岡山と中国 2008年12月
平成20年12月
  194号


発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
2009年年頭のご挨拶
平成21年新年を迎えるに当って               NPO岡山市日中友好協会 会長 片岡 和男
片岡会長 
 新春を迎えるに当り、皆様とともに、「おめでとうございます」と申し上げたいと思います。しかし、わが国も世界経済の不況をまともに受け、国民生活は工夫を必要とするようになりました。このような状況にありながら、皆様には協会の事業にご支援、ご協力を頂き、心より感謝いたします。

 昨年を振り返りますと、5月には協会の友好訪中団が、洛陽で熱烈歓迎を受け、秦の時代の函谷関と老子文化の太初宮を見学し、帰路、漢の函谷関をも見学し中国の歴史の流れに接しました。一方、われわれの行っている黄河流域の植樹について、洛陽日報は「『日本からの援助友情の森』はエメラルド・グリーンとなり、洛陽と岡山の友情の森を建設する合作プロジェクトとなっている」と解説し、高い評価を得ています。

 8月29日には江西省雑技団の岡山公演を実施しました。主に子供たちで構成された演技は、岡山市民文化ホールのほぼ満員のお客さまを魅了しました。

 そして、11月26日には、洛陽市の郭洪昌市長を団長とする6名の訪問団が高谷茂男岡山市長の招待で岡山を訪問され、子供のいる一般家庭や福祉施設などを視察し、大変熱心に質問をされました。当日の夜にはホテルオークラで協会主催の歓迎夕食会が催され、90名を越す出席を頂き、和気藹々の雰囲気のうちに閉会しました。

 なほ、本年1月31日には今年度総会が行われ、人事案件が提出、審議される年であります。組織の活性化と活動の拡大、会員増強による財政基盤の確立が望まれます。よろしくお願いいたしまして、新年のご挨拶といたします。

年賀挨拶                                          岡山市長 高谷 茂男
高谷岡山市長 
 新年明けましておめでとうございます。

 皆様方におかれましては、希望に満ちた新春をお迎えのこととお喜び申し上げます。

 また、平素から、洛陽市との交流など国際友好交流事業をはじめ市政全般にわたり、格別のご理解とご協力を賜り、厚くお礼申し上げます。

 昨年中国では北京オリンピックが開催され、発展著しい現代中国の活力を全世界に発信する一方、多くの方々が尊い命を落とされた四川大地震の発生など、様々な出来事が注目を集めた1年となりました。また、本市と洛陽市との交流では郭洪昌市長を団長とする洛陽市政府友好訪日団が来岡されました。一行は、市内の老人福祉施設や環境施設等を視察され、私は郭市長との会談を通じて市民福祉の向上に取り組まれる熱意をひしひしと感じました。今後、こうした市民生活に深く関わる分野においても、両市の交流が実りあるものとなることを願っております。

 このような中で、貴協会が果たされた役割は誠に大きく、四川大地震に対して協会をあげての募金活動を展開されたことは記憶に新しいところですし、洛陽市政府友好訪日団の来岡に際しては民間交流の立場から様々なご協力をいただきました。貴協会の日中友好交流に寄せる精神と積極的な活動に対し、改めて敬意を表するものであります。

 さて、市制施行120周年にあたる本年4月には念願の「政令指定都市・岡山」が誕生します。その実現のために皆様から賜ったご支援とご尽力に改めて深く感謝を申し上げます。今後、子や孫の世代に思いを馳せながら、未来に向けて岡山から全国と世界に発信できる「水と緑が魅せる心豊かな庭園都市」及び「中四国をつなぐ総合福祉の拠点都市」を皆様と共に実現してまいりたいと考えておりますので、市政の推進に一層のご理解とご協力を賜りますようお願い申し上げます。

