岡山市日中友好協会2010年「訪中団」 交流の輪拡大、大きな成果 |
岡山市日中友好協会の訪中団は片岡和男会長を団長に総勢26名、4月7日に岡山空港を出発し、西安を訪問した後、9日の午後、牡丹祭りを控えた洛陽へ入り、各種の友好交流を精力的にこなし、今後の友好交流につながる大きな成果を収めた。(松井) |
音楽コラボ、植樹、希望小訪問 ◆郭洛陽市長を表敬 |
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4月9日、夕刻6時より訪中団の代表が、会場になった華陽広場賓館で郭洪昌市長を訪問し懇談した。郭市長は、一昨年岡山を訪問した時、市民の生活ぶりを見聞したいと片岡会長の自宅を訪れたことがあり、その時の温かいもてなしに感謝した。 また、協会が具体的な活動を通じて友好都市交流の原動力となっていることを高く評価、今後の活躍に期待を寄せた。 片岡会長は、第28回の牡丹祭りに招待されたことに感謝の意を表し、今回の訪問の目的を述べた。 牡丹祭りには日本(岡山市、橿原市)をはじめ、フランス、スペイン、ロシア、韓国の友好都市関係から六団体が来ており相次いで表敬訪問を果たした。 |
◆『心花』日中友好演奏 | ||||
会場には、訪中団員、師範大学学生、前洛陽市長の劉典立氏ら約300人が詰めかけホールを埋めた。 司会は、日本側は副団長の黒住昭子さん、洛陽市側は箏奏者の方迎坤さんが務めた。打合せ時間がほとんどなく、ぶっつけ本番だったにもかかわらず軽妙にこなし、コンサートを盛り上げた。 大学音楽隊によるオープニング演奏の後、心花の二人は着物姿で登場し、オリジナル曲五曲と日本の歌メドレーを軽やかに演奏。観客を魅了した。 その後、師範大学の学生が演奏し、最後に日中合同演奏でフィナーレを飾った。一時間余の演奏会はあっという間に終わり、会場からは拍手が鳴りやまなかった。 |
◆植樹ボランティア | ||
協会が5年前より日中緑化交流基金の助成を受けて実施している緑化事業に訪中団も参加した。 10日の昼前に洛陽郊外の小浪底ダム近くの現場に到着した一行は、地元の孟津県県長の招宴を受けた後、林業局長、農民たちとともに側柏(コノテガシワ)の樹を100本ほど植樹し、心地よい汗を流した。 今年度の植樹面積は30㌶で、来年度まで継続し、6年間で合わせて180㌶の緑化を実現する。この活動は環境保護に貢献する活動として市民に高く評価されている。 |
◆申窪村希望小を訪問 | |||
12年前に岡山市立陵南小学校と協会が協力して募金活動を展開し、320万円を寄付して建設に協力した「希望小学校」を再訪した。 10日の午後4時ごろ新安県の申窪村小学校に到着すると、寒波がおし寄せ寒空の中にも関わらず、約150名の児童が「熱烈歓迎」を叫び歓迎してくれた。 校舎前ではパソコン2台を贈呈する式典が開催され、学校長の歓迎のあいさつの後、訪中団を代表して元陵南小学校長の高塚幸巳氏があいさつに立った。 感極まった高塚氏は、涙を流しながら子供たちに語りかけるように話し、学校同士の交流が途絶えても引き続き交流を続けることを誓った。 |
◆岡山から高谷市長 |
10日の朝9時から新区体育場で開催された第二十八回洛陽牡丹祭り開幕式及び歌舞ショーに協会訪中団はVIP待遇で招かれ、内外から駆けつけた政府関係者らとともに参加した。 岡山市からは高谷茂男市長、宮武博市議会議長、龍門功市場事業管理者ら岡山市代表団が参加した。 |
洛陽・西安・上海で熱烈歓迎の波(4/7~4/12) |
訪中団-皆様と共に- 方丈の“寿”の書に感激 団長 片岡 和男 |
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26名の方々と洛陽牡丹花会開幕式特別招待を受けての出席とともに、有意義な行事に参加でき、和気藹々の団員の皆様とともに中日友好ができましたことに感謝いたします。私は特に印象に残った事のみ、書かせてもらいます。 ①西安の兵馬俑博物館は、一、二、三、四号館があり、私は車椅子で回り楽でした。その後、空海の学んだ青龍寺に参拝した後、吉備真備記念碑を訪れた。 ②4月9日、西安より高速列車(新幹線)で、1時間30分で洛陽の龍門駅に到着。以前は6時間かかっていたが、交通の発展は素晴らしい。 ③午後は、「心花」二人の二十五弦の琴の演奏が、洛陽師範大学の音楽堂で行われ、師範大学の琴の奏者たちと合同演奏もあり、聴衆を魅了した。 ④次いで、郭洪昌洛陽市長を表敬訪問し、一昨年、私の息子の宅を訪問されたこともあり、親しく話が進み、洛陽・岡山の交流の話題に。 次に、市長主催の歓迎レセプションがあり、日本の友好都市、フランス、ロシアなど国際色豊かな会であった。 ⑤4月10日は10時より牡丹花会へ。寒い日であったが舞台は巨大な牡丹花に飾られ、マスゲームが色を添え、すごい迫力の数々の演技がなされた。 ⑥車で小浪底へ。黄河流域の治水のための植樹を村の人たちと行った。 ⑦次いで、申窪希望小学校へ。岡山陵南学区と協会の援助で新築されて12年、元気な子供が校庭に集まり歓迎してくれた光景には感激した。 ⑧夕方には、劉典立洛陽市人民対外友好協会会長(元洛陽市長)の歓迎夕食会。旧知の仲の心温まる方で、色々お世話になった昔話を語った。 ⑨4月11日には、白馬寺へ。印樂方丈自ら迎えて頂き、ご自分の茶室でお茶を頂き、私に長生きして、これからも来るようにと、別室で「寿」の太書を書いてくださり感激した。 ⑩次に、河南科技大学附属第一病院を訪れ、歓迎の言葉と返礼の言葉の後、歓迎の昼食会をして頂き、理事長さんの挨拶、乾杯の後、看護部長、張ICU婦長ほかの方々との和やかな友好交流ができた。 15時10分洛陽空港発で上海に向かい、一泊。4月12日正午岡山空港に全員無事帰国した。 全行程、全ての行事を順調に終える事が出来たのは、皆様のお蔭で、心より感謝いたします。皆様のご苦労に多多~謝謝~~。 |
我が「こそ丸」を披露 出逢いは永遠の薫り 副団長 土井 章弘 |
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岡山市日中友好協会訪中団の一員として初めて西安・洛陽の旅に参加しