岡山と中国 2009年2月
平成21年2月
  195号


発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
2009年度総会開催
 2009年度(平成21年度)の定期総会が1月31日(土)午前10時から、岡山ピュアリティまきび2階『孔雀の間』で開かれた。開会に先立ち、昨年度亡くなられた大森安廣さん、松本彩さん、森本政男さん、脇正敏さん、羅田廣中華人民共和国大阪総領事、戴保安洛陽市人民政府外事弁公室主任に黙祷を捧げご冥福を祈った。

 片岡和男会長の開会挨拶のあと、議長の選出を行い、赤木宣雄理事が議長に就任した。書記に綾野富美子理事、議事録署名人に家野四郎理事、中村勝夫理事を選任したあと、議案の審議に入った。議案の(1)2008年度事業報告書、(2)2008年度収支報告書、(3)監査報告、(4)役員選出、(5)2009年度事業計画書案、(6)2009年度収支予算書案は、修正されることなく、すべて承認可決された。

2008年度事業報告
Ⅰ 事業実施の概括
 2008年度は日中平和友好条約締結30周年で日中青少年交流年として大いに交流が期待されたが、食の問題やチベット問題が起き、5月12日には死者行方不明8万人以上の犠牲者を出した四川大地震が発生し、日中交流も停滞を余儀なくされた。一方、四川大地震への義捐募金活動は全国的な盛り上がりを見せ、岡山でも協会が呼びかけ他団体と共同で募金活動を行い、400万円以上の募金が集まった。また、江西省雑技団岡山公演に取り組み、会員の力を結集して大成功に終わることができた。

 このような活動を通じ、協会は新たな会員も増え活性化されたが、いまだ組織的には微弱で、財政的基盤の強化を含めて課題も多い。

Ⅱ 事業の実施に関する事項
1.四川大地震募金活動
① 募金活動実行委員会結成(協会が呼びかけ)…岡山県日中懇話会/岡山市国際交流協議会/岡山県日中教育交流協議会/井原日中友好経済交流協会/新見市国際交流協会

② 街頭募金(実行委員会主催)…実行委員会参加団体協会役員、会員、岡山理科大学、吉備国際大学、長泉寺檀家総代会、高校生ら約70名参加

③ 募金箱設置…又来軒、ホテルオークラ岡山、全日空ホテル、ホテルグランヴィア、海華楼、シネマクレール、ルネッサンス、福幸、ベルリッツ、岡山外語学院、メルパルク、岡山ビジネスカレッジ、長泉寺

④ 募金の届け…片岡会長、森崎岩之助懇話会会長らが大阪総領事館訪問

2.岡山-洛陽友好促進事業
① 協会訪中団(団長-片岡会長)
② 岡山後楽館高等学校中国語教師招聘
③ 洛陽市人民政府訪日団歓迎会(約100名参加)
④ 「吉備文化を語る会」主催 洛陽文物工作隊招聘

3.中国緑化協力事業
 日中緑化交流基金助成事業第3期 平成19年度『洛陽小浪底緑化協力事業』
① 専門家派遣(國忠征美氏)
② 日中友好桃園育成
③ 第四期日中緑化交流基金助成決定 3年計画

4.行事活動等
① 江西省雑技団岡山公演 約700名集客
② 呂燕玲さん救援協力活動 (特)おかやま犯罪被害者サポート・ファミリーズと協力
③ 中華人民共和国成立59周年式典
④ 鄭祥林大阪総領事着任式

5.都市間交流促進
① 上海市との交流
  ○第19回福祉の翼後援(旭川荘主催)
  ○教育交流訪中団協力
  ○STUDENT EXCHANGE事業(日中教育交流協議会主催)
  ○上海市人民対外友好協会来岡

② 河南省信陽市シ(さんずいに師)河区との交流
  ○信陽市シ(さんずいに師)河区訪日団田口光代さんを訪問
  ○信陽市シ(さんずいに師)河区茶業視察団来日
③ 江西省九江市との交流
  ○興譲館高校と九江外国語学校が友好提携
  ○九江外国語学校訪日団来日 興譲館高校へ

