2003年2月
平成15年2月
  159号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
特定非営利活動法人(NPO)設立総会開催 ~盛大に開催された互礼会~
 2月1日午前11時より日本生命岡山第二ビル6階において定期総会が開催された。総会に先立ち、片岡和男会長が挨拶し、昨年の洛陽訪問や招聘活動を通じて日中国交正常化30周年事業が活発に行われたことを報告し、特定非営利活動法人(NPO)化への意義などを力説した。

 続いて議長に理事の赤木宣雄氏が就任し、書記や議事録署名人を選任して議案審議が行われた。議案は、活動報告、収支報告、監査報告が一括して提案され、承認された。また、NPO化を軸とする活動方針案、収支予算案、が提案され、準備された案は予定通り承認された。
定期総会
盛会に開催されたNPO日中設立総会
 引き続き、NPO岡山市日中友好協会の設立総会が開催され、新しい定款を含め予定された議案はすべて承認された。
 
 総会後、開催された「日中友好新春互礼会」は会員ら約100名が参加し、NPO設立総会の成功を祝うとともに、今年1年の活発な活動を誓い合った。

 また、恒例のバザーでは会員等が持ち寄った用品が飛ぶように売れ、収益金は15万円余りに達した。この収益金は総会で確認された「NPO岡山日中基金」に入れられる。
2002年度活動報告
Ⅰ 日中国交正常化30周年記念事業
(1)洛陽牡丹ミニコンサート
(2)記念訪中団(4月)
(3)日中友好茶館(11月30日岡山済生会ライフケア・センター)
   岡山市・岡山市国際交流協議会と共催「あいフェスティバル」参加事業
   日本茶(煎茶―国清寺方厳流白雲会) 中国茶(綾野・杉本)
   講演「お茶の伝来と日中友好」(講師―洞理事) 入場者数約200人

Ⅱ 岡山―洛陽友好都市交流促進事業
(1)洛陽市民対外友好協会訪日団来日(3/27~)
   ・協会表敬訪問(3/27)
   ・岡山商科大学附属高等学校が日本語教師1名、サッカー留学生4名招聘
(2)協会訪中団(4/12~4/19)
   ・片岡協会長を団長に12名が参加。洛陽・重慶・長江三峡下り・武漢・上海
   ・洛陽市牡丹祭りに参加。人民政府表敬訪問、外事弁公室との交流協議など
(3)牡丹コンサート開催(4/19)
   ・洛陽市より古筝奏者、歌手を招聘(4/19~4/26)。方双建氏引率通訳
   ・オリエント美術館、小豆島、玉野、新見、千屋牡丹園、津山、清眼寺等でコンサート
(4)洛陽仏教訪日団招聘(11/18~11/26)
   ・顧問―洛陽市副市長・劉応安
   ・団長―白馬寺監院・鐸印賢
   ・団員―白馬寺知客・鐸妙宇、宗教局局長・馬金永
   ・通訳―外事弁公室副主任・方双建。
   岡山(日中仏教交流会)、京都(仁和寺、大覚寺、東寺など各山会)訪問

Ⅲ 各種交流促進
(1)上海市との交流
   ・第13回「福祉の翼」訪中団(8/20~8/23)後援。江草名誉団長、安達団長ら110名、福祉交流促進。
   ・日中女性フォーラム(10/29~11/1)実行委員会主催 日中女声合唱団交流(上海市婦女連、合唱団「茉利花」と交流)
   ・旭川荘―民政局、盧湾区、浦東開発区と医療福祉交流
(2)江西省との交流
   ・岡山県江西省友好県省10周年記念 岡山県日中懇話会訪中団
   ・「平成の遣唐使」岡山県国際課・岡山県日中教育交流協議会
   ・江西省南昌市松柏小学校来岡―平島小学校と交流(6/28~)
(3)信陽市との交流(新見市と友好都市締結10周年)
   ・信陽市人民政府訪日団歓迎会(4/21)
   ・友好訪問団(8/29~9/4)片岡協会長顧問、田口光代団長以下10名訪問
   ・田口光代さん信陽市シ河区名誉区民受賞祝賀会(11/19 100名参加)
(4)教育交流支援
   ・岡山県日中教育交流協議会 活動報告会(3/22)。新役員決定(6/29)黒瀬定生会長が就任。
   ・会報『悠久』7・8・9号発行(年3回)
(5)人民中国普及活動
   ・例会 通算114回開催(12月末まで)
   ・人民中国編集長・王衆一先生歓迎会(12/16)

