11 第111回中国三誌友の会
7/12

第3回理事会

会員消息
【入会】
若井たつ子さん(岡山市)
糸島達也さん(岡山市)

中国関連消息 
第9回おかやま音楽祭 さとう宗幸&DENSENジョイントコンサート―名月を奏でる胡弓と故郷の叙情歌―
 胡弓演奏は、田川(Tian Chuan)、歌は、さとう宗幸、ピアノ和田晴子、筝の渡谷元子、湊紀子の伴奏も入る。「大海阿故郷」「青葉城恋唄」等、懐かしの曲多数。
日時 9月26日(木) 18時開場
会場 岡山市民文化ホール
料金


前売4,000円、当日4,500円(全席自由)
前売券は協会でも扱っています。

中国映画 『きれいなおかあさん』
 あなたは、おかあさんとの心の繋がり、感じていますか。
 暗い悲しい事件が多く、家族関係の希薄さが問われる時代だからこそ『きれいなおかあさん』は観る人の心に、忘れかけていた大切な家族の絆を思い出させてくれる。

 この映画は、聴覚に障害のある息子と共に生きる母と息子の、厳しくもぬくもりのある親子関係を綴る作品だ。
 おかあさん役はコン・リー。
日時 8月31日~9月13日まで
場所 シネマクレール石関町
料金

前売券1,500円。協会でも扱っています。

先憂後楽
 夏になるとかつて恒例の行事だった日中友好サマーキャンプと、新見市が友好都市を締結している河南省信陽市での合同キャンプを思い出す。

 協会が発足してから活動の中心は青年による自主的活動だった。映画上映や留学生との交流会など岡山大学やノートルダム清心女子大学の学生などが企画し運営するもので、協会は事務局を提供し実行委員会を後押しした。

 サマーキャンプの狙いはまだ数少なかった留学生との交流の機会を持つことであったが、同時に友好活動の担い手を育成することにもあった。場所の選定から参加者の募集、当日の運営など知恵を出し、汗を流して作り上げていった。サークル活動の延長のようなものではあったが、その後の活動を支える青年が育っていったのは事実である。

 信陽市でのキャンプは今から考えると無謀な一面もあった。恐らく今でも小学生レベルで中国でのキャンプを実施しているところはないだろう。病気やけがをしたらどうするか、水は大丈夫かなど、心配は尽きなかった。ただ、実行しようという熱心な父兄がたくさんいて、多くの児童が参加した。彼らは今成人し、社会人となって活躍している。参加してからたくましくなったときかされたとき、やはりやって良かったと思う。

 多少のリスクや不安があっても、良いと思うことは、コンセンサスを前提として実行すべき。いま協会にも私たち自身にも問われているのはそんなやる気ではないか。(松)


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