2004年4月
平成16年4月
  166号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
岡山県日中教育交流協議会 設立5周年 記念講演会
 
「日中教育交流と日中関係について」          大阪総領事館副総領事 韓 佐民
 3月6日、協会と友好関係にある岡山県日中教育交流協議会(会長・黒瀬定生氏)が設立5周年を記念して講演会を開いた。講師は、中華人民共和国駐大阪総領事館副総領事 韓佐民氏。
韓 佐民氏略歴

韓佐民講師
1944年2月2日 山東省で出生
1968年 北京外交学院を卒業
1968年 天津大港石油会社勤務
1972年 中国外交部外交人員服務局局員
1984年 中国駐日本大使館二等書記官
1988年 中国外交部新聞司副処長・一等書記官
1998年 中国人民外交学会アジア・アフリカ・ラテンアメリカ部部長
2002年 中国駐大阪総領事館副総領事
 以下は講演要旨である。

 私たち中国人が岡山について知っていることは、岡山と中国との交流が遠い昔から長く続いているということです。岡山と中国は、昔から深いつながりがある所だと思います。

 岡山県日中教育交流協議会は、中日両国の教育交流及び青少年の相互訪問、相互交流のために大変努力しておられます。それに対して心から敬意を表します。

 中日の教育交流の中日両国にもたらす影響は、世界中のほかの国々に比べて、比べることのできないほど大きいものがあります。

 これまでの中日教育交流についてまとめてみますと、古代は日本から中国へ留学する一方通行、近代は中国から日本へ留学する一方通行、現代は両国の相互交流になったと言えるのではないでしょうか。

 中国と日本の国の交流の歴史は2000年以上ありますが、その中で文化・経済・政治・教育など各分野で交流を行なってきました。これらの交流の中でいちばん重要な交流は、やはり教育の交流だと思います。

 古代の中国は、世界の先進地だったので、日本は国を発展させるため、遣隋使や遣唐使を十数回派遣しました。遣唐使の中には、留学生や留学僧が入っていて、中国の先進的な政治・文化・教育・宗教などを勉強して、帰国後、日本の各分野の発展に貢献しました。

 留学生の中でいちばん有名な留学生は、岡山出身の吉備真備です。彼は2回中国に行っています。1回目は留学生として、2回目は副遣唐使として行っています。帰国して日本の文化・法律・教育などの発展に大きな貢献をなさいました。
 
 小泉首相は国会の施政方針演説の冒頭部分で「天の将に大任をこの人に降さんとするや、必ずその心志を苦しめ、その筋骨を労せしむ」という『孟子』の中の言葉を引用され、結びの部分でも、『墨子』の中の「義を為すは、毀を避け、誉に就くに非ず」という言葉を引用しておられます。このことは、古代の中国の教育交流が日本の発展に重要な役割を果たしたことのあらわれと思います。

 近代になって、明治維新以後歴史の流れが変わり、それにともなって両国の関係も、教育交流の流れも変わりました。今度は、中国から日本へ留学生を派遣するようになりました。1896年、多くの若者たちが日本に派遣されました。10年後には、8,600人にも達しました。代表的な留学生として、魯迅と郭沫若があげられます。辛亥革命で、清朝を打倒して中華民国の誕生に日本に留学した学生たちが活躍しました。中華民国の初代の閣僚の大部分は、日本に留学して帰国した人たちです。このことは、近代の日本の教育交流が中国の発展に重要な役割を果たしたことのあらわれと思います。

講演風景
会場風景
 政治の分野だけでなく思想・学術・文化・教育などの各分野で、日本に留学した事のある人たちが活躍しています。岡山の官制第六高等学校の留学した郭沫若は「中国文壇の半分以上は日本に留学した学生たちによって築きあげられたものである。」と言っておられます。