Ⅳ 在岡中国人との交流
   ・第8回日中友好ボウリング大会(6/29、両備ボウル)日本人17名、中国人25名参加

Ⅴ 中国語普及活動
   ・中国語会話クラス・・・入門クラス14名、初級クラス9名、中級クラス17名、上級クラス7名、個人レッスン1名
   ・中国語検定試験受託業務 第46回~第48回(ノートルダム清心女子大学)

Ⅵ 組織・広報活動
(1)会員状況
   2002年度新入会者・・・一般会員10名、賛助会員0団体
   2002年度退会者・・・一般会員36名、賛助会員1団体
   会員総数・・・一般会員 274名、賛助会員15団体
(2)広報活動
   ・会報「岡山と中国」発行(153~158号6回)
   ・ホームページ更新

Ⅶ 各種協力活動
(1)中国映画上映協力活動
   ・「えっちゃんの戦争」 7/7 中国共同映画
   ・「きれいなお母さん」 8/31~9/13 シネマクレール
(2)後援活動
   ・シルクロードの響き オリエント美術館(10/26~12/8)
   ・講演会「抗ガン革命」 郭林新気功協会主催(11/15)
2003年度活動方針
Ⅰ 特定非営利活動法人岡山市日中友好協会(NPO日中という)の設立
(1)1981年9月、岡山市日中友好協会はそれまで存在していた組織を再建し、市民に根ざした友好団体として生まれ変わった。爾来、岡山市との友好都市・洛陽市との交流をはじめ、中国各地との市民交流の窓口として友好促進の一翼を担ってきた。

 今日、日本と中国の関係は政治、経済、文化などあらゆる方面で以前とは比べものにならないほど質的にも量的にも発展し密接になってきており、協会の果たすべき役割も大きくなってきている。

 このような中でわが協会は更に「市民みんなで日中友好を!」の願いに応えていくために、昨年度総会において特定非営利活動法人化を確認し、理事会の協議を経て設立総会を開催することとなった。NPO日中の設立を機に、更に活動を活発化し組織を活性化していこう。

(2)現在の活動と組織・財産はすべてNPO日中に引き継がれる。

(3)現在の会員は特定非営利活動法人としての岡山市日中友好協会が設立された後は、その会員となる。(以下略)

上海市浦東新区特殊教育センター名誉校長に就任
                            社会福祉法人旭川荘常務理事
                            日中医療福祉研修センター所長 板野 美佐子
1. 旭川荘の国際交流
 これまでに社会福祉法人旭川荘が受け入れた海外研修生は30カ国330名、視察・交流などで旭川荘を訪れた外国人は約1,000人います。そうした状況の中で旭川荘が上海市から研修生を受け入れるようになったのは約20年前からです。浦東新区との交流は、10年前からはじまりました。

 浦東新区は上海の南北の流れる黄浦江の東側に位置し、15年ぐらい前から急速に経済発展を遂げている大都市です。人口は150万人ですが、流動人口を含めると180万人くらいになるそうです。

 1999年、浦東新区の東から西へと伸びる世紀大道はフランスの設計会社案により、シャンゼリゼ通りのような交通と観光が一体化した緑化通りにと造られたようです。

 オフィスや世界的な一流ホテルなどの高層ビルが立ち並び道路はゆったりと広く、真っ直ぐで、ニューヨークのような、新宿副都心のような雰囲気の都市です。こうした経済発展についてはわが国でも知られていますが、もうひとつの面があります。それは人間尊重の街づくりをしていることです。

2. 浦東新区からの研修生
 「浦東新区特殊教育センター」についてふれる前に、浦東新区と旭川荘のつながりについて少し説明いたします。浦東新区の教育・医療・福祉などを統轄している行政は社会発展局で、局長は9ヶ月間旭川荘で研修した馬伊里局長です。

