2005年12月
平成17年12月
  176号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
2006年年頭のご挨拶
片岡会長写真 NPO岡山市日中友好協会 会長 片 岡 和 男

2006年新春を迎えて

 岡山市日中友好協会会員の皆様、ご支援・ご協力頂いている皆様には輝かしい新年をお迎えになり、誠におめでとうございます。

 昨年の協会の訪中団では、10月31日には洛陽市郊外の黄河ダムに沿う丘陵地帯に2,000本の植樹を、多くの地元の人達と行いました。日中緑化交流基金贈呈式、「洛陽・岡山中日友好林」の石碑の除幕式があり、両市の友好の歴史に残る事業になりました。
 同日午後、洛陽人民代表大会常務委員会主任、対外友好協会会長の前市長劉典立氏を表敬訪問し、高谷茂男岡山市長が交流の正常化に熱意を持ち、今年四月の友好都市締結二十五周年記念式典にはぜひ出席したいとの意向を伝えました。劉会長は即座に、喜んで招待、歓迎すると約束されました。このことは帰国後、高谷市長に報告しました。その後、市当局、市議会、関係者、そして洛陽市当局と凍結解除に向けての協議が行われており、問題が解決し、牡丹の花咲く洛陽に、高谷市長を団長とする市民訪問団が熱烈歓迎に迎えられての訪問の光景を思い浮かべております。

 11月1日は白馬寺の印楽大和尚の方丈昇座記念慶典に招待され参列しました。洛陽市との相互交流は、それぞれの有意義な技術研修の成果を得ており、また、学術、芸術の講演も行われました。

 さて今年は、協会創立二十五周年記念の年であります。記念式典・事業を、昨年末の理事会で協議していただき、内容を詰めて行くことになりました。今後、協会は日常活動を活性化し、会員の増強と共に、協会の企画、実行の機能の充実を計らなければなりません。皆様のご支援、ご協力を頂きたく念願しております。どうか私を乗り越えて、盛り上がり、飛躍することを期待しております。最後になりましたが、皆様のご健康、ご多幸を祈念いたしまして新年のご挨拶と致します。

高谷岡山市長 岡山市長  高 谷 茂 男

ごあいさつ

新年明けましておめでとうございます。

 皆様方におかれましては、希望に満ちた輝かしい新春をお迎えのこととお喜び申しあげます。
 平素から洛陽市との交流をはじめ、本市の国際化事業に対し格別のご理解とご協力を賜り、厚くお礼申しあげます。特に、貴協会が本市における日中両国の民間交流の中心的役割を担われ、様々な分野において実りある成果を上げておられることにつきまして、深く敬意を表するものであります。
 本年は、洛陽市との友好交流25周年という節目の年であります。この記念すべき年に当たり、両市の交流の礎を築かれた先人の多大なご尽力に深く感謝いたしますとともに、今後の末永い両市の友好関係の発展に努めてまいりたいと考えております。今後とも変わらぬご支援を賜りますよう何卒よろしくお願い申し上げます。

 また、本市では、市民の皆様と手を携えて、世界の国々からも「岡山へ行って住みたい」と言われるような希望に満ちた国際都市づくりを進めてまいりたいと考えておりますので、併せてお力添えをいただきますよう心からお願い申しあげます。

 最後に、貴協会のますますのご発展と会員の皆様方のご健勝、ご多幸を祈念いたしますとともに、市政の推進に一層のご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げまして、新年のごあいさつといたします。

第5回理事会開かる
 平成17年度第5回理事会が12月9日、片岡会長以下理事11人出席のもと協会で開かれた。松井事務局長が7月16日に開かれた第10回公開文化講座「野中広務氏特別講演会と懇親会」の報告書を説明したあと、12月8日までの協会活動について報告した。

 つづいて、次の事項を協議した。
(1)岡山市洛陽市友好都市凍結解除への活動について
(2)日中緑化交流事業について
(3)岡山市洛陽市友好都市締結二十五周年記念事業について
(4)岡山市日中友好協会設立二十五周年記念事業について
(5)2006年度総会・日中友好新春互礼会について

「会員の皆様」二十五周年記念事業のアイディアをお願いします。

「洛陽・岡山友好林」−建設第2陣訪中− 紅梨等2,000本植樹
洛陽岡山中日友好林記念碑除幕式
岡山市日中友好協会訪中団が洛陽を訪問!