 漢字について考えてみますと、漢字は昔、中国から日本に伝えられ、日本の古典は漢字で書かれていて、日本人は漢文で勉強しました。近代になって流れの方向が逆になり、日本で作られた漢語が中国に輸入され使われるようになりました。例えば、社会・生産・階級・主義・民族・民主・革命・資本など、いわゆる和製漢語と言われているものです。

 中国人と日本人は、たとえ言葉が通じなくても、筆談で交流ができます。これは、やはり、昔から現代までの教育の交流のおかげだと思います。中国と日本のように、教育交流で、それぞれの国にもたらした重要な役割、及び両国関係に対する影響の大きさは、世界の他の国々には見られない特別なものと思います。

 1949年、新中国ができてから、いろいろな事情で中日教育交流は一時中断しましたが、中日国交正常化以来、両国関係の発展に従って、教育分野の交流も活発になりつつあります。1970年代、中国が改革解放政策をとってから後、両国の各学校、各地域の交流は盛んになっています。今、大きな流れになりつつあります。

 留学生を例にとりますと、去年、日本に留学した中国人の学生は、70,814人で、日本の大学に在学した外国人の65%を占めています。日本から中国に留学した学生は、16,084人で、外国人留学生の18.6%を占めています。これらの数字からわかるように、中日の教育交流は、昔の一方通行から、だんだん相互交流に変わってきました。

 21世紀の教育交流は、これまで以上に重要になってくると思います。それは、単に中国と日本の二国間の交流にとどまらず、世界の中の中日関係になると思うからです。今や世界の人的・物的交流は、歴史上かつてない速さ、大きさで進んでいます。自分の国、自分のことだけを考えていたのでは、これからの時代の責任を果たすことはできません。また、自分の国の発展にも貢献できません。国際理解・国際的感覚・国際的視野を持つ人材を育てるために、日中教育交流を進めていかなければならないと思います。

 これからの中日関係の肝心な所は、人の問題です。人の問題で肝心な所は、教育の問題です。私は中日間の交流はまだ充分ではないと思っています。特に若者の交流が足りない。青少年の交流、教育関係者の交流に、今後とも岡山県日中教育交流協議会が、大きく貢献できるものと信じています。(文責 岡本)

郭沫若と岡山(1)                           岡山大学非常勤講師 劉 建雲
劉建雲先生の略歴
劉建雲先生
1986年7月 中国吉林大学外国語学部卒業
1989年7月 中国東北師範大学修士課程修了
2001年3月 岡山大学文化科学研究科博士課程修了、学術博士
1989年7月~1994年3月 中国北京北方工業大学専任講師
現在 岡山大学非常勤講師
後楽園仍在 烏城不可尋
願将丹頂鶴 作対立梅林

一九五五年冬 郭 沫若
後楽園はあれど 烏城の姿は今はなし
かわりに丹頂鶴をはなちて 梅林に配せん
(林秀一先生訳)
 写真にある石碑の書と丹頂鶴の由来は、岡山の方ならみんな知っていると思う。つまり、書は1955年、当時63歳の郭沫若が戦後初の中国学術文化視察団長として来日した際、官制第六高等学校在学時代を思い起こして書いた即興詩であり、丹頂鶴はこの詩の中で寄贈を約束したのが翌年送られたものである。

 郭沫若(1892-1978)中国の現代文学者・歴史学者・古文研究者として名高い。また、国務院副総理・科学院院長・全国文学芸術連合会主席・全人代常務副委員長・中日友好協会名誉会長などの要職を歴任した政治家・社会活動家としても知られている。彼はその86年間にわたる長い生涯の中で、日本と密接な関係を持っていた。青年期はかつて10年間も日本に留学し(1914~1923)壮年期はさらに亡命で日本に10年も生活していた(1928~1937)。中でも六高時代の3年間は彼の人生にとって最も重要な時期だったであろう。なぜならば、まさにこの六高時代の3年の間に、後の妻になった佐藤をとみと知り合い、結婚、さらに長男和夫を生み育てたのである。岡山は、最も貴重で多感な青春時代を過ごし、新世帯を持った所として、郭沫若に「第二の故郷」と言わしめている。