 最後に、貴協会のますますのご発展と会員の皆様方のご健勝、ご多幸を祈念いたしまして、新年のごあいさつといたします。
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ご案内 2009年度協会定期総会・記念講演会・新春互礼会
  表記の行事を下記の日程で開催します。万障繰り合わせの上、ご参加下さいますようご案内申し上げます。
[日時]2009年1月31日(土曜日)
     ◎10時…定期総会
         ① 2008年度活動報告
         ② 2008年度収支報告
         ③ 役員選出
         ④ 2009年度活動方針案
         ⑤ 2009年度収支予算案
     ◎11時…記念講演「内山完造の生涯」
         講師・片岡良仁氏(無料。但し、参加希望の方は事前に連絡して下さい。)
     ◎12時30分…新年互礼会、会食、バザー
[場所]岡山ピュアリティまきび(TEL 086-232-0511)
[会費]6,000円(互礼会会費)

講師の紹介と聴講のお願い
 片岡良仁氏は、先人顕彰会・井原の幹事長として、内山完造先生の顕彰に尽力して来られました。来年2009年は、内山完造先生没後50周年にあたるので、記念事業として漫画版『内山完造の生涯』が出版されました。片岡良仁氏はこの本の編集にたずさわられました。
 内山精神を顕彰し、次の世代の人たちに伝えるため、多くの皆様に是非ともご聴講いただきたいと思います。 

お願い
 バザーの出品物を提供して下さいますようお願い申し上げます。提供して頂く品物は、参加者の皆さんに喜んで買って頂ける日用品、酒類、菓子類、お茶、石鹸、洗剤、美術品などでも結構です。品物は1月23日(金)までに、協会事務局へお届け下さい。

漫画「内山完造の生涯」
 井原の「先人顕彰会」が笠岡在住の漫画家・南一平氏の作画により発行。協賛金一部1,000円にて頒布しており、当協会も協力しています。まだ部数がありますので、事務局までお申し込みください。
漫画『内山完造の生涯』
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洛陽市人民政府訪日団来岡!
 11月26日、郭洪昌市長を団長とする洛陽市政府訪日団一行6名が来岡し、短期間であったが岡山市民との友好を確認しあった。

 今回の訪日は岡山市の招聘による公式訪問で、友好都市相互訪問の一環として来日したもの。訪日団は、26日、訪問していた台湾の台北から中華航空便で関西空港へ入り、新幹線で岡山入りした。

民家訪問
  到着後すぐ、郭市長と随行の方双建外事弁公室主任は団と離れ、片岡会長のご長男宅を訪問した。これは、一般民家を訪問して暮らしぶりを拝見したいという市長のたっての要望に応えたものだったが、片岡宅では、水道設備のこと、家の諸費用のこと、子供の教育のことなど、細かな質問がなされ、家族の方も懇切丁寧に答えていた。郭市長は今回の短い滞在の中で、この家庭訪問の印象が強く、岡山を離れる時もその時の模様を熱っぽく語っていた。

岡山市日中友好協会の歓迎会
  26日の夜は、協会主催の歓迎会に臨んだ。丁度高谷岡山市長の都合がつかなかったため、市の歓迎会に先立ち協会が市民歓迎会をすることとなった。会場となったホテルオークラ岡山・瑞光の間には、会員を始め、岡山市議会、仏教会など各界から約100名が参加し、遠来の客を温かく歓迎した。宴席では、片岡会長の挨拶に続き、岡山市の佐古親一副市長が来賓を代表して挨拶。その中で、協会が民間団体として洛陽市との交流を継続し、市民交流の中心的役割を果たしていることを高く評価、中でもこの数年にわたり、洛陽市孟津県の黄河沿いで日中緑化交流基金の助成による『小浪底緑化協力事業』を展開し、砂漠化防止、環境事業に貢献していることを称えた。

片岡会長歓迎の挨拶
片岡会長歓迎の挨拶 
郭洪昌洛陽市長の挨拶
郭洪昌洛陽市長の挨拶 
洛陽市長からの招待状
洛陽市長からの招待状 
  続いて挨拶に登壇した洛陽市の郭市長は、洛陽市の歴史、地理、などを紹介し、現在工業都市として発展している状況を報告した上で、歓迎会の参加者全員に対し、市長の名の下に来年開催される第27回牡丹花会へ招聘することを言明した。洛陽市では2009年国際切手博覧会が開催されることも明らかにし、多くの岡山市民の洛陽訪問を熱烈に歓迎すると訴えた。

