2006年10月 平成18年10月 181号 発行人 片岡和男 編集人 岡本拓雄 |
上海市民対外友好協会 創立五十周年記念事業 |
上海市人民対外友好協会は、創立五十周年にあたる本年、内外の関係者を招き記念式典をはじめ交流事業を行った。9月11日から15日は、世界17カ国から300人余りが参加した。そのうち半数近くが日本全国からかけつけた友好協会や交流団体などの祝賀団だった。岡山からは、上海との福祉交流を継続している社会福祉法人旭川荘の江草安彦理事長ら3名と教育交流を促進している岡山県教育交流協議会の黒瀬定生会長ら4名が招かれ参加した。 9月12日には、昨年サミット会場にもなった浦東地区の国際会議場で祝賀パーティーが開催され、総勢350人ほどの参加者で熱気に包まれた。挨拶には会長の周慕尭氏が立ち、五十年を回顧した上で、「我々は国民間の友好を促進し、友人の輪を広げることを最も重要な任務とし、交流合作を通じて共同発展、世界平和を維持することを目指していきます」と力強く宣言した。続いて登壇した中国人民対外友好協会会長の陳昊蘇氏は上海市人民対外友好協会が50年来上海の発展に役立てるよう、友好活動を通じ、世界に向けて支持と共感を取り付け、良好な外部環境を作り出し、中国と上海からの友情を世界各地に広め、世界人民の団結と交流に貢献したと高く評価した。そして「新しい世紀に引き続き開拓し、国の発展と進歩、振興と統一事業のため、世界平和と発展のために新たな貢献をしてほしい」という胡錦涛国家主席の言葉を引用した。 参加者は、記念式典後、南京や揚州・杭州などのコースに分かれ参観した。 上海市人民対外友好協会は1956年9月13日に設立され、文化大革命の時は10年間ほど活動停止を余儀なくされたが、78年以降活動を再開した。上海市外事弁公室の管轄下にある組織で、欧米処、アジアアフリカ処、そして日本処があり、それぞれ優秀な通訳者が配置されており、世界各国の民間団体の交流窓口として、活動している。岡山と上海は友好都市関係にはないが、福祉交流ではその量と質において全国でも際立った交流をしており、青少年交流も含めて上海市の評価を得ている。経済交流の発展に伴い岡山上海便の搭乗率も常に7割近くを推移しており、今後ますます交流発展が予想される。その中で、上海市人民対外友好協会日本処の果たしている役割は大きい。我々も民間団体として、このような優れたカウンターパートをもっていることを誇りとし、大いに交流を拡大させていきたい。 |
岡山市技術研修生 李九革さん来岡! |
9月30日、洛陽市から洛陽大学外国語学院副学院長の李九革さんが岡山空港に到着した。空港へは、協会の片岡会長夫妻や岡山市国際課の山本課長ら関係者が出迎え、歓迎の意を表した。李さんは、岡山大学教育学部に籍を置き、1年間の予定で日本語と日本文化及び国際理解教育を学ぶことになっている。 10月1日には宿舎の岡山大学留学生会館(桑の木町)に入居し、2日には今回の受入担当教授である松田文子先生と面会し、授業予定などを話し合った。また、5日には高谷茂男岡山市長を表敬訪問し、岡山での印象や抱負を語った。高谷市長は「岡山は独自の技術を持った産業も多いので、洛陽市との経済交流も盛んにしていきたい。そういう意味でも日本語を解する人材の育成に貢献してほしい」と期待をこめて激励した。 李さんは岡山市と洛陽市の友好都市技術研修相互派遣協議に基づいて派遣されたもので、協会はその受入業務を委託され実施しているもの。 |
岡山「中国三誌友の会」150回記念例会開催 |
今年5月に協会・中国三誌普及委員会所属の中国三誌友の会が月例会開催150回を迎えた。 昭和63年に結成され、人民中国誌・中国画報・北京週報の三誌を通じて中国への知識と理解を深め日中友好に貢献し併せて広く中国三誌の普及を図る協会の目的達成のため結成された。 以来18年間、協会の岡本常任理事をはじめ5人の協会理事により運営、人民中国誌の注目記事、時宜に応じた中国の話題、さらに在岡留学生、日中関係研究者(最近では劉建雲氏・中国人の日本語学習史の著者)大学教授等学識経験者をを招いて研鑽を積んだ。 また会員は協会行事に積極的に参加し、協会への入会勧誘にも協力してきた。 他方人民中国雑誌社との交流も頻繁に行い、同社創刊50周年記念会へ片岡協会会長を団長とする三誌友の会員数名が祝賀のため訪問し、記念式の席上で、片岡会長は同社社長から人民中国誌普及への謝辞と功労賞が贈られた。 登録会員数は46名だが毎月の参加者は20名足らずでも熱心に活動中である。これはひとえに片岡協会会長のご指導また松井事務局長が会の結成当初からの支援と岡本常任理事の会への暖かい理解と協力の結実に他ならない。ここに深甚の謝意を表したい。 中国三誌普及委員長 小路 廣史 |