 片岡会長を団長とする総勢17名が10月30日から11月3日にかけて洛陽市を訪問した。おりしも岡山市長に高谷茂男氏が当選し、懸案になっている友好都市凍結解除への動きが本格化する中での訪問となった。また、10月24日に『日中緑化協力基金』の交付決定通知が届いた直後でもあり、3年前から協会が手がけている小浪底での植樹活動が新たなスタートを切る訪問でもあった。そしてもう一つの大きな目的は、白馬寺の印樂住職が正式に方丈に昇格する式典に参加することであった。

洛陽・岡山中日友好林記念碑除幕式
洛陽市への表敬訪問
 訪問団一行は、高谷市長の親書と手土産を携え、31日に牡丹城賓館で劉典立氏と会見した。劉氏は洛陽市前市長であり、現在は日本の市議会に当たる洛陽市人民代表大会(全人代)の常務委員会主任という要職にある。私たち友好協会のパートナーである洛陽市人民対外友好協会の会長でもある。会見には外事弁公室の李留章主任や方双建副主任も同席した。
 
 片岡会長が来年の友好都市締結二十五周年にあたって市民訪問団の可能性に触れたのに対し、劉典立氏は、高谷市長を団長とする訪問団の洛陽訪問を熱烈に歓迎すると言明し、新市長の下で不正常な両市の関係が修復されることを確信していると強い期待を述べた。そして、高谷市長へくれぐれもよろしくと笑顔で語り、唐三彩の記念品を手渡した。今回の訪問での一番の収穫はこの『言葉』であったといえる。

小浪底の植樹
 昨年の丁度同じ頃、第一次の植樹訪問団を組織し、初めて地元農民らと汗を流したが、今回は日中緑化交流基金交付が決定したこともあり、植樹現場では、李外事弁公室主任や孟津県の県長、小浪底鎮長らが参列し、盛大なセレモニーが行われ、『中日友好林記念碑』の除幕がなされた。その後、地元小浪底中学の生徒を含め約100名が参加して協会訪問団らと紅梨の木2,000本を植えた。黄河を臨むボウ山台地は快晴で、絶好の植樹日和だった。団員たちは中学生らと談笑したり記念写真を撮りながら、植樹にさわやかな汗を流した。

 協会ではカウンターパートの洛陽市人民対外友好協会と協働し、3年間に約33ヘクタールの植樹を計画している。環境問題、日中相互理解とからめて幅広い市民運動を目標に、来年以降の展開が期待されている。(松井三平)

白馬寺に新風印楽方丈が昇座祝典協会から17名参列
 白馬寺二千年の歴史に新しい一ページが開かれた。印楽法師(39歳)が方丈位にのぼり、管長に就任した。若々しい方丈の今後、縦横の活躍が期待される。

 その昇座式典が、11月1日同寺で盛大に催された。境内は中国各地の僧侶、洛陽市の主要幹部、信徒らの人波であふれる中、新方丈が誓いのことばを発せられた。当協会17名(片岡和男団長)も奉祝に参列。私が国際賓客を代表し、冒頭のような祝辞をのべた。

 白馬寺は中国最初の寺院。81年、岡山−洛陽市の交流が始まって24年め、第1回訪中参拝で海法住持が歓迎された。文革が終ってほどない時、紅潮した表情で緊張がまだ解けないころだった。それから今日まで交流は順調に発展している。これまでに白馬寺の徹玄方丈が86年、海法住持が92、94年の二度、岡山で交流。岡山から同寺に参拝した市民は数多い。

 今回の協会訪中団は、孟津県小浪底で緑化運動に参加、紅梨二千本の苗木を植えた。なお、友好事業の未来プロジェクトに「日本寺建立」があり、日中双方の話題になった。白馬寺の国際寺院化構想で、洛陽市宗教局、海法方丈が十年前、発表してから懸案となっている。