6.中国語センター
新役員の顔ぶれ
 

① 会話教室運営
入門7名、初級12名、中級15名、上級2名、個人5名
② 日本中国語検定協会主催中国語能力検定試験会場受託

7.人民中国普及

① 『人民中国』普及拡大
② 三誌友の会活動

8.組織広報活動
① 総会開催、互礼会開催、特別講演会
② 理事会開催(6回)
③ 会報「岡山と中国」発刊(年6回)
④ 平成20年度会員状況
新規入会者 一般会員 17名
賛助会員 0名
退会者 一般会員 22名
賛助会員 0名
現在会員数 一般会員 212名
賛助会員 14名
⑤ 事務局員の交代
⑥ ホームページの更新充実
協会の平成20年度会計収支報告書についてはここをクリックしてください(PDFデータ 64kb)
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新春特別講演会「日中友好の架け橋 内山完造の生涯」
                                先人顕影会・井原 幹事長 片岡 良仁
片岡良仁さん
 
 定期総会終了後、11時から牛田和子理事の司会により、新春特別講演会が開かれました。講師は、先人顕彰会・井原の幹事長で、成福寺の住職をされている片岡良仁さん。良仁さんは、京都大学法学部を卒業後、一時、銀行に勤められましたが、成福寺の家督を継ぐため故郷の井原市芳井町に帰られ、先人顕彰活動に尽力されておられます。

 この度、二十余年にわたる高野山での学道(勧学会)が成満して、高野山本山より「傅燈大阿闍梨」の位をお受けになられました。
 「日中友好の架け橋 内山完造の生涯」と題して、1時間にわたって講演をして頂きました。

 講演の要旨を紹介します。

 今年は、日中友好協会初代理事長・内山完造没後50周年になります。現在は、先人顕彰会・井原と言っていますが、もともとは内山完造顕彰会でした。いろいろ経緯がありまして今の名称になりました。その大きな理由の一つに雪舟の存在があります。芳井町の重玄寺が雪舟に縁があることがわかり、内山完造だけでなく、雪舟そのほか郷土の偉人の顕彰をすることになり、先人顕彰会・井原に改めました。

 何故、私が内山完造の顕彰活動をすることになったかと言いますと、私は一時、銀行に勤めていました。お寺の長男でありましたから、何時かは帰らなければならなかったのですが、私は、あまり田舎に帰りたくなかったのです。まあ10年間、お釈迦さまの掌の上で遊ばされていたと申しますか、いろいろな縁でお寺に帰ることになってしまいました。銀行に勤めていた時に非常に悔しい思いをしたことがあります。それは、転勤するたびに「岡山県後月郡芳井町出身」と自己紹介するのですが、誰も芳井町のことを知りません。もっといい自己紹介ができないものかと、いつも情けなく悔しい思いをしていました。

 お寺に帰って来て地元のことを調べていくうちに、父から日中友好に尽した内山完造のことを聞き、そんな偉大な人が芳井町にいたのか。それなら、この人をもっとみんなに知らせて、「あの内山完造の芳井町です」と自己紹介で言えるようにしたいと思って、内山完造の顕彰活動を始めました。

 何かいい方法はないものかと考えていたところへ、岡山県日中友好協会から芳井町長へ、上海魯迅記念館に内山完造の銅像を建てたから、除幕式に行きましょうという誘いがありました。それで、町長といっしょに上海に行きました。私は、初めて上海の魯迅記念館へ行ったのですが、中国側の熱烈な歓迎ぶりを見て、内山完造は、上海では、こんなにも有名なんだということがわかりました。帰りの飛行機の中で、私は町長に「中国に内山完造の銅像の鋳型があると思いますが、芳井町にも同じ銅像を造ったらどうでしょうか」と提案しました。町長は「それはいい話だ」と即座に賛成してくれました。

 芳井町に帰って、町の有力者に相談しましたら、話は、とんとん拍子に進み、予算300万円で銅像を造ることになりました。50万円寄付してくれる人を6人探せば、簡単に目標に達しますが、そんなことをしたのでは、内山完造をみんなに知ってもらうことができません。そこで、一口1,000円にして募金活動をしました。町内会を廻って一軒一軒お願いしましたら1477人の方が協力して下さいまして、500万円の寄付金が集まりました。銅像の除幕式には、東京からわざわざ中国代理大使が出席されました。内山完造さんが中国でいかに高く評価されているかがわかります。300万円で銅像を作り、残りの200万円で内山完造の小冊子を作り、芳井町の全世帯と、学校、公民館、図書館に配りました。