洛陽だよりB 洛陽大学研修生 渡辺克美 |
T 学内生活 唯一の同学だった、韓国人留学生がいなくなった。シャワーが故障して、外事弁公室から彼の部屋でと言われて、行ってみたら絶句した。床一面ゴミ、冷蔵庫の中も流しもそのまま。「夜逃げ?」状態。あの清潔好きな彼がなぜ・・・?人間不信になりそうなほどショックを受けた。彼は大学にも無断で勝手に出て行ったそうだ。外事弁も憤慨していた。 校内も、2ヶ月離れた間に、いろいろ変化していた。 洛陽大学の面積が、現在の3倍に拡張されるそうだ。(市内の他大学を合併するらしい。)正門から「孔子広場?」までを、しゃれた外灯つきの遊歩道にして、さらに広く美しい公園に整備している。ものすごいピッチで大がかりな工事を進めている。 中国は、9月が「入学」であり、「進級」の季節だ。 洛陽大学も、三千数百人の新入生を迎えて、ますます活気に満ちあふれている。連日厳しい軍事訓練に明け暮れている、新入生のストレスを吹き飛ばすため「迎新晩会(新入生歓迎パーティー)」が2度開かれた。 U 親善活動 ◇洛陽空港で、日本人留学生と会って交流した。退職後にご夫婦で留学されているそうだ。特にご主人は岡山出身の方で、話が弾んだ。素敵なご夫婦で、こんな風に歳を重ねられたらと思う。本当に敬服する。 7月に一時帰国した際も、上海空港で70歳台の留学生男性に声を掛けられて交流した。実に若々しく、向学心に満ちあふれ輝いていらっしゃった。 ◇先学期から親しく交流している友達が「お帰り!元気に戻って来たんだね」と、やって来た。彼らは、夏休み中に何度か日本にメールをくれ、支えてくれた「好朋友」だ。彼らも専門の学習の合間に、日本語学習に励んでいる。 ◇宿舎の修理に来た修理部門の職員と交流した。洛陽方言?だが、穏やかな話しぶりとゆっくりしたスピードなので、聞き取りは容易だった。洛陽市と岡山市の友好都市関係もよくご存じだった。(ただ、初対面の方から、いきなり「南京大虐殺を知っているか?」と質問されたのは、正直驚いた・・・。) ◇友達が紀子さま出産関係の記事の掲載された中国の新聞をくれた。お祝い事であり、また今まで、日本関係の記事は極端に少なかっただけに、とてもうれしかった。中国でもカラー版で大きく報道されていた。 ◇私の宿舎で日本語教師の誕生日会をした。日本語系の学生たちが数人、巨大なケーキをプレゼントも用意してきた。和やかで楽しい御祝い会となった。中国では、ケーキを食べる前に願い事をして、友達同士の会では、お互いの顔にクリームを塗りあうそうだ。 ◇授業後、声を掛けてきた学生と、藤棚の下で交流した。とても積極的で快活な青年だ。途中から女子学生も加わり、3人で暗くなるまで話した。持っていた岡山のパンフレットを渡すと、非常に喜んでくれた。 ◇先日の学生が、宿舎にやって来て交流した。彼は、きれいな共通語を話すので聞き取りやすい。 商業ビジネス系の学生であり、日本にとても関心があるようだ。日本の写真や地図、新聞を興味深く見ていた。お互いの生活等も紹介しあい、楽しい時間となった。 ◇日本語系の学生がやって来て交流した。彼女とも先学期から親しくしている。優秀な3年生で岡山留学を控え、ますます学習に力を注いでいる。わからない単語は即その場で質問して、自分の単語帳にメモする態度は、私も見習いたい。 ◇夜間行われた、「迎新晩会」(土木工程学院主催)に参加した。女子学生2人と一緒に楽しいひとときとなった。歌、コント、モデル、ショー、さらには、軍人有志の合唱、少林寺拳法の演武があり・・・、と、盛りだくさん。手作りで素朴だが、内容的にもかなり良くできていて、好感が持てた。 昼、銃を持って軍事訓練をしていた同じ場所で、このひとときは若さあふれる歓声と笑顔が弾け、青春を謳歌している。何か救われる感じがした。 ◇友達が安倍新総裁関係の記事の掲載された中国の新聞をくれた。