 若々しい印楽方丈の昇座は洛陽、岡山の交流の発展に大きなエネルギーになるだろう。(宮本 光研)

再会感激!
 今回2回目となる洛陽小浪底での植林事業に参加することが出来、心配していた天候も良く、作業するには汗ばむくらいの気候でした。

 式典も進み「洛陽岡山中日友好林」の記念碑の除幕を行い、地元の人と植林作業にとりかかる。今年は約100名の中学生が参加し、すでに地元の人が掘っていた穴へ、植付けもスムーズに進んだ。どこの国の子供も同じで数人が集まると、立ち話が始まり作業の手が止まる。中国語の出来ない私としては歯痒い思いをしながら「話ばかりせずに仕事をせえ」と身ぶり手ぶりをすると素直に2、3人に分れ作業をするのには感心した。(日本の私の周りの子供は、これほど素直に聞くだろうか?)

 その姿を見て、自分達が黄土の緑化促進に参加している自覚をもっていると感じたのは私だけだろうか?黄土高原を車窓から眺めると、何百、何千年の年月によって数メートルから数10メートルの谷ができている。流出した土は、黄河に沈澱する。1年に10センチ溜るという。この状態が続けば将来大変なことになる。中国は「百年の計」で土砂流出防止計画があり、黄河周辺の植林がそれである。その計画にいち早く参加したのが岡山市日中友好協会である。この事業に参加できた私にとって、思い出多いことである。

 この度の洛陽訪問は、夫婦で参加させていただいた。もう一つは、昨年洛陽市仏教交流訪日団の白馬寺印楽和尚が来岡された際岡崎嘉平太先生の墓参をしたいとのことで地元の私が案内役をお引受けした。岡崎記念館、菩提寺、墓地。その後、庶民の我家で日本文化のお茶事「茶飯釜」を妻と娘でおもてなしをしたところ興味をもたれ、心和まれておられたことが印象に残っていたので、ぜひ会いたいと思っていたが、再会することが出来た。妻とともに参列でき、歓迎会での祝典席で印楽大和尚が話の中で娘、孫のことにふれられ、感激した。
 妻、曰く、「私、中国に、はまりそう!」(三尾 尊弘)

岡山市日中友好協会NPO認証記念 第12回公開講座
「私のシルクロード」                    講師 オリエント美術館館長 谷一尚 
谷一尚講師
 第12回公開文化講座は、「私のシルクロード」と題して、谷一 尚岡山市立オリエント美術館館長に講演して頂きました。講演の要旨を、日本隊の隊員として発掘に参加されました妹尾信子さん(協会会員)にまとめて頂きました。

 シルクロードという言葉は、ドイツの地理学者リヒトホーフェンが1877年、自著『中国 China』第1巻で、漢代に中国と西トルキスタンおよび中国の西北インドとの絹貿易をとり結んだ中央アジアの交易ルートを、ザイデンシュトラーセンという言葉を用いたのが始めとされます。シルクロード(Silk Road)はザイデンシュトラーセンの英訳です。この時は、「絹が運ばれた西域の道」という狭い意味で使われました。
写真を投影しながら話す谷一館長
 
 シルクロードには3つのルートがあり、天山山脈の北を通る天山北路、天山山脈の南を通る天山南路、天山南路はさらにタクラマカン砂漠の北側の西域北道、タクラマカン砂漠の南側で崑崙山脈の北側の西域南道に分かれます。これらのルートは山と山の間を通っています。高い山の雪解け水は山のふもとに涌き水として出てオアシス都市を形成します。

 これらの、水が出る所を繋いだ砂漠のルートを「オアシス路」と言います。ここの人々は、涌き水をカナートと呼ばれる人工水路で引いて暮らしていましたが、水路が機能しなくなると町は廃墟=遺跡になります。そこから発掘調査でさまざまな遺物が出土するのが、シルクロードの魅力といえます。シルクロードはこのオアシス路以外にも、北を回って馬で駆けめぐる草原地帯を「ステップ路」、船で南を回る「海上路」があり、絹だけが運ばれたわけではありませんが、これらのルートを総称した交易路をシルクロードというように考えられ、現在に至っています。つまりユーラシア大陸を巡る東西交易路の総称としてシルクロードという言葉は使われております。