内山完造を熱く話す
片岡良仁さん
 
 今年は、内山完造没後50周年になります。これを機会に、ホップ・ステップ・ジャンプで何かやろうじゃないかという話がまとまり、先ずホップの事業として、一昨年、2回目の中国訪問団をしました。32名で上海の魯迅記念館に行きました。2009年に井原市で、内山完造没後50周年の記念事業をします。どうかご出席下さいと要請しましたら、上海対外友好協会の会長が出席するという返事を頂きました。

 次にステップですが、先に出版した小冊子よりももっと読み易く内容も充実した読み物を作ることにしました。漫画本が大人も子どもも読み易いので、漫画本の出版が決まりました。
外の表紙が堅くてしっかりしているだけでなく、内容もしっかりしたものにするため、北京と上海に住んでおられる歴史の専門家と息子さんの周海嬰さんにも見て頂き、中国側が見ても間違った所が無いようにしました。どこへ出しても恥ずかしくない本ができたと思っています。
 
 漫画本は昨年11月に出版しましたが、同じ時期に全く偶然に『伝説の日中文化サロン-上海・内山書店』という新書版の本が平凡社から出版されました。著者の太田尚樹東海大学名誉教授は、比較文明論のご専攻で、内山完造が文化交流の面で、いかに大きな働きを果たされたか、日中の国交が冷えていた時代に、中国で、日本人と中国人が、いかに人として交流していたかを書いておられます。この2冊の本の両方を読んでほしいと思います。内山完造の位置づけ、そして価値がよくわかると思うからです。

 岡山県で、中国関係で有名な人と言えば、内山完造と岡崎嘉平太です。2人とも同じように『日本は中国と仲良くしなければならない』と説き続けられました。岡崎嘉平太は戦前、官僚のエリートとして上海へ渡られ、日本の国益のため活動されました。戦後は、戦争で破壊された工場を建て直し、最後は全日空の社長になられました。日中国交回復の時もご健在で、表舞台で活動されました。岡崎嘉平太は亡くなられても皆が知っています。内山完造は漫画本の中でも出ていますが、少年時代は餓鬼大将で、12歳で大阪へ丁稚奉公に行き、行った先で食い道楽にはまり、店の集金の金を使いこみ、父親に助けてもらう、そんなドジな人間で、失敗を繰り返していました。それでも後には、大きな働きをする人になりました。

 内山完造がなぜこれほど大きな働きができる人間になれたかといいますと、魯迅との出会いが大きく影響していると思います。魯迅との出会いが無かったら、内山完造は、ここまで成長しなかったし、歴史にも残らなかったと思います。魯迅なくしては、内山完造のことは語れないので、ちょっと魯迅の話を致します。

 魯迅は中国浙江省紹興の出身で、本名は周樹人と言います。1902年に日本に留学し、仙台医学専門学校で医者をめざして勉強していましたが、ニュース映画を見に行った時に、ロシアのスパイ(中国人)を日本兵が銃殺する場面で、その場に居合わせた中国人が、同胞が殺されるのを見ても何の反応も示さず、ポカーンとしているのを見て、医者になって中国人の体を直すより、文筆家になって中国人の心や考え方を直す方が大切なのではないかと思うようになり、医学専門学校を中退して、文学活動に専念するようになりました。

 北京に帰って、国民党の政治を厳しく批判したため追われるようになり、厦門・香港・広州と移り住んだ後、1927年、上海に住むようになりました。10月に、ふらっと内山書店に入って来ました。それが二人の出会いです。

 1932年に魯迅が作った『自嘲』と題した律詩があります。頸聯に『眉を横たえて冷やかに対する千夫の指、首を俯れて甘んじて為る孺子の牛』という句があります。毛沢東が「我々の座右の銘とすべき」と高く評価しました。『我々は、どんな強力な敵であっても決して屈服してはいけない。しかし、同じ国民の中国人に対しては、やさしい気持ちで接しなければならない』という意味です。内山完造はこの詩にこめられた魯迅精神に非常に感銘を受けました。そして、この魯迅精神を受け継ぎました。魯迅が毎日のように内山書店に来るので、だんだん感化されていきました。