         
  その後祝宴に入ったが、乾杯は、岡山市洛陽市友好都市議員連盟会長の磯野昌郎氏の発声により洛陽の銘酒「杜康酒」で行われた。
下津井音頭 
 下津井音頭で歓迎の宴が
       盛りあがる
 余興は下津井節振興会18名による演奏と歌、踊りが披露され、日本の伝統的な民謡に酔いしれた。
 訪日団は、翌日27日には午前中に済生会ライフケアーセンターを視察、午後には岡山市長、議長を表敬訪問し夕方の新幹線で東京へ向かった。東京では「洛陽市政府註東京事務所」の開所式に参加し、28日の便で成田から上海へ帰国した。
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鄭祥林大阪総領事着任式開催
着任挨拶に立つ鄭総領事
鄭総領事挨拶 
 本年7月不慮の事故で急逝された羅田廣総領事の後任が空席となっていた中国駐大阪総領事館は、11月30日に正式通知を出し、12月上旬に鄭祥林先生が総領事に就任することを明らかにしていたが、15日に、その着任式が行われた。

 会場となった大阪の太閤園には、大阪総領事館が管轄する近畿地区と中四国の行政、議員、友好団体など約300名が参加した。岡山からは、岡山市議会、岡山市国際課、倉敷市国際平和交流推進室、華僑華人総会、中国人留学生学友会などが参加し、当協会からは片岡会長代理として松井事務局長が参加したほか、協会活性化委員の黒住昭子さんが領事館教育部の招待で参加した。

 鄭総領事は遼寧省の出身で長崎総領事館の勤務のあとネパール大使として赴任し、このほど大阪総領事に着任した。日本問題専門家として知られ、中国内での日中関係シンポジウムなどにもパネラーとして参加したことがある。

 挨拶に立った鄭総領事は、日中関係は良好な関係を保っているが、更に交流を押し進めていきたいと抱負を述べ関西弁で『おおきに』とお礼を述べ会場をなごませた。
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中西寛治随想記(最終回) -日中戦争 私の告発-
南京事件

 昭和13年12月13日、南京市の東南、光華門を一番乗りした脇坂部隊の華々しい戦果が日本の各新聞のトップで報道された。

 私は南京陥落4日目に中部経済新聞社上海支局の嘱託として、瓦礫と廃墟の南京城内に入った。

 脇坂部隊の一番乗りに従軍した先輩記者から聞いた南京攻略の状況は、次のようなものであった。

『日本軍は東南の光華門、東の中山門、北東の玄武門の三方面からなだれをうって、怒涛の勢いで西門の下関(シャカン)に近い、ユー江門に向って逃げ惑う群衆を追い詰めた。この時点では既に蒋介石軍は南京を捨てて揚子江を渡って逃げた後であった。ユー江門に向って押し寄せる南京市民の非戦闘員の群衆に、待ち伏せていた日本兵は城壁の上から機関銃掃射をあびせた。辛うじて城門を潜り抜けた群衆は揚子江岸に向って逃げた。逃げのびたその市民に背後から機銃掃射をあびせた。揚子江によって逃げ道を失った群衆は見る見る内に死骸の山を築いた。尚、相当数の死骸が揚子江に投棄された。』という。

 私が1週間後に見たこの惨状は、長さ数百メートルにも及ぶ死骸の山であった。

 このような殺戮が行われている中で、日本軍は予め準備された要員によって、婦女子を選別し、南京城内の金陵大学に約1万名を閉じ込め、周囲を電流を通した鉄条網で囲い、外界と遮断した。

 当時の中支那派遣軍総司令官は松井石根大将であった。南京陥落1週間後に凱旋将軍気取りで入城式を挙行した。

 時の経過と共に日本軍は武漢に向って進軍していた。南京市内も次第に落ち着きを取り戻し始め、瓦礫の街に、そこここに仮の建物が増え、市民も次第にその住居地に戻り始めた。