 1955年12月郭沫若が中国学術文化視察団を引率して岡山を訪問した時、「私は岡山で近代科学の教育を受け、また美しい自然が文学教育をしてくれた。岡山の風土は私の身体の中に生きている」と語っている。

1.下宿生活
 青春期の日本留学の10年間のうち、郭沫若は1915年9月から1918年7月にかけて3年間、官制第六高等学校に在学していた。

 最初の下宿先は「岡山市国富294」であって、現在の国富2丁目4番から5番付近に該当する。大家さんは「小川春」という60歳ほどのおばあさんで、同宿人は郭沫若と後に筆者の母校東北師範大学の初代学長となった成方吾ら留学生4人だった。小川さんは彼らの世話をきめ細かくしてくれたという。郭の留学時代の家族への手紙を整理・編集した『桜花書簡』(唐明中・黄高斌編注、四川人民出版社、1981年)という本の中に「住んでいる所の家主は60歳ぐらいのお婆さんでとても親切です。衣服が破れれば全部繕ってくれるしそれに鮮やかな花を部屋に飾ってくれます」とある。(つづく)

第4回日中女性フォーラム開催
 2月18日から21日にかけ、日中女性フォーラム実行委員会(会長―片岡和男協会長)の主催により、第4回日中女性フォーラムが開催された。今回は上海の浦東新区から婦女訪日団を迎え『家庭内暴力(DV)』や『女性の権利擁護』『社会進出』などをテーマに発表し討論した。協会は、岡山市男女共同参画課とともに招聘から実施に至るまで総合的に協力した。
第4回日中女性フォーラム  このフォーラムは平成12年に上海で開催されて以来、毎年相互に岡山市と上海市で開催されてきており女性を中心としたユニークな交流として注目を集めている。昨年は岡山の女声合唱団『虹』が上海市の合唱団『ジャスミン』と上海市工人文化宮でジョイントコンサートを開催し、平行して行われた第3回フォーラムとともに大きな成果を収めた。

 そもそもの発端は、上海市栄誉市民である江草安彦氏(協会副会長)が福祉、教育の交流に続いて女性同士の交流を上海市人民政府に提案し、婦女連合会と対外友好協会が実施母体となって岡山市との共同事業として始まったものである。

 昨年はSARSの流行で実施できなかったが、今年度中に実施しようという日本側の熱い思いが通じて年度内に実現にこぎつけた。
第4回日中女性フォーラム記念写真

 上海浦東新区からは労働社会保障局のFAN副主任を団長として婦女連合会、YECA、福祉関係者ら6名が来日した。詳しい状況は報告書が作成されているのでご覧頂きたい。(協会事務所にあります)

 既に平成16年度の交流に向けた準備が始まろうとしている。天の半分を支えるたくましい日中女性たちの今後の交流の発展を大いに期待したい。

追悼!藤原貢先生
 3月14日、藤原貢先生が逝去され、22日蓮昌寺法要会館においてお別れ会がしめやかに執り行われた。当日は雨が降り、吐く息も白くなるほど冷え込んでいたが、多くの参列者が藤原先生を偲んで参列した。

 先生は、岡山市と洛陽市が友好都市を締結した1981年当時、岡山市議会議長として、調印式に立ち会った。そして、公式訪問始め自ら団長として2回にわたり市民チャーター訪中団を組織し、市民間の日中友好交流に貢献された。私達はまた一人大きな友好人士を亡くしたが、先生の遺志を受け継ぎ友好の大道を歩むことで先生への恩返しをしたいと思う。藤原先生、長年にわたり本当にお世話になりました。安らかにお眠りください。
                              事務局長  松井三平

藤原貢先生
在りし日の藤原貢さん
岡山市日中友好協会NPO認証記念 第3回公開講座
「自然との調和と共生 ~チベット養生法研修について~   岡山理科大学教授 太田 正和
 岡山市日中友好協会がNPO(特定非営利活動法人)に承認されたのを記念して行っている公開文化講座の第3回目「自然と調和と共生」が開かれた。講師は、太田正和さん。

