岡山と中国 2008年6月
平成20年6月
  191号


発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
四川大地震募金活動!救援の輪が広がる  第一次締め切りで340万円余集まる!!
  去る5月12日、四川省ブン(さんずいに文)川県を震源地とするマグニチュード8.0の大地震が起き、死者・行方不明8万人以上、500万人以上の被災者という未曽有の大惨事となった。
  地震直後に温家宝首相や胡錦濤国家主席が現地に赴き、陣頭に立って救援活動を指揮した。また国際支援の広がりの中で、日本の国際緊急援助隊や医療チームの派遣がいち早く駆けつけ、救援の一翼を担った。
  わが岡山市日中友好協会は12日の地震発生直後、救援募金を決定し、会員に募金願いを送付するとともに、他の友好団体や国際交流団体にも協賛の依頼を出し、共同で募金活動を行なうことを提唱し実行委員会を結成した。
  同時に、四川料理で有名な駅前の又来軒や周辺のホテル・レストランなどに募金箱の設置をお願いして回った。そして、5月24日には、実行委員会として岡山高島屋前で街頭募金活動を行ない、午後1時から5時までの間に、のべ70人が募金を呼びかけ、約31万円が集まった。以下、活動の足跡をまとめた。

実行委員会結成
  実行委員会の呼びかけに応えた協賛団体は左の通り。
①岡山県日中懇話会(会長-森崎岩之助、会員数約500名)②岡山市国際交流協議会(会長-野津喬、会員数約400名)③岡山県日中教育交流協議会(会長-岡田浩明、会員数・学校など約80名)④NPO井原日中友好経済交流協会(会長-木山資郎、会員数約70名)⑤新見市国際交流協会(会長-土屋宣、会員数約260名)の5団体で、各団体はそれぞれ会員への募金呼びかけや街頭での募金活動を実施した。特に、教育交流協議会の呼びかけで、学校の生徒や教職員が募金に応じ、募金活動の広がりを加速した。

街頭募金活動

  5月24日に、岡山高島屋前で実行委員会共催の街頭募金が行われた。協会役員・会員をはじめ、岡山理科大学留学生、吉備国際大学留学生、長泉寺住職方、昨年スチューデントエクスチェンジで上海に派遣された高校生らも参加して、声を張り上げて募金を訴えた。

募金箱設置活動
  募金箱も多くの方々の協力が得られた。特に、黒住教からお貸しいただいた募金箱は、かつて、社会福祉法人旭川荘の設立の際、募金活動の中で作成されたという伝説の募金箱で、不思議とその募金箱には多くのお金が投入された。
  募金箱設置に協力いただいた場所は次の通り。なお、この設置にあたり、会員の黒住昭子さんが精力的に働きかけた。
①又来軒(岡山駅前店、遊プラザ店)②海華楼③ホテルオークラ岡山④シネマクレール(内山下、石関町)⑤丸善⑥全日空ホテル⑥ホテルグランヴィア⑦ルネッサンス福幸⑧長泉寺⑨メルパルク⑩ベルリッツ⑪岡山外語学院。

各方面への広がり
  日中教育交流協議会からのよびかけで、岡山県小学校長会・中学校長会が組織的に協力、また今春甲子園を賑わせた興譲館高校からも、職員や生徒の募金が寄せられた。

総領事館へ!
第一次寄付金と寄付者
一覧表を手渡す。
右より羅田廣総領事
片岡和男協会会長
森崎岩之助日中懇話会会長
 
  6月10日、募金実行委員会を代表して、協会片岡和男会長と岡山県日中懇話会の森崎岩之助会長らが大阪総領事館へ出向き、羅田廣総領事(大使級)に、第一次寄付金340万円と寄付者一覧表を手渡した。羅総領事は『皆さんの熱い気持ちを必ず現地へ届けます』と力強く語り、感謝状と『岡山県民の方に宜しくお伝え下さい』との言葉をいただいた。
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瀬戸内市長が来局
立岡社長(瀬戸内市長)が協会へ
四川大地震募金を寄託
 