 ちなみに馬伊里局長は旭川荘での研修後、上海で「日本の社会福祉」と題する著書を発刊し、上海市の福祉関係者から高く評価された経緯があります。その浦東新区では馬伊里局長をリーダーとしては経済発展とともに福祉の充実に力を注いでおり、その成果は目を見張るものがあります。現状はすでに、教育、福祉先進区といってもよいでしょう。特に人材育成に力を注いでいるようです。医療関係者の研修、老人福祉関係者の研修と相次いで旭川荘へ職員を派遣しました。

 新設の老人施設は施設長と関係職員を派遣してきて、日本の老人福祉制度や介護・運営のあり方を研修しました。その施設は「浦東新区社会福祉院」。一流ホテルのような建物で、施設は最新で、入所されている方は400名と大規模なものです。施設の開設にあたっては馬伊里局長からの依頼で施設長予定者とスタッフ2名が旭川荘で1ヶ月研修を受けました。

 続いて障害者の学校教育ということで「浦東新区特殊教育センター」の設立となりました。

3. 浦東新区特殊教育センター
 この学校は聾唖児、知的障害児、身体障害児、重度重複障害児を対象とした学校で、児童数400名が定員です。「特殊教育センター」の開設にあたって、校長の予定者、教育行政担当の人、それに通訳の3人が障害児教育のあり方について旭川荘で1ヶ月間の研修をしました。その後、この学校の建築担当者一級建築士、経理担当者などハード面を担当する技師6名が障害児教育現場の視察のために来荘しました。

 学校の建設はすべてバリアフリーで、内装は岡山養護学校を参考にして、木目をいかした木をふんだんに使っており、温かい雰囲気のものです。

 そうしたハード面、ソフト面の両面から研究を重ねた結果、昨年9月新校舎が完成し、開校式が行われました。この学校建設にかかわったものとして旭川荘から江草安彦理事長と私が招待を受けました。その時私に対してこの学校の名誉校長に任命したいとの申し出をいただきました。しかし、この時は都合により出席することが出来ませんでした。

4. 名誉校長の任命式
 再三招聘を受け、やっと今年1月8日から11日までの日程で上海を訪問いたしました。

 今回の上海行きの目的のひとつは、江草理事長が上海市紅十字会との合作で「岡山・上海高齢者介護教員養成センター」設立計画のために上海市紅十字会を訪問するためと、昨年オープンの式典に参加できなかった浦東新区の「特殊教育センター」で名誉校長の任命証をお受けするために浦東新区を訪問することでした。

 特殊教育センターでは障害を持つ児童、保護者、学校職員がホールに集合して大歓迎をしていただきました。

 式典は旭川荘で1ヶ月の研修をされた李校長があいさつ、次いで大きなDVD画面で昨年9月の開校式の状況が紹介されました。その後、私に名誉校長の任命証を授与していただき、私も御礼のあいさつをいたしました。

 児童数は現在まだ聾唖児童100名、知的障害と身体障害の児童が40名です。アトラクションとして、聾唖児童6名による「八木節」のダンスが行われました。かわいい動きで踊る児童が、耳が聞こえず、言葉も話せないにもかかわらず、どのようにして日本の民謡を覚え、どんな気持ちで私たちに披露してくれているのかと思う時、胸がいっぱいになりました。

板野さん任命式 歓迎のアトラクション
任命書を手に(中央が本人)
生徒による八木節の歓迎
5. これからの交流
 今後、この特殊教育センターでは、重度・重複障害児(ねたきり)の児童を受け入れていく計画であることを馬伊里局長から聞きました。

 彼女は全ての子どもは最善の教育を受ける権利があり、行政ないし教育機関は最善の教育を受ける機会を用意する義務があると熱烈に語りました。そのため、重症心身障害児の医療・福祉・教育の充実している日本で、また重症心身障害児施設をもつ旭川荘で担当者を勉強させたいとの要望がありました。旭川荘の専門スタッフが対応してこのセンターの取り組みにできる限りの強力をしたいと考えています。