 我々が中国で発掘しましたのは、寧夏回族自治区、固原の一画であります。西安から河西回廊を通り、敦煌を経て、嘉峪関、玉門関を抜けて、新疆に至るのがシルクロードのメインルートですが、そのルートだけではなく、寧夏を通るルートもありました。固原は西安から西北に400qのところに位置します。固原で発掘を行う事になったいきさつは、1990年代に中国の文物保護法が改正になって外国との合同発掘が許されたことによります。日本の文部科学省に研究費を申請し、それが認められ、中国との合同発掘契約の締結に至りました。実際発掘が許可されたのは、日本の二つの研究チームで、一つは私が発掘隊長を務めた寧夏回族自治区の固原遺跡で、もう一つは、新疆ウイグル自治区のニヤ・ダンダンウイリク遺跡です。我々の発掘は、1995年から2000年、シルクロードの重要な遺跡がある寧夏回族自治区固原で行いました。

 1年目の1995年は、658年没の唐朝の皇宮護衛長官、史道洛と妻、康氏の墓を発掘しました。墓主、没年等は墓誌によって明白になりました。史氏は中央アジアからシルクロードを通じてやってきたペルシャ系の人に与えられた姓です。安氏はブハラ、史氏はシャフルサブズ、康氏はサマルカンド出身者というように同じ都市出身のペルシャ人には、同じ姓が当てられました。出土した骨を分析したら、黄色人種でなく、白色人種であることが確認されました。これを公表しようとしましたら、中国側より、中国の代表的な唐王朝の中枢に黄色人種である漢民族以外の白色民族がいたことを公表されては不都合だと、難色を示されました。中国は少数民族問題という微妙な問題に神経質になっているように思われました。この時出土した金銀極彩色の鎮墓獣と武士俑は、現在日本で行われている「美の十字路」という展覧会で初公開されています。

 2年目の1996年は、575年に亡くなった北周の柱国大将軍、田弘の墓を発掘しました。この墓も墓誌が発掘されたので、被葬者が判明しました。この墓の墓誌は盗掘坑より発見されました。本来、主人の墓誌と妻の墓誌を一緒に埋葬していましたが、小さい奥さんの墓誌はすでに盗掘されておりました。盗掘坑には主人の墓誌と一緒に馬の骨が埋まっておりました。盗掘屋が、先ず小さい奥さんの墓誌を馬で引き上げて、それから大きな主人の墓誌を引き上げようとした時に、馬が足を滑らせて、首の骨を折って穴に落ちて死んでしまったので、あきらめてそのままにしたことがわかります。墓誌が残されたため、被葬者の名前がわかりました。この墓には、壁画も比較的保存状態がよい形で残っていました。

 また、この墓からは、東ローマの金貨が6枚発見されました。金貨には東ローマの皇帝の刻印があり、それによって発行年がわかり、また中国でお墓に埋葬された年代もわかるので、どれくらいの時間で中国に入ってきたかということが判明します。最も新しい金貨と埋葬年との差は25年程度で、西から東に文物が移動するのに、従来一部でいわれていたように百年とかかかっていたわけではありません。金貨には孔が空けられており、それは服に勲章のようにして縫いつけられていたと思われます。田弘墓からの一括6枚の金貨の出土は、同一墓から発見された東ローマ金貨の枚数としては、中国での最高記録であります。田弘墓から発見された金貨の内一枚は、孔は空いてなく、頭蓋骨付近から発見され、これはたぶん口に含ませていたと思われます。ローマには死者の口にコインを、中国には「含蝉」といって玉(ぎょく)製の蝉を口に含ませる習慣があります。

 本日は、「私のシルクロード」ということで、いままで行ってきたシルクロード調査の一端とその成果とを中心にお話いたしました。
お礼
 劉建雲先生の博士論文出版資金のカンパをお願いしましたところ、たくさんの方々からのご協力を頂き有難く厚くお礼を申し上げます。11月16日、金10万円を手渡しました。ご協力有難うございました。多くの皆様に厚くお礼を申し上げます。(協会会長 片岡 和男)