 南京の日本軍は戦線が奥地に進むにつれて兵站基地としての任務をもつようになった。

 そうなると後続部隊は1日南京で休養し、軍装を整えて、前線に出発する。この1日の休養に、下士官及将校は先に閉じ込めた金陵大学の中国人婦女子を慰安婦代わりに使用した。

 肩章の星の順位によって大学内に入ることを許され、日本軍によって強姦され生地獄の犠牲になった。このような地獄図は昼となく夜となく繰り返されたのである。

 一般の兵隊は大学内に入ることは許されなかったので、民家を襲って強姦と虐殺を繰り返した。

 頑強に抵抗した者は、目的達成後その場で殺害された。毎日、多数の犠牲者が出た。

 このような運命に弄ばれた、中国の女性が当然の結果として、日本兵の種を宿し妊娠出産した数は南京周辺で数千名と言われている。

 戦後既に40数年、忌わしい運命を背負って育ったこの人たちは既に50才を越え、中国において、国家の中堅として祖国の建設にそれぞれの役割を果たしているのだろうか?

 このことを想い浮べる毎に、私の瞼には、日本軍が中国東北地方に置き去りにした、日本人残留孤児の姿がダブってくるのである。

 この人達に対して我々日本人はどのように贖罪を果し得るのか、この事実を折りに触れ思い浮かべる度に、自らの力の空しさに悩み、やり場のない、いきどおりに苦しむのである。(1963年)
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シリーズ洛陽(13) 「破壊と創造」
  洛陽は九朝の都。ほんとうは十二朝―9はめでたい数字だからよいが、じつは12度も破壊をくり返してきた。デストロイヤーは若ものたちである。

 そのたびに復興を果したと考えればすばらしい。この古都に青春のエネルギーを感ぜずにいられない。

 6世紀『洛陽伽藍記』に落ちぶれた洛陽の情景を描く。北魏の文華咲きほこった大都が衰退いちじるしい。

 その中心は永寧寺。また白馬寺はいわゆる漢魏古城の西門外、シルク・ロードや天竺路の出入口にあった。今に「釈源第一」をほこるが、風雪2033年の寺史は無傷であったのではない。

 20世紀に日中戦争、文化大革命の苦難にさらされた、古代、九朝の都以来の惨劇で、忘れられない。

 ちなみにわが岡山市であるが、沃野にあって城市の歴史400年。幾度も「大水」に襲われたり、近代は「大政奉還」の変革を経験した。世界大戦の戦火を浴びて灰塵に帰したこともある。

 大切なことは破壊から創造へ向かい、若いエネルギーが立ち上がることだ。日中の交流、洛陽と岡山の友好に学ぶことは「青春」の一文字。人間万才、変革をおそれないエネルギーであろう。
(協会理事 宮本光研)
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ちょっとチャット(52) 設立十周年を迎える協議会
                             岡山県日中教育交流協議会会長 岡田 浩明

上海高校生との交歓会 (岡山)
上海高校生との交歓会 
 岡山県日中教育交流協議会(以下、協議会という)は、平成11年3月に設立総会を開きました。この協議会は、岡山上海便が就航し、経済・福祉などの分野で交流が活発に行われていた時に、上海市名誉市民で社会福祉法人旭川荘理事長(当時)の江草安彦先生が、教育分野でも交流を促進してはどうかとご提案いただき、初代会長の森崎岩之助先生らと協議され教育界はもとより経済界など各界の支持を得て、設立に至ったものであります。
 設立以来、県下の学校と中国との交流実態調査の実施や会報『悠久』の発行により、県下の幼・小・中・高に対し、岡山県と中国各地と交流している状況を広報してまいりましたが、平成16年より福武教育文化振興財団の委託事業として「STUDENT EXCHANGE IN 上海」という高校生交流事業を開始しました。これは、上海の新中高級中学の生徒と岡山県から選抜された高校生が英語を媒介として授業体験や生活体験をするプログラムで、一過性の交流とは異なり、大きな成果を収めています。本年も第4回目の交流事業が終了し、目下報告書の作成準備にかかっているところです。