内山完造が果した心からの日中友好                       会長 片岡 和男
内山完造  内山完造は明治18年、現在の岡山県後月郡芳井町で生まれた。父の名は賢太郎、厳格な人で、母の名は直、忍従の人であった。

 完造少年は腕白少年だったが、12歳で大阪の反物商の見習いとして出郷、17歳からは京都の繊維問屋で働いた。やがてキリスト教に入信し、牧野牧師から大阪の目薬会社、田口参天堂の上海出張員の仕事を紹介される。

 若い完造は中国に夢をもち、大正2年3月、神戸港を出発した。新天地中国の大自然と聖書の勉強で平和主義者となった完造は、参天堂の商売に精を出し中国各地を回った。

ありし日の内山完造老板
 一時帰国した完造は、牧野牧師から美喜という女性を紹介され、31歳で結婚した。迫りくる民族革命の嵐のなかで、2人は一筋の道を歩み始めた。妻の美喜が創設者となり上海・北四川路に小さな書店「内山書店」を開いた。店は一級の本を揃え、次第に信用が増し、売れ行きは順調になった。

 とくにお客が中国人でも日本人でも、すべて平等に扱った。これは完造の信仰がなせるものだった。書店の客人の中には日中両国の文人たちの姿が多く見られるようになり、賀川豊彦、谷崎潤一郎、鈴木大拙、郭沫若などが来店。さらに魯迅と完造との友情が誕生することになった。

 魯迅は仙台医学校で解剖学を学んだのち帰国し、上海で完造に出会い、学問、そして生活の支援を受けた。また魯迅は完造の成長の大きな力となった。

 魯迅は毎日のように書店に姿を現し、また完造は魯迅の身に官憲の手配を感じると隠れ家を提供していた。昭和5年に参天堂を退職し内山書店一筋の道を行くことになったが、日中両軍の砲弾が頭上を飛び交う最中でも訪問者を迎えた完造は平然としていた。そんな完造を上海の人々は親しみを込めて『老板』(商店の主人の意)の愛称で呼んだ。

 そのころから魯迅の病気は悪化し、昭和11年10月19日、この世に別れを告げた。追悼演説での完造の挨拶は会葬者の胸を打った。時代は盧溝橋事件が起こり日中戦争に拡大していく前夜であった。

 昭和20年1月、妻・美喜と死別。そのころ警察の訊問は続き、上海の姿を伝えた処女作『生ける支那の姿』などについても追及された。

 戦後、国民党政府によって強制帰国させられることになり、書店の閉鎖、資産の分配、店員の身の振り方などの処理を終え、昭和22年12月8日、ようやく帰国することになった。

 その後、日本全国を行脚し、「中国漫談」とともに日中友好を訴え続けた。そして、昭和25年10月に日中友好協会を設立し理事長となった。

 また、完造は郷里の中西寛治に、岡山で日中友好協会の支部をつくるよう依頼し、中西は小田郡矢掛町に看板を掛けた。

 完造は昭和34年9月16日、北京である歓迎会の席上、脳溢血におそわれ、上海へ到着する前に客死した。昭和34年9月20日、享年74歳。遺骨は本人の遺言どおり、上海の万国公墓にある妻・美喜の墓のかたわらに埋葬された。その後、完造の銅像が、郷里に建立された。

 筆者は岡山・上海直行第一便で上海を訪れた平成10年6月30日、万国公墓の完造夫妻の墓参をし、内山老板と中国の人たちとの庶民の友情を思い起こした。

(この文面は月刊誌「潮」平成15年2月号に執筆依頼、掲載された内容であり、編集部の許可を得て転載したものです。)

 
留学を前に懺悔                                      宮本 南海子
 私は何もかも与えられる環境で育ちました。周囲の人間は皆、無償で愛を私に与えてくれます。2番目で女子として生まれたので、後継ぎという圧力もかけられず、兄に比べれば自由に育ちました。勉強しません。好きな事しか出来ません。ズル休み当たり前。わがままに育ちました。その割りに、気は小さいのです。