 太田正和さんは、岡山理科大学教授。人間・社会科学教育センター所長で、東洋医学、漢方について研鑽を積まれたその方面の権威者です。

 講演は、「大学体育養生研究にみる中国訪問の意義」「自然と調和と共生―岳陽医院、気功研究所を視察して―」「自然との調和と共生―チベット養生法視察研修―」の3冊の小冊子をテキストにし、180枚の写真をスライド映写して行われました。内容は二つのパートに分かれていましたが、パートⅠの岳陽医院と気功研究所の見学については、既に会報第161号で紹介しましたので、割愛し、パートⅡの「チベット養生法視察研修」にしぼって、その要旨を掲載します。

 私は上海で開かれた大学体育養生学研究会主催・第9回中国養生法研修会に参加しました。養生研究会に関連した訪中は5回目です。この会の目的として「共生原理の将来展望のもとに養生学研究の発展に寄与し、新しい人間観と研究成果との調和を求めて、もって福祉社会と健康生活と平和世界の創造のために貢献する」ことが掲げられています。自然との調和と共生のキーワードは3つ。1つはクオリティーオブライフ(QOL)[医療の主権は患者にあるという発想から、患者の生活や人生の質的な面に重点を置いて行う医療の考え方]。2つ目は、こころとからだの強化。3つ目は、身土不二です。身土不二とは、身体と土は一つだとする東アジアの思想。人の命を支える食は土が育てる。故に人はその土とともにあるということです。私たちの生活は、人工的環境に包囲されていて、自然との関係において、「生」を営む本来の姿を忘れがちと言われています。

太田正和講師  上海での研修会終了後、チベットを訪問しました。チベットは世界の屋根といわれ、厳寒で酸素が少なく(酸素含有量は平地の約70%)昼夜の温度差が大きく、地形が複雑な地でありながら、優秀な伝統文化が受け継がれていると言われています。そこに、数千年の歴史を持つ「チベット医学」があり、「医学は長く生きるための技術ではなく、よく生きるための知恵である。チベット医学は人間が生まれ、老い、病み、死ぬという人生全体を考え、『生』だけでなく、『死』も含む大きなライフサイクル全体を考えている。」と言われています。仏教国チベット独特の宗教的教義の影響も大きいことは言うまでもありません。チベット文化として民衆の生活の比重が多い寺院・仏教であるが故に、医療面・健康生活面とのかかわり、つながりについても重視究明しなければならないものがあると思います。
養生法を説く太田正和教授

 チベットは1965年に中華人民共和国の自治区となりましたが、元来、独自の文化的ならびに政治・宗教的特色をもった中央アジアの一領域です。広さは日本の約6倍で、その中心であるチベット高原は「世界の屋根」と呼ばれ、世界で最も広い高原で、生活環境が非常に厳しいことでも有名な所です。

 チベットの緯度は日本の九州より南にありますが、平均高度が4,000メートル以上もあり、ヒマラヤ山脈などの高い山脈に四方を囲まれているため高原性寒冷帯に属しています。気候の特徴としては平均気温が低く乾燥しており強風が吹くことが挙げられます。

 チベット族は中央アジアからトランス・ヒマラヤを経てチベット高原に定住した人々だと言われています。人口はチベット自治区内に約200万、世界全体で600万と言われていますが、確実な数は不明のようです。

 現在のチベット仏教には、多数の宗派がありますが、中でも信者の多いのが、ゲルク派、ニンマ派、サキャ派、カギャ派の四大宗派です。私たち一行が訪れた寺院はゲルク派寺院が多かったように思います。現在の僧侶の多くがゲルク派のため、寺院内で生活する出家僧の方が多数を占めています。チベットでは一家族に一人は僧とする習慣があり、家族が一丸となって出家した子どもを財政的に支えています。
講演風景
会場風景