  6月12日、おりしも四川大地震発生後1ヶ月の日に、黒井山グリーパークのゆうゆう交流館を運営する有限会社曙の里おくの社長であり瀬戸内市長である立岡脩二氏と同支配人の三宅氏が来局され、先に開催した四川大地震募金チャリティ、ワンコインバザーで集まった募金5万円を協会に寄託していただいた。
  立岡氏は『我々はアジアの一員、困っているときは助け合わないといけない』と語り、今後も中国・朝鮮などアジアの国との交流を継続していくことを話した。
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第2回理事会開かる
  6月3日(火)14時より協会事務局で、第2回理事会が開かれた。出席者9名。
  先ず、松井事務局長より、6月12日午後2時28分に起こった中国四川省大地震救済募金活動について特別報告があった。
  次に協議に入り、地震救援活動を今後どう進めるかについて話し合った。募金の締め切りを6月末とし、大阪総領事館へ届けることになった。
  それから、江西省雑技団岡山公演について協議した。8月29日(金)午後6時会場、8時閉会。場所は、岡山市民文化ホール(岡山市小橋町)が決定した。詳細については、準備委員会を設けて最終案を作ることになった。
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岡山商科大学孔子学院が誕生!
  平成19年(2007年)6月12日、岡山商科大学(以下岡山商大)と大連外国語学院大学は岡山県に孔子学院を設立することで合意し調印式を行った。そして、本年4月に正式に開学し、中国語講座を実施している。また、秋には「中国歴史と文化を尋ねる旅」を企画し募集している。(友好協会後援、パンフレット同封)孔子学院というのは中国政府が中国語と中国文化の普及を目的として2005年より行っている国家プロジェクトで、日本ではこれまでに、立命館大学、愛知大学、桜美林大学、早稲田大学などに設立されており、岡山商大は8校目にあたり、中四国では初め。それぞれ中国側の大学とパートナーを組んでおり、商大の場合は大連外大と提携している。
  6月からは初級・中級・上級の3つのクラスが始まっており、受講生募集中である。
〔問合せは電話(086)252-0642〕

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中西寛治随想記(5) -内山完造さんの思い出-
あざなえる縄のような間柄
  私が初めて内山さんを知ったのは、昭和十年五月、兄を頼って上海に渡ってからであり、内山さんが亡くなる昭和三十四年までの二十四年間、あざなえる縄のような間柄といえるかもしれない。しかも、内山さんが亡くなって、すでに二十五年、歳月の経過とともに内山さんのイメージは私の心の中に大きくなって行くのはどういうわけだろうか。

昭和12年の上海
  昭和12年はいわゆる上海事変という名の下に、日中戦争が全面的に拡大した年であるが、その頃の上海は表面的には一応落ち着いていた。私は兄・柾光の紹介で初めて内山さんに会った。兄は昭和4年の四・一六事件で共産党員として検挙され、その後転々としていたが結局、満鉄傍系の興中公司(占領地域内の交通機関を統轄経営)に就職していた。仕事のために北京・上海を往復しているうちに、内山書店に出入りするようになったのであろう。

  年輩の人はご承知のように昭和の初期は、日本の左翼運動・労働運動が徹底的に弾圧され、体制に容れられないインテリ青年が街にあふれていた。彼等は就職も容易にできず、ちょっとした理由で検挙され、傷めつけられた。治安維持法という悪法のあった時代である。政府の方もこういう危険分子を日本国内に置いておくのは、戦争遂行の障害になるから色々の名目を設けて朝鮮・中国の植民地に送りこんだのである。そしてさらに日本帝国主義の走狗として、被支配民族の指導に一役買わせようとした。

  その一方で、左翼青年たちも内地では息づまる思いであるし、「外地」では比較的監視がゆるいので、これに乗じて脱出したつもりであったろう。

  どちらが役者が上であったかそれぞれの状況で千変化万化であるが、ゾルゲ事件の尾崎秀実・中国共産党員であった中西功・演劇作家の鹿他亘のような人々から私たちの兄弟のような末輩に至るまで、当時の中国大陸には、わけのわからぬ脱日本の青年がゴロゴロしていたわけだ。

文化交流の接点だった内山書店
  内山書店は北四川路魏盛里の路地の奥にあったが、大正6年に初めて内山さんがここでビール箱に数十冊の書籍を並べて書店を開いたときには、主として奥さんの内職仕事のつもりであったと自伝に書いておられるが、私が兄につれられて訪問した頃は、堂々たる書店であった。店員もかなりいたようである。

  その頃の内山書店は、日本から中国にやって来る学者・文人・芸術家が、かならず立ち寄る所とされていたし、中国側では魯迅・郭沫若・田漢・郁達夫・欧陽予情など中国の代表的先進知識人がたえず出入りして、さながら日中文化交流の接点を形成していたようである。

  しかし内山さんは、決して指導者のような態度をする人ではなかった。店で応対するときも、全く田舎の百姓親爺のような姿で、次々と来る客に得意の宇治茶をすすめ、四方山の雑談にふけった。これを自ら漫談と称したが、この漫談の中にこそ内山さんの哲学があり理論があり中国民族に対する深い理解と愛情があったのだろう。