 幼年期に人を見下す事、人の顔色を伺う事、逃げる事を覚えました。こうやって大人ぶる事も身に付けました。これらは今まで、私の命をよく繋げてくれました。

 私は18年間生きてきて、努力する事を知りません。フリはいくらでもできますが。「私は努力しています。一生懸命です。」何度もこの言葉で人を騙してきました。

 私の両親は最高の両親です。たとえ私が全てを敵に回しても味方でいてくれる人達です。こういう存在があるから、中国へ高卒留学という進路を実現できるのでしょう。"何とかなる"という思考が出来るのでしょう。だから、私は本当に自由に育てられました。本来、この様な場で私のような人間が文章を書くのも、親が与えてくれたものなのです。日中友好に貢献した訳ではありません。日中の架け橋になろうとも思いません。日中友好を人生のテーマにしようとも思いません。私はただ、自己形成の為に留学を利用するだけです。知り合いもいない、言葉も通じない、左右も分からない土地に自分を放り投げてやりたい、我侭に生きてきた自分に対する裁きだと思っています。留学するという決心は、ある意味審判だと思っています。少々ヘマしたっていい年齢だからこそ、決心できたのでしょう。

 大人が期待するような若者に私はなれません。留学が自分をプラスに向けてくれれば、それで良いと思っています。

 私は小さい頃から絵を描く事が好きでした。けれど、どこか人の絵を真似たような絵しか描けません。今、自分の絵が欲しいです。自分の絵を描ける人間になりたい。私は、こんないかにも、という夢を持っている唯の女子高生であります。
 
 最後に、こんな事しか書けなくてごめんなさい。私の気持ちを笑ってやって下さい。けれど中国留学で何かを感じてきたい、と自分なりに願っています。

簡単に出来る中華料理!
魚香茄子●("保"の下に"火")
(材料)ナス、豚肉、葱、生姜、大蒜、赤唐辛子、片栗粉、サラダ油
①ナスを適当な大きさに切る。葱、生姜、大蒜、赤唐辛子をみじん切りにする。
②鍋を熱し、ナスを入れてさっと揚げ、油を切る。
③鍋に油を少々入れ、細切り肉、葱、生姜、大蒜、赤唐辛子、トウバンジャンを加え、炒める。
④鍋にスープを加え、ナスを入れてよく火が通るまで煮る。最後に片栗粉でとろみをつける。

素菜湯
(材料)香菜、金針菜、カンラン、干シイタケ、春雨、ごま油、水
①香菜を洗い、干シイタケ、金針菜、春雨を水につけてもどす。
②カンランの皮を千切りにし、香菜を細切りにする。
③ゴマ油を鍋に入れて熱し、シイタケを炒め、さらにカンランの千切りを加えて3分ほど炒める。
④水5カップを加え、沸騰したら金針菜と春雨を加える。
⑤塩、うまみ調味料を適量入れ、香菜を散らす。               (中国語世界より)

ちょっとチャット(17) 北京西郊に眠る信州の高僧を偲んで        協会会員 安井 照幸 
 2001年の春、8日間の北京への旅に出ました。毎週1回の気功講座の仲間で、北京の研修本部に磨きをかけようと同勢30名のツアーです。中国国際航空で広島空港を出発大連経由北京空港着の便を利用しました。

 北京での研修場所は"北京市赤十字会伝統医学交流センター"という厳めしい名称の処で、気功と太極拳の講義と実技をミッチリ学びました。研修の合い間に息抜きを兼ねて小旅行が組み込まれていました。①承徳観光、②万里長城(居庸関)、③故宮参観、④潭柘寺塔林等々に足を運ぶことができました。
終極無初禅師之塔
終極無初禅師之塔
 潭柘寺は北京の中心部から西へ40キロメートルの山懐深くに抱かれ、緑豊かな沢山の樹々に囲まれた景勝の地にありました。潭柘寺の建立は西晋(265~316年)約1700年の歴史を誇る北京最古の寺院といわれています。小鳥のさえずり、樹々の葉末のささやきは、気功の研修には最適でした。このような静寂の環境の中に、75基の仏塔が林立、その規模、数量はともに北京最大で保存状態も最高といわれているそうです。それらの仏塔の中で、「終極無初禅師塔」なる石碑が目にとまりました。碑面には大要次のように刻まれていました。「無初禅師は日本国信州(長野県)に生まれ1374年南京にて修行を積み、明代永楽2年(1404年)請われて北京に移り、明の成租帝の思召しにより潭柘寺の住職となり、数々の功徳を施し(1429年)この地で逝去鄭重に葬られている。」