岡山の皆様へ感謝の言葉
 私が自分の研究を日中友好協会の方々の前ではじめて語ったのは、昨年の冬、三誌友の会に参加させていただいた時でした。今年3月、同協会の片岡和男会長のご要請により、第八回公開文化講座を持たせていただきました。一般の方々の関心について知ることができ、有意義な経験となりました。この度、また、会員の方々の力強いご支援により、博士論文が無事公刊出来ました。心より厚く感謝申し上げます。同書が今後の日中友好関係の順調な発展に、少しでも寄与できればと願っております。(劉 建雲)

ちょっとチャット(34) 岡山県日本語教育研究会二十年の歩み      協会会員 光元 聰江
 岡山県日本語教育研究会は岡山市日中友好協会の日本語教室で、日本語を指導するボランティアの、日本語教育研究組織として1986年6月に結成され、事務局を協会内に置き活動を開始した。毎週土曜日に2時間、中国からの帰国者に日本語を教える傍ら、第1、第3日曜日に日本語の研究会を開き、教授法の研究とテキスト作りに取り組んだ。

 中国からの帰国者の子どもたちが言葉、制度の異なる日本の学校に不安を持って転入していることを知り、なんとか子どもたちの不安を払拭したいと考え、そのためのテキストと練習帳を作成した。

 1987年に児童用日本語テキスト「つとむ君の学校生活」を山陽放送学術文化財団の研究助成により発行、1988年には、福武教育振興財団の助成により「練習帳」と「指導の手引き」を作成した。

 これらは、中国帰国者の子どもに対するものであったが日本語教育の必要な外国人児童が1万人を超える状況になったので、どこの国の子どもにも対応できるビデオ視聴覚教材を作成することになった。

 来日した日本語教育を必要とする外国人の子どもたちは、自国とは制度の異なる日本の学校に入るので、言葉の問題と同時に、学校生活への不安を募らせている。「つとむ君の学校生活」は、こうした子どもたちの就学前の不安払拭の助けとなる教材を意図して、短期学習用として作成された。このテキストをビデオ化すれば、たとえ指導者がいなくても、就学前に親子で見るだけでも、日本の学校生活の概要がわかり不安の解消に役立つと考えた。幸い赤坂町立軽部小学校の協力を得て、1995年から二年間にわたって授業風景と学校行事を8ミリビデオカメラに収めることができた。

 中国から帰国した子どもと母親に視聴してもらったら、「一日の日本の小学校の生活の流れがよくわかる。」「中国と日本の学校生活の違いがよくわかる。」と高い評価を受けた。ビデオカメラ等の視聴覚機材は、松下視聴覚教育研究財団の助成金で購入した。

 1998年、教育課程審議会の最終答申で、子どもたちに情報の発信、受信の基本を身につけさせ、主体的に情報を活用していける能力を培うことが示されて以来、学校現場にコンピュータの導入が急速に進んだ。再度、松下視聴覚財団助成を得て、パソコンを購入し、ポルトガル語とスペイン語を母語とする児童が、ローマ字入力でカタカナ語を表記する場合の問題を解決するための練習用教材を作成した。

 外国人の子どもにとって、教科学習で困難と考えられているのは、国語科と社会科である。中でも国語科は、教科書の文字の多さと一文の長いことで難しい。そこで、子どもたちに現在学習している国語教科書を易しく書き換えたリライト教材・音読譜を提供するため研究を進めている。来年の春までに、「外国人児童生徒を教えるための、すぐに役立つリライト教材(教科書対応)」を出版する予定である。

活動日誌
10/24 平成17年度日中民間緑化協力委員会資金助成金交付決定通知
10/25 会報「岡山と中国」175号発送
10/30 洛陽植樹と白馬寺方丈昇座祝賀参加訪中団出発、11月3日帰国
11/10 中国三誌友の会第145回例会
11/16 「中国人の日本語学習史」出版助成金十万円を劉建雲さんに贈呈
11/26 第12回日中友好公開文化講座「私のシルクロード」。講師 谷一尚 岡山市立オリエント美術館館長
12/1 陵南学区友好国際交流委員会発足会議
12/8 中国三誌友の会第146回例会・忘年会
12/9