 また、岡山県高等学校芸術文化連盟が隔年で交流している上海甘泉外国語中学との交流事業のお手伝いをしています。一方、四川省大地震の救援募金活動など、他の日中友好団体と連携した活動もしています。

 協議会は、このような活動を通じて『自国と相手国の歴史・文化・生活などを学び合い、理解しあって友好を深め、国際性を身につけた人間として大きく成長するお手伝い』(悠久創刊号での森崎初代会長挨拶)ができることを目標にしています。

 本年は十周年を迎え、記念講演会や訪中団、実態調査の再実施などを計画しています。

 協議会は公的な支援を得ておらず、会費や助成、協賛広告によって賄われており、スタッフはすべてボランティアに頼っています。そのため十分な活動はできませんが、各方面のご支援をいただきながら、今後も活動を活発化させ、日中友好の一端を担って参りたいと念願しています。どうか、皆様のご理解とご支援を宜しくお願い申し上げます。
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活動日誌
10/22 会報193号発行
10/28 信陽市訪問団来日
10/30 第4回理事会
11/12 上海市新中高級中学校訪日団来岡
11/13 中国三誌友の会第171回定例会
11/20 第5回理事会
11/26 洛陽市人民政府訪日団歓迎会、ホテルオークラ岡山
12/11 中国三誌友の会第172回定例会
12/15 鄭祥林大阪総領事着任式
会員消息
【お悔み】
脇 正敏さん(岡山市福浜)
図書紹介 「もう一度 ママの声が聞きたい」         周 希●著 家野四郎訳
 一ぱいの麺を分け合って食べる母と幼い子どもたち。その母は末期がんで死が近い。
 貧しくても家族愛にあふれたこの物語は、台湾で感動を呼んだ実話に基づきます。
 物語の中に登場する「お医者さん」が、この本の作者の周希●さんです。かつて岡山大学医学部に留学していたことがあり、とても人なつこく心の寛い学生だった。というのが私の印象です。そんな周さんがこの本で伝えたかったのは、心優しく、たくましく生きることの大切さでしょう。それをぜひ読みとってほしいと思います。(元岡山大学医学部長・岡田 茂さんの推薦の辞より)

【作者】周 希●さんの紹介
1960年、台湾生まれ
1986年、台湾・中山医学大学を卒業
1989年~1993年 岡山大学医学部へ公費留学、医学博士
 現在、中山医学センター神経内科医総医師。中山医学大学医学研究所副教授。台湾安寧緩和医学会理事。
〔無料進呈〕
 ご希望の方は協会事務局へお立ち寄り下されば、差し上げます。

先憂後楽
 2008年は中国にとっても我々日中交流の一端を担っているものにとっても生涯忘れられない年になるだろう。

 日中平和友好条約30周年、日中青少年交流年と銘打って、活発な交流が期待されたがギョーザ事件を頂点とする食の問題が尾を引き、中国との交流が降下していた時、チベット暴動が起き世界の耳目が集まり、平和的な話し合いによる解決が望まれていた。そして、5月には8万人を越える死亡者を出した四川大地震が起こった。

 日本でもいち早く支援活動が巻き起こり、わが協会も会員や他団体に呼びかけ率先して募金活動を行い募金総額は400万円を上回った。

 8月には世界のスポーツの祭典オリンピックが北京で開幕し、多くの感動を呼び起こした。

 協会としても四川地震の取り組みや江西省雑技団公演の実施など市民とともに活動した。また洛陽での緑化事業も3年間を第1期とする事業を完了し来年度への第2期が始まっている。

 2009年は、郷土出身で日中友好協会初代理事長の内山完造氏逝去50周年の年。南一平氏作の漫画本『内山完造の生涯』も刊行され正月には井原の片岡良仁氏の講演が予定されている。秋には各方面と協力して記念訪中団も計画したい。本年は、内山精神に学び、友好の原点を探り、日中情勢の変化に対応していける協会組織をつくりたい。(松)


「岡山と中国」ご希望の方にはご郵送いたします。  
また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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