 国民党から追われる魯迅を匿いました。共産的思想を持っている者を匿ったので、中国側の国民党からも睨まれるし、日本の憲兵隊からも「お前は共産党のスパイじゃないか」と嫌疑をかけられました。内山完造は、憲兵隊に頑強に抵抗しました。

 敗戦後、昭和22年、中国国民党政府によって全ての財産を没収され、着の身着のまま日本へ送還されました。内山完造からしたら、本当にこの時点で中国人を恨んでもおかしくないけれども、そんな気持ちは露ほどもなく、日本と中国は仲良くしなければいけないんだと、昭和23年から全国を行脚して『日中友好漫談』の講演をして廻りました。800回以上にもなったということです。昭和34年9月20日、北京の病院で74年の生涯を閉じられたのであります。もし国交回復の47年まで元気でおられたら、岡崎嘉平太と同じように、日中友好を実践した偉人として歴史に名を残せたと思います。

 私は、内山完造を何とか歴史の表面に名を残すようにしたいと願って顕彰活動をしている次第です。
(文中・敬称略 文責・岡本)
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新春互礼会・バザー
  新春記念講演会の後、12時から、ピュアリティまきび2階『孔雀の間』で新春互礼会が開かれた。逢沢一郎衆議院議員、津村啓介衆議院議員、姫井由美子参議院議員、佐古親一岡山市副市長(岡山市長代理)、岡崎豊岡山県議会議員、磯野昌郎岡山市議会副議長・岡山市洛陽市友好都市議員連盟会長、若井たつ子岡山市議会議員・岡山市洛陽市友好都市議員連盟幹事長、岡田浩明岡山県日中教育交流協議会会長、木山資郎井原日中友好経済交流協会会長、片岡良仁先人顕彰会・井原幹事長、岡山県中国留学人員友好聯誼会の研修生・留学生等多数の来賓と会員約70名が集まって新春を祝った。
招待された中国人留学生が
日本語で自己紹介
 
  次の方々から祝電を頂いた。江田五月参議院議長、逢沢一郎衆議院議員、村田吉隆衆議院議員、津村啓介衆議院議員、姫井由美子参議院議員。

  祝電披露のあと、磯野昌郎岡山市議会副議長の音頭で乾杯!祝宴が始まった。和気藹々の雰囲気の中、歓談は14時半まで続いた。

  会場の一隅に、会員が寄付した数々の品が並べられていて、祝宴の合い間に、入れ替り立ち替り訪れるお客様でバザーコーナーは賑わった。今年も下津井電鉄寄贈の胡蝶蘭は瞬く間に売り切れた。売上金は、友好協会運営資金に充てられる。
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シリーズ洛陽(14) 豊岳老大師
 豊岳明秀老大師(88才)が今春2月3日、遷化された。岡山県日中佛教交化交流会の三代目会長さん。

 81年、訪中団第1次に参加し、山陽新聞「千波万波」に紀行文。日中国交幕開けのときめきが伝わる。

 また89年、洛陽-岡山の仏教会が国際平和祈念法会を営んだ。老大師のご詠歌「みほとけのかたききづなにむすばれて日中友誼永遠宏大」「みほとけのふかき願いやさながらに守らせたまへ世界平和」を奉唱、蓮昌寺の本堂に響きわたった。

 白馬寺海法方丈の上座式の91年、交流会を代表して祝辞をのべられた。その秋、初代・恵光大老師が逝かれるのに伴い、会長に就かれた。

 玉野市久昌寺住職。京都大学に学んで英語教師を勤め、茶人、歌人で知られた。平明で、のどかなお人柄は仏教友好にふさわしい。

 洛陽は仏教の古都。交流が始まって30年、ありがたい仏縁を過してきた。協会の発足とともに立ち上った仏教交流会。玉ゆらか、春霞の如くであるが、豊岳老大師の遺法、禅風が又、再びの春を呼ぶ。洛陽-岡山の仏教が平明・のどかによみがえるだろう。
(協会理事 宮本光研)
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ちょっとチャット(53) ビジネス交流は益々盛んに
                           洛陽市東京駐在事務所 商務代表 泰安 康平