一夜漬けの中国論はまちがい…
  ある時、内山さんは次のようなことを言われた。
  「この店に来る日本の学者・評論家は多いが、朝鮮から入って旧満州・北支・中支を2、3週間廻って日本に帰ると、かならず、改造とか中央公論など一流雑誌、新聞に一夜漬けの中国論を発表する。それが実に皆まちがっているのだ。悠久4000年の歴史をもつ中国、7億の人口をもつ中国大陸を1、2週間なで廻して、日本人の性急さで結論をつけようという浅薄さには恐れ入る。それに加えて日本人は中国人より優越しているという意識は鼻持ちならない。私は中国に来て、中国の民衆と寝食を共にして来たが、初めの5年~10年はどうしても中国民族が理解できなかった。30年を経た今日ようやく中国人を理解することが出来るようになったと思う」と。

  日中戦争で数百万の日本人が中国の土を踏んだが、99%までは軍人・官吏でありまたこれにつながった私利私欲を得ようとする業者、知識人であったことを思うと、内山さんの生活と言葉は年を経るに従って私の心に重みを加えて来るのである。

内山さん烈火のごとく怒る!
  昭和13年頃だったか、こんな事件があった。私の兄は前に言ったように、興中公司上海支社の役員としてかなりの顔役になっていたが、ある日、上海の街上で京都二中時代の同窓で、陸軍の自動車部隊の隊長をしている中尉某にめぐり会った。旧友同志大いに飲み大いに語り合ったのは勿論だが、実はこの中尉殿は兄から、北京駐屯時代に200円の金を借りていた。
(次号へつづく)

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内山完造を語る会
  岡山人物銘々伝を語る会主催の講演会が左記により開かれます。今回の人物は、日中友好協会創立者の内山完造さんです。協会会員の方々をはじめ関心のある方々、お誘い合わせてご参加ください。
         記
日時 6月20日(金)午後7時
場所 クレドビル17階 県立男女共同参画センターホール
講師 片岡良仁氏
参加費 1,000円
定員 50人
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シリーズ洛陽(10) 杜の都
  その昔、洛陽が「杜の都」だった。日暮れて北郊、ボウ(亡におおざと)山にのぼれば、樹間に都の灯火が光りかがやき、それは美しい夜景だった。洛陽八景「ボウ山晩眺」である。

  それがいつしか黄土にくみ込まれ、杜のみどりが失なわれた。九朝の都と栄えたことが?に思われるほど乾いた地方都市になった。唐代から宋代にかけて砂漠化されたのだろう。以来、首都になったことはない。

  それが今日、岡山市日中友好協会が洛陽緑化に取りくんでいる。洛陽市の緑化構想に呼応、毎年500万円からの植樹がなされ、旧観をよみがえらせつつある。洛陽の砂漠化をくい止めるのは人類的課題であろう。

  ちなみに杜という字を「もり」と読むのは日本語。仙台市を「杜の都」といい、「都の西北わせだの杜」と歌う。洛陽で杜といえば、杜氏であり、銘酒『杜康酒』は桑の木の股に自然発酵したことから始まるらしい。
(協会理事 宮本光研)

 
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ちょっとチャット(49) 「中国の隣に居て」                 協会会員  逢澤 茂美 
  先ず、この度の四川省の大地震で被害に遭われた方々に御見舞と犠牲者の方のご冥福を心からお祈り申しあげますと共に、一日も早い復興を願っております。又、微力乍ら隣人として何かできるのではないかと日々焦りにも似た思いでもおります。

  胡錦涛国家主席の訪日で更に深い日中関係の構築が期待される矢先のことであった。思い起こせば、北京オリンピック開催決定のニュースを私は娘と旅行中の南京の飯店でテレビニュースで耳にした。その瞬間、夜空に花火の音が轟き、人々の歓びが伝わって来た。あの日から幾多の難関を乗り越え、今日に至った中国の人々の衝撃は計り知れない。私が中国に関心を持ちはじめたのは、18、9歳の頃だった。働いていた外科の院長先生がかつて海軍の軍医だったので折りにふれ、練習艦隊で寄港したり滞在した大戦前の上海の街、ピストルも飛び出す物騒な四馬路や紅橋のこと、月夜、寒山寺「楓橋夜泊」を語って下さったり、まだ普通話がなかった頃で、上海語、四川語、北京宮話の発声や言語の相違を黒板に書いて下さったりした。又、郭沫若先生や後の中国の要人となられた方と同時期に旧制第六高等学校に在籍していて度々、操山に登り語り合った日々を聞かせて貰っていた。その後も日中友好に尽された岡崎嘉平太氏の講演を聴く機会もあったりなどもした。