 無初禅師は日本仏教会では、その事績はあまり記されていませんが、明末の『補続高僧伝』のなかに「日本徳始伝」という一節があったそうです。遠い異国の地で活躍されて今ここに立派な石碑と共に、やすらかに眠りにつかれている禅師に思いを馳せながら、ご遺徳を偲び改めて尊敬の誠をお捧げします。

終極無初禅師之塔
日本の高僧で名前は徳始字名は無初号を終極という明代の初年に中国に渡来した。日本の信濃(現長野県)で宮司の子として生まれた。幼少のときに近在の寺で出家得度された明朝の洪武年間(1368~)に南京に来られ中国の山河名勝を探勝巡歴された。その際に(永楽帝1403~)当時の高僧姚広孝と知己を得ることができ永楽10年(1412)成租帝の思召しにより潭柘寺の住職に任ぜられた。この間に日夜孜々として寺の修復に努め4つの道場、修行場等を設けて逝去した宜徳4年(1429)七層の塔を築きその塔院に納骨した。
活動日誌
1/9 中国三誌友の会。新年会
1/22 平成15年度第1回理事会
2/1 2003年度総会新春互礼会
2/13

中国三誌友の会例会

中国関連消息 図書紹介
『周恩来と日本―苦悩から飛翔への青春』
 南開大学周恩来研究センターと創価大学の共同研究『留学日本時期的周恩来』中央国交正常化30周年を記念して翻訳出版。周恩来の「人生の転換期」といわれる日本留学時代の姿を浮き彫りにする。
 王永祥・高橋強編著/周恩来・鄧頴超研究会訳 白帝社 四六版 400頁 1,500円

『斉了!ちいら!―文化大革命期に中国を旅した若者たちの30年』
 1965年から72年の間に中国を訪れた日中友好学生訪中団「斉了会」のメンバーの回顧録。周恩来との会見記録や当時の新聞報道などの記録とともに、文革期の貴重な写真も多数収録。
 斉了会編集委員会編 斉了会 A5版 466頁 2,667円

先憂後楽
 春節も過ぎ、暦の上では春が到来した。中国では胡錦涛総書記のもとに新しい指導体制が確立し、地方政府を含めて急速に世代交代が進むだろう。2008年の北京オリンピック、2010年の上海万博という大きな国家行事がスケジュールに上がってきており、活気ある進展が予想される。

 協会も総会を終え、特定非営利活動法人(NPO)化が承認された。これまでの協会と趣旨目的や内容は変わらないが、人格を有し、社会にいっそう責任を持って活動していくことが法人化への大きな目的だ。ただし、器を変えても中身が変わらなければ意味がないので今後の組織と活動の活性化こそが重要な課題だ。

 大阪と三重の友好協会の活動を聞いてみた。大阪では友好都市の上海市との交流を軸に一昨年のNPO化後も雲南省への教育支援活動などを始めている。三重では企業研修生の受け入れ窓口となり、業務が忙しくなったが、友好関係にある河南省の緑化支援や貧困地域への教育支援を政府の援助資金を運用して継続している。

 各地の協会はそれぞれ歴史があり、組織・活動の規模内容とも千差万別。ただ、はっきりしていることは、地方の独自性を踏まえ、市民の要望に沿った活動を展開しているところが存在価値を増しているということだ。

 世界的な規模での戦争の危機や朝鮮問題など、きな臭い情勢の中で、日中友好の精神が平和の推進力になることを願って、新しい気持ちでこの1年進んでいきたい。(松)


「岡山と中国」ご希望の方にはご郵送いたします。  
また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


戻る   このページのトップへ トップページへ