中国でもカラー版で大きく報道されていた。先日の紀子妃のニュースに続き、こちらの新聞に日本関係のものを目にすることが多くなった。 最近、彼の宿舎では、ちょっとした日本語学習ブームだそうだ。学習の輪が次々広がっていき、支援している私としてはうれしい限りだ。 ◇英語、中国語、日本語を交えての楽しい昼食会となった。さすがに英語系の学生、その流暢さは驚くほどだ。彼だけでなく、学生の多くが英語で会話ができ、積極的に話しかけている。何ともうらやましい。 ◇市内大学の日本語教師数人で懇談した。(私は現在「留学生」だが・・・)新しい方を2名お迎えしての歓迎食事会だ。若くて前向きな方が多く、指導法についても勉強会をしたいとのこと。これからも楽しみだ。 ◇前回と同様、夜間行われた、「迎新晩会」に参加した。今回は大学の校団会主催で、しかも企業も協賛しての大規模なステージだ。集まった学生は1万人近くだろうか。図書館前広場だけでなく、図書館の1〜6階のベランダもすべて観客でぎっしり。その数にも圧倒された。歌、ダンス、コント、楽器の演奏・・・など多彩。また、スポットライトだけでなく、シャボン玉やドライアイスなど・・・演出も派手だった。 |
シリーズ洛陽(3) 洛陽の映光 |
日本人が中国に初めて足跡を記したのは永平元年、西暦57年1月――洛陽でした。『後漢書』に倭(やまと)国王が使者「大夫」をつかわしたことが記されています。 同じ頃、インドから仏教が伝えられ、洛陽白馬寺が建ったのが永平10年。わずか10年のちがいで、日本人とホトケさまが洛陽に入りました。 雲の表の 嶺を行き 流れる沙を 越えて来た 背なに天竺 みほとけの 光伝えむ 洛陽城 『白馬寺讃歌』 その後、洛陽は、漢、魏の都で「仏教王国」として華開く。 楊衒之『洛陽伽藍記』が6世紀、栄光をきわめた古都の情景を伝えています。今日、その余光は白馬寺と龍門大仏にかがやいている。 さらに日本に「仏法東漸」として伝わり、大仏――大日信仰が「仏日増輝」していると言える。日本は洛陽文化が照るところでありましょう。 また洛陽の香を感じるものに仏教音楽がある。三国時代、洛陽を都にした魏の英雄、曹操の三男――曹植(192〜232年)がインドの梵音をきいて大成。今日に「声明」メロディとして日本でこそ唱われている。何とも神秘なことです。 (協会理事 宮本 光研) |
古代洛陽の重要遺跡の発見と保存活用 洛陽周王城天子駕六博物館副館長 曹 岳森 |
岡山市役所中国歴史文化研究会・古代吉備国を語る会主催、NPO岡山市日中友好協会・岡山市福祉文化会館共催の夏季特別講演会が、8月19日(土)午後1時から5時まで、岡山市立中央公民館第5ホールで開かれました。 3人の講師の講演の中から、洛陽周王城天子駕六博物館 曹岳森副館長の「古代洛陽の重要遺跡の発見と保存活用」のお話の一部を掲載いたします。 T 周の重要遺跡 ●東周王城城壁平面図 周代の重要遺跡について紹介したいと思います。 文献によれば、西周初年、周公は洛陽の洛邑と成周城を修築したとの記載が見られます。ただし、これまでに西周の城壁と見られる城壁は発見されていません。 これは東周王城の平面実測図です。現時点における城壁の発掘状況からは、王城の造営年代は春秋時代よりも早いと推測されます。そして戦国時代にも修繕されて使用されました。 城内には漢代の河南県城が存在することから、この王城は秦の統一後すぐに廃棄され、漢代にはすでに使用されなくなっていたものと推測されます。 東周王城の遺跡の大部分には香後世の城市が建てられているので、遺跡の保存状態は夏や殷のものより劣ります。 ●林校西周車馬坑上層 1993年に洛陽の林校で発見された車馬と器物が埋葬された陪葬坑(ばいそうこう)は、保存状態がよく、副葬品も豊富です。この車馬坑の入口は唐代の地層の下にあり、平面は長方形で竪穴式です。(南北長4.4m、東西長3.8m、深さ1.8mです)。坑の壁面は垂直です。車馬坑は上下二層からなり、上層には器物が置かれていました。磁器の瓮、磁器の尊、青銅器の尊、鐃、提梁のある?、四足の器座、そして漆器がありました。 ●林校の西周車馬坑下層 下層には馬車1台、馬4頭、及び青銅器の矛、刀、剣、戈などの武器の他、青銅の甲冑、鋤、そして飾り金具がありました。 ●戦国時代の器物陪葬坑 1982年8月に、解放路と五七路(現在の漢屯路)の交差点の北西角で、戦国時代の大型器物陪葬坑が発掘されました。壁と底はきれいな平面でした。196点の出土品は、青銅器が大部分を占めていましたが、玉器、石器、骨器、そして角器も少しありました。出土品は礼器、学期、そして生活用具に分類できます。これは博物館で展示されている陪葬坑の復元模型です。 ●戦国時代の窯跡 戦国時代の窯跡は王城遺跡の北東角にあります。全部で18基が発見され、17基が調査されています。これらの窯跡は4種に分類でき、年代は連続しています。窯は小さいものから大きいものへ、低いものから高いものへと変化し、焼成室は大きいものから小さいものへ、浅いものから深いものへと変化します。また、煙道は窯の上から後部へ移動するなど、窯の技術的進歩を反映しています。 ●「駕六」車馬坑群 2002年から2003年にかけて、王城遺跡の北東区(現在は市の中心部)で東周墓群(とうしゅうぼぐん)を発見しました。墓の数は600余基にのぼり、陪葬坑も40基あります。すでに発掘された「駕六」陪葬坑で完形の車蓋の痕跡は版築の基壇、池、上水道、版築壁、排水管路などがあります。この大規模奇跡は大型中庭式建築の西半分だと推測されます。 U 重要遺跡の保存対策 科学技術が進んだ現代でも、さまざまな制約により、人類は全ての遺跡を保存することはできません。保護、保存できる遺跡についても、認識、時間、場所、条件などにより、それぞれ異なる保護方法を取ることがあります。保護方法は無論進歩しています。 洛陽では、数多くの遺跡が現在の市街と重なるため、大規模な調査や発掘による保護はできません。そのため、一般的な遺跡については、情報を詳しく記録し、遺物を収集した後は、土地を使用者に返し、保護以外の用途で使われることになります。しかし、重要遺跡に関して、特に今後の考古調査においても再発見できないと予測される遺跡は、ほぼ保護措置を取っています。 V 保存遺跡の活用対策 既に保存の優れた遺跡に対して、条件の許す範囲で、出来るだけ多くの人の認識を得るように活用を図り、普及を広げたいと考えています。 遺跡に接近できる距離により、活用状況を3つに区分しています。 @非公開による保存措置:保護対象の遺跡が公開に適さない場合には、暫定的に閉鎖します。その後は、担当者が不定期に入って状況を観察し、次の保存措置を施します。 A部分公開・遺跡のある地区が公開用の施設整備に適さない状況では、保存施設の整備を図るものの、その場合には、施設を非公開として閉鎖して警備員を置き一般公開をしません。 B完全公開:この事例には、「洛陽古墓博物館」「洛陽周王城天子駕六博物館」などがあります。完全公開では、遺跡自体だけでなく、遺跡に関する歴史、科学、芸術についても、来場する人々にさまざまな知識を与えることができます。 最後になりましたが、もし皆さんが洛陽に来られる機会があれば、是非私の勤務する周王城天子駕六博物館や洛陽の素晴らしい遺跡を見学され、洛陽文化を味わってください。 |
ちょっとチャット(38) 「私の中国語」 協会理事 西野 雅二 |
「西野先生、だめですねー」と言われてしまいました。もう3年くらい前になるでしょうか。学園の教職員のパーティーがあった時のことです。お客さまとして来ておられた北京の日本語学校の先生から言われました。 このころ、「ニーハオ」や「謝謝」くらいしか言えなかった私は、その方と中国語談義になり、「中国語の発音は難しいですね」ということから、いくつかその場で教えて頂きました。「舌をこう曲げて」とかいうことだったと思うのですが、いくらやってもできない。そういうわけで、この冒頭の言葉をいただいた次第です。 その後ほどなくして中国に行く機会が何度かあり、やはり、少しは会話ができるようになりたいものだ、と考えました。そうです、始めました。独学での中国語です。私のところには中国からの留学生や職員もおりますので、時おり、一言、ふたこと教えてもらうことはあるものの、独学です。 当初は、参考書に付いていたCDを通勤の車の中で聞いたり、あるいは愛犬マルチーズとの散歩の折りにカセットで聞いたりしていました。 「ウォーティエンティエンティンルーイン」と言うのでしょうか、ほぼ毎日聞くようにしています。 