泰安康平さん
 
  皆様、こんにちは。昨年11月、洛陽市が東京事務所を開設した際に同事務所の商務代表を依託されました私、泰安康平と申します。本日はこの紙面をお借りして皆様方に一言ご挨拶を申し上げるとともに、貴重な紙面を割いていただいた事に心より感謝いたします。

  振り返ってみますと、私は日本に参りまして、早くも二十一年目を迎えております。最初に留学のため、中国の洛陽市から岡山市にやって来ましたが、四年間の大学生活、二年間の大学院修士課程、とても充実した留学の日々を送ることができました。特に大学院の二年間は国際ロータリー米山奨学生としても選出され、毎日学業に励むとともに大勢の日本人の方と交流が出来、多くの友人を作ることが出来ました。卒業後、ある日本の貿易会社に就職しました。 
仕事で中国の深セン、香港、上海、杭州、北京、大連、洛陽などを転々とし、日中ビジネスの最前線でその基本を学んだり、様々な経験をすることができました。これらの知識と経験は今日の仕事の基盤にもなっております。現在は株式会社グロップに勤務しており、中国事業戦略セクションという部署で日本企業に中国人技術者を紹介したり、中国ビジネスのコンサルティング業務を担当しております。

  昨年11月、出身地の洛陽市から同市東京駐在事務所の商務代表に依託されました。皆様ご存知のように、洛陽市は悠久の歴史と文化を持つ古都であるともに、現代においても、中国の重点工業都市として建設され、近年素晴らしい飛躍を遂げています。また中国政府の『中部開発』計画の重点発展都市でもあり、その将来性から急速な経済成長が続いています。素晴らしい工業基盤、豊富な鉱物資源、優れた観光業などから、洛陽市はますます魅力に溢れ、活力に満ちる都市になりつつあります。
 
先ごろ、洛陽市は相次いで「中国十大魅力都市」、「国家庭園都市」、「中国優秀旅行都市」、「中国居住環境模範都市」などの栄誉のある称号を獲得しています。

  また2006年に世界的に著名な商業雑誌「フォーブス」の「ベスト商業都市」にも選ばれています。こうした中、洛陽市の東京駐在事務所の開設は、今後洛陽市と日本、さらに洛陽市と友好都市の岡山市とのビジネス・文化交流の益々のご発展に大きな意味を持つわけでございます。どうか皆様、微力の私ではございますが、今後とも一層のご指導と応援を賜りますよう心よりお願い申し上げます。
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活動日誌
12/24 会報194号発行
1/22 第6回理事会
1/31 協会2009年度定期総会、新春記念講演会、新春互礼会
2/12

中国三誌友の会第172回定例会 ピュアリティまきびにて

会員消息
【入会】
林 康悠さん(倉敷市西岡)
野崎泰彦さん(岡山市門田屋敷)
角南功治さん(倉敷市児島)

【お悔み】
参与 豊岳明秀さん(岡山県日中仏教文化交流会会長)

先憂後楽
 春節も終わり、いよいよ新年度到来である。人事では副会長に2名、理事4名、監事1名と大幅な増員が行われ、それぞれご見識ある方々ばかりで今後の活躍が期待される。

 総会記念講演では先人顕彰会・井原の片岡良仁幹事長が内山完造の生涯と題し、話され、中国人を信じきった内山の生涯について熱っぽく語り、参加者も熱心に聞き入っていた。

 わが協会も生誕100周年に当たる1985年に記念事業をしている。内容は、上海万国公募に眠る内山さんの墓地に墓碑を作ろうというもので、募金活動を展開するとともに、高島屋百貨店で内山完造展を開いた。当時ご存命だったご夫人の内山マサノさんを訪ね、内山さん愛用のモンペや杖を借用したのが思い出される。

 この事業の中心になって活動されたのは、矢掛町で全国最初(1949年)に友好協会の看板を掲げた中西寛治さんだ。中西さんについては、協会紙に何度も投稿されご存知の方も多いと思うが、内山さんの指導を受け日中友好運動を生涯貫き通した人で岡山県の日中友好運動の草分け的存在だ。

 本年の内山完造没後50周年の事業を協会としても積極的に取り組むことと併せて、内山さんを尊敬し愛した中西さんの事について何か記録し語り継ぐ事業を始めたいものである。(松)


「岡山と中国」ご希望の方にはご郵送いたします。  
また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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