  けれども中国に対して夢や憧れのような私の思いも途切れてしまった最悪の時代が「文化大革命」であった。手に手に「毛語録」をかざした紅衛兵たちが歴史的建造物を破壊し、文化人を迫害、批林批孔を叫ぶ明け暮れで、老舎の悲劇などで嫌悪さえ憶えた。(連日、日本の新聞やテレビで報道されていたので)当時はまだ日中友好を唱える人は異端視される「竹のカーテン」の時代でもあった。けれども「一衣帯水的領邦」である中国と仲良くしなければと、一貫して活動を続ける人たちもいた。

  私は、結婚して子育てをする毎日の中、周恩来首相と田中角栄首相の固い握手の1972年、日中国交回復以後、再び私の中国に対する思いも甦り、中国語の学習を開始し20有余年経過する中で、小路元理事のソフトなお勧めで「三誌友の会」「日中友好協会」へと参加させていただいている。幾度も中国へ旅行したり、「四海は全て我家」と豪語する中国の人々だけに、米国でもオーストラリアでも、富士山の上でも中国の人々に出逢い、話ができる。サンフランシスコでは宝石店の中国人オーナーが「買わないでいいから、もっと話して!」と椅子を出され、本当に30分話し、笑い合ったり、エピソードも限りない。私のような主婦が語るのは本当に針の穴から天を覗いている範囲なのであるが、長い間、熱心に中国語をご指導下さった、台湾や大陸の先生方に感謝致しつつ、老いがそこにある私にも何かできるのではと、今、尚も模索している。

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「大三国誌展」開催
  日中平和友好条約締結三十周年・北京オリンピック開催慶祝の意義を込めた『大三国志展』が、全国巡回のスタートとして、今、八王子の東京富士美術館で開かれています。
  仕事の関係でこの展覧会にかかわっておられる協会理事の洞富美雄さんから案内状が届きましたので、左に紹介します。
  三国志は、我々日本人に一番馴染み深い、中国の歴史ロマンで、連日全国から多くの三国志ファンが来館されています。
  今回の企画展は、二部構成になっており、一部では日本人にもよく知られる「桃園の誓い」「五丈原」等、「物語でたどる三国志」として、演義・小説の名場面の美術品を通じて、英雄達の人間像を紹介しています。二部の「出土品でたどる三国志」では、実際の古戦場からの出土品や、漢末から三国時代の装飾品・明器・武器・金印など、当時の生活を髣髴とさせる文物展示です。特に今回は異例とも言えるのは、中国全土34箇所の博物館等の協力と、全体の3分の1が国家一級文物(国宝相当)で占められていることです。一望すれば1800年前のつわものどもの夢が甦るようです。中国の歴史愛好家には是非見ていただきたい企画展です。

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活動日誌
4/30 会報「岡山と中国」190号発行
5/1 協会ホームページのアドレス変更。http://www.oka-rizhongyouxie.jp/
5/8 中国三誌友の会166回定例会。ピュアリティまきびで開催。
5/13 中国四川省大地震救援募金依頼、会員へ発送。
5/13 岡山市内15箇所に募金箱設置。
5/13 他団体に募金協力を依頼。
5/24 岡山高島屋前で街頭募金。約70名参加。
6/3

第2回理事会開催。

会員消息
【入会】
宮本龍門(岡山市南方)

先憂後楽
  四川大地震の募金活動にあたって、他の友好団体との共同活動を重視した。これまで何かと協力関係にあった井原日中、新見国際交流協会、県日中懇話会、県日中教育交流協議会、市国際交流協議会に打診したところ、即座に協賛の意向を表していただいた。

  それぞれの団体から所属会員や関係方面への働きかけ、募金箱の設置、ショッピングセンターでの街頭募金活動、学校への呼びかけなど、瞬く間に広がり、まさに『小さな火花も荒野を焼き尽くす』勢いだった。

  困っているときはお互い様、何かしたい、そんな素朴な気持ちが積み重なって、これまでに350万円を越す募金が協会に寄託された。この額は、これまで取り組んだ募金額の最高額だ。

  神戸震災の時、岡山県北に住む中国人が10万円の入った封筒を、朝早く協会事務所まで持参して、「被災した神戸の日本人に油を食べさせてあげてください」と名も名乗らず立ち去った。あの感動を思い出した。 

  中国には「一方に困難があれば、八方から援助の手届く」という言葉があるらしい。日本人の中国人への限りない友情の表れである今回の活動が中国人民に伝わることを確信する。(松)


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