半世紀近くも前のことになりますが、中学校で初めて英語を習いました。その時、父親に無理に言ってテープレコーダーを買ってもらいました。5インチのオープンリールに入ったテープを使うものです。これは、大変重く、とても散歩がてらに聞くような代物ではありません。しかし、私にとっては宝物、実用にはほど遠くなりましたが、今でも捨てきれずにいます。 技術革新の激しい現代、「ウォークマン」も眠ったままとなり、今では、中国語会話のCDをデータとして取り込んだ小さな器具を胸ポケットに入れています。「聞き流すだけで○○語ができるようになる」という意味の広告を目にすることがあります。それに近いようなことをやっている毎日で、なかなか上達はしないものの、別にあわてる必要もありません。仕事の関係から言いますと、別の言語の音を聞くべきなのですが、中国語は「趣味」というつもりで、「ウォーティエンティエンティンルーイン」。今日もです。 |
活動日誌 8/11 会報「岡山と中国」180号発行 8/19 古代吉備国を語る会主催、協会共催の講演会 8/29 協会設立二十五周年記念事業促進委員会 9/14
中国三誌友の会第153回定例会
会員消息 【ご入会】 秋山 智恵美さん(岡山市清心町)
図書紹介 『幌馬車の歌』
藍博洲著、間ふさ子・塩森由岐子・妹尾加代共訳、草風館発行、282頁、2,940円
この本は、1989年に、ヴェネテア映画祭で、台湾映画としては最初のグランプリを受賞した『非情城市』のテキストです。侯孝賢監督はこの本を底本にして映画を作成しました。この映画は、二・二八事件と、その後の白色テロ(共産党員狩り)を一つのものとして、映画の中で描写しています。政治犯が夜明けに監獄から連れ出され銃殺される時に、周りの囚人たちが一斉に『幌馬車の唄』を歌う場面があります。1930年代の日本の流行歌『幌馬車の唄』が、なぜ囚人たちによって歌われたかがこの本で明らかになりました。
1945年8月、日本の敗戦で植民地から解放された台湾人は、祖国中国に復帰したことを心から喜び、大陸から来た中国人を歓迎しました。しかし、蒋介石の国民党政府が台湾を接収した後、政治は腐敗し、6ヶ月足らずで経済は破局的な状況に陥り、治安は極度に悪化し、台湾民家と国民党の軍隊、警察との間の衝突も頻発するようになりました。1年4ヶ月の間に、積もりに積もった憤懣が、1947年2月28日、ついに爆発し、いわゆる二・二八事件が勃発しました。国民党軍によって台湾人が2万人以上虐殺されました。著書の藍博洲は、事件関係者の重い口をこじ開けるようにしてインタビューを繰り返し、その聞き取りを記録したのがこの本です。
先憂後楽 安倍総理大臣が誕生した。懸案のアジア外交について総理は8日に中国の胡錦濤国家主席と会見し翌日には韓国を訪問し盧武鉉大統領と会見するなど、小泉外交から確かに変化したことを印象付けた。見事な早業だった。
これほどの大きな外交日程を作るには、事務方の周到な準備があったのと、有力な橋渡し役が活躍したものと推測される。おそらく双方の指導者も、満を持しての実行だったと思われる。
「靖国」や歴史問題はまだ解決しているわけではないが、未来志向の交流発展では一致しており、当面の北朝鮮問題も差し迫る重要課題で、アジア外交の試金石として真価を問われるだろう。小泉政権で冷え込んだ交流をじっくり立て直し、共存共栄の道筋を作ってもらいたい。
9月の終わりに北欧フィンランドへ添乗で行く機会を得た。OECD(経済協力開発機構)が実施した学力到達度調査で世界一になった教育事情を視察するのが目的。ここでも中国の進出がクローズアップされていた。観光客も増え、中国語での街頭表記も多くなった。フィンランド航空の機内誌は日本語版と中国語版だった。想像以上に、中国からの訪問客は多いのだろう。上海、北京、広州、それに香港とヘルシンキを結ぶ定期航空路があり、航空会社もアジア線を最重要視しているとのこと。ヘルシンキ大学図書館や大聖堂がある元老院広場やシベリウス公園では中国語が飛び交っていた。世界中同じような状況になりつつあるのだろうと想像できた。
最終日の昼食は中華料理だった。それまで、サーモンとポテトが中心だったので、暖かいご飯となじみの料理に参加者はホッとした雰囲気になった。やっぱり我々はアジア人なのだと実感した瞬間だった。(松)