 チベット医学は遊牧民の間に古来から伝わる民間療法をベースに、インドや中国医学の影響を受け発達してきたもので、西洋医学とは考え方が違っています。人体は、精徴、血、肉、脂、骨、骨髄、精の7つの物質からできているとしています。そして、人体の生理は、風素、胆汁素、粘液素の3つの要素で保たれていて、この中の要素が一つでも不調になったり、バランスを崩したりすると病気が発生すると考えられています。宗教と精神的要素が強くからんだ医学だと思います。先進国の医療の考え方と全く違います。「三体液のバランスを取り戻すこと。」これがチベット医学治療法の真髄と言っても過言ではないと解説されています。

 最後に、私が一番印象に残っているのは、チベットの案内人王千春氏の言葉です。「1965年解放時のチベット人の平均寿命は50歳で、30数年経った現在は65歳に延びている。それは、ビニールハウスなどの西洋の技術導入で各種野菜が育てられ、ビタミン、ミネラルの摂取量が増えたためである。」という言葉です。野菜摂取不足を指摘されている我々日本人にとっても大変考えさせられるコメントであったからです。

 「よく生きる」ということの健康観に立てば、野菜のハウス栽培で寿命の延長に貢献したことは、重大な視点としてとらえなければならないことと思います。東洋医学的発想からくる東洋・チベットの叡智と、西洋の知性が融合することの重要性・先見性の研究がこれからの大きな課題であることを教えられたチベット訪問研修でありました。(文責 岡本)

ちょっとチャット(24) 中国の劇的な変貌                   協会理事 永山 久人
 当社は現在、上海でタクシーの合弁会社を、広州において胡蝶蘭の生産農場を営んでおります。おかげさまで上海のタクシー会社は創業10年目に入ろうとしており、その間多くの皆様にご支援いただきましたことを心より感謝いたしております。

 思い起こせば会社の設立に向け訪中しましたのが12年ほど前でした。当時の上海では、市民の多くが人民服(緑色の軍服?)を着用し、町には自転車が洪水の如く溢れかえっていました。インフラの整備も進んでおらず、当社の古参役員たちは「まさに戦後の日本そのもの!」と申しておりました。持参するお土産も100円ライターやパンティストッキングなど、日用品で充分喜ばれたものでした。

 ところがその後は皆様もご周知のとおり、中国は劇的な経済発展を遂げ、上海は今や世界で有数の大都市へと変貌しました。巨大な高層ビルが立ち並び、高速道路が縦横無尽に走り、街にはお洒落な若者たちが闊歩しております。さらには日本でお目にかかれないリニアモーターカーも実走しており、地下鉄の切符は既にICチップ対応になっています。昨年あたりから、髪を金髪に染めている若者の姿も多く目につくようになりました。

 ほんの10年の時間で、人民服から金髪に変わるわけですから、その経済の成長スピードたるや我々日本人には到底想像も及ばないものでしょう。その一方で大都市と農村部の所得格差、不良債権問題、元の切り上げなど、中国ならではの問題も数多く発生しているのも事実です。しかし、それらの諸問題もおそらく中国はその柔軟な感覚で乗り切ると思いますし、世界の工場としての地位は不動のものであるとも思います。

 今まで世界の工場の地位は紛れもなく日本でありました。その地位を失った日本は未だに苦しんでおります。今はまだ暗中模索の状態ですが、いずれ日本も、世界に貢献できる新たな役割を見出すと思います。そして世界における中国の役割、世界における日本の役割をしっかりとお互いに遂げる時代がくるように感じております。今後も中国と日本は、良き隣人として良き関係が長きに亘って続く事を願ってやみません。(下津井電鉄・社長)

岡山市日中友好協会NPO法人化記念 文化講座(第4回)「中国漢詩紀行―長江を下る―
講師 岡本逸郎 中国短期大学非常勤講師
日時 4月17日(土) 午後2時~4時
場所 クレドビル17階 男女共同参画センター
参加費 700円(会員は500円)
申込