第5回理事会

会員消息
【入会】
片山泰弘さん  (岡山市清水)
平松龍四郎さん (岡山市撫川)
下田洋子さん  (岡山市高柳西町)
井上英雄さん  (岡山市谷万成)

中国関連消息
「吉備の渡来文化」展覧会−渡り来た人々と文化−
日時 平成18年2月3日から3月5日まで
場所 岡山県立博物館
主催 岡山県教育委員会・岡山県立博物館
後援 NPO岡山市日中友好協会、その他
料金 大人400円

先憂後楽
 今年もあとわずかとなった。春から反日デモや中国副首相のドタキャン、そして小泉首相の靖国参拝と日中関係は72年の国交回復後最悪の関係と言われる。ただ、良く考えてみると、多くの人々が日中について考え、関心を寄せた年でもあったといえる。友好ムードが先行し、潜在していた問題や感情が覆い隠され曖昧にされてきた事実に、多くの人々が気づかされたということではないかと思う。

 岡山では洛陽市との友好都市凍結問題が残されている。昨年末現在で中国と日本の都道府県との友好都市関係が309組ある(『20066友好手帳』より)中で凍結しているのは岡山市と洛陽市だけであり、不名誉なことである。が、幸い、岡山市長が交替を契機に、好転への兆しが見え始めてきた。

 協会は、81年の友好都市締結以降、一貫して市民交流の民間窓口として活動してきており、両市政府間が凍結状態にあっても研修生の相互派遣を含め、活発な交流を継続し、洛陽市と洛陽市民との友情を育んできた。時には交流の方法や条件などでぶつかり議論することもあるが、率直にモノが言える関係が築かれている。
 
 日中関係の修復にアメリカの介入が必要という記事が掲載されていた。友好都市凍結解除にも多くの人々がお手伝いを申し出ておられる。しかし、最終的には当事者が大局的見地で双方の利益を考え、話し合いのテーブルにつく以外に解決の方法はないし、そうすれば解決できるはずだ。
 
 新しい年、会員の皆様とともに地道ではあるが粛々と市民交流を継続していきたい。二十五周年を回顧し、新しい時代の日中友好活動を模索する年にしたい(松)

2006年度総会を開く(1月28日 11時より)
 NPO岡山市日中友好協会第24次総会は、2006年1月28日(土)岡山駅南の日生ビル5階会議室で開きます。
 行事は、例年どおり、11時から年次総会、正午から八仙閣で新年互礼会。会場に恒例のバザーコーナーを設けます。
 バザーの出品物を提供して下さいますようお願い申し上げます。提供して頂く品物は、参加者の皆様に喜んで買って頂ける日用品、酒類、菓子類、お茶、石鹸、美術品など何でも結構です。品物は1月20日までに、協会事務局へお届け下さい。ご持参できない方は、1月15日までに電話かFAXでご連絡下さい。頂きに参上致します。
 互礼会の会費は、7,000円。当日受け付けます。

アジア・コム旅遊消息
中国人限定! 大連行き春節料金
  広島〜大連・北京行き、中国国際航空の春節料金が出ました!
  (但、中国国籍の方のみ)
  (例)1/9〜13出発 32,000円
 ※12/20出発分より、燃費サーチャージが必要です。
  片道12米ドル、航空券代とあわせて申し受けます。
  
  

   
12/29〜1/4まで、お正月休み。
  1/5より 通常営業です。
  2006年もよろしくお願い申し上げます。
お問合せは…
潟Aジア・コミュニケーションズ 岡山県知事登録旅行業 第3-210号
〒700-0902 岡山市錦町5-15 南田辺ビル4階 http://www.asicom.co.jp
TEL(086)231-0334 FAX(086)225−5041

「岡山と中国」ご希望の方にはご郵送いたします。  
また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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