電話かFAXで協会へご一報下さい
  電話 086-225-5068  FAX 086-225-5041

会員消息
【入会】
福田禧代さん(岡山市日近)
明楽和美さん(岡山市日近)
松本彩さん(岡山市平福)

【お悔み】
藤原 貢さん

活動日誌
2/12 中国三誌友の会、第126回定例会
2/14 第3回文化講座「自然との調和と共生」
2/19 第4回日中女性フォーラム
3/11 中国三誌友の会、第127回定例会
3/28

第52回中国語検定試験実施

中国関連消息
 2003年3月14日に開催された洛陽市第十二期人民代表大会第一回会議において、劉典立氏が洛陽市人民代表大会常務委員会主任に当選し、李貴基氏が洛陽市長に当選した。

図書紹介 『ぼくらの村にアンズが実った』 [中国・植林プロジェクトの十年/高見邦雄著]
 中国西北部に広がる黄土高原は、年間降水量たった400ミリ前後。毎年のように旱魃に襲われ、中国で最も貧しい地域の一つだ。深刻な水不足に悩むこの地で、少しでも砂漠化を食い止めようと、木を植えつづけている日本人がいる。その一人が高見邦雄―NGO「緑の地球ネットワーク」の事務局長である。

 反日感情の強い村人から「日本鬼子」とののしられ、ようやく根付いた苗木は野兎の食害やアブラムシの大発生によって、全滅してしまう。ことなかれ主義の共産党幹部とは大ゲンカ。失敗、失敗の連続。だが、やがて中国でも日本でも、少しずつ仲間が増えてきた。そして今、このプロジェクトは「大地に木を植えるだけでなく、人の心に木を植えている」と日中両国で多くの人の心を動かし始めている。苦難の日々を感動の筆致で綴ったヒューマン・ドキュメント。(日経新聞者刊)

先憂後楽
 岡山市と洛陽市の友好都市関係が凍結という事態になって早くも1年が経過した。この間行政同士の交流はストップしたまま打開の道筋も明らかにならないまま今日にいたっている。

 友好都市の締結は1978年の日中平和友好条約締結以降全国的に波及し、昨年末の統計では294組が提携している。(社団法人日中友好協会統計)

 締結に至る経過にはそれなりのいきさつと交流実績などがあり、多くの人々が情熱を注いだことが伺われる。北京と東京、上海と大阪、西安と京都などは当然の推移と思われるが、個人的な友情関係や日中戦争の反省から不再戦を誓いあう関係から発展していった例などそのいきさつは誠に多様である。

 新見市と信陽市も、戦時中飢えと病に倒れそうになった時助けてくれた恩返しの気持ちを持った岡山市の男性の思いが実って10年近い交流を重ねた結果締結に至り、現在は子供同士の相互ホームステイなどで交流が継続している。

 「飲水不忘掘井人」(水を飲む時は井戸を掘った人のことを忘れてはならない)という中国の格言がある。地方同士の交流を促進するために多くの先人が苦労して築き上げたこの友情関係を私達は大切に守り発展させなければならない。これは私達に課せられた大きな責任ですらある。関係方面の人々と英知を結集して正常化に努めたい。(松)

実践中国語講座 受講生募集
入門クラス
毎週月曜日6時半~8時
初心者を対象にして、簡単な日常会話から、発音を学び、中国語の基礎を養う。
初級クラス 毎週水曜日6時半~8時
1~2年程度の学習経験者を対象にして、正しい発音で日常会話の練習をする。
中級クラス 毎週木・金曜日6時半~8時
2~3年程度の学習経験者を対象にして、文章読解、会話等の応用力を高める。
上級クラス 毎週火曜日6時半~8時
5年以上の学習経験者を対象にして、主に新聞読解とその記事による討論、スピーチを全て中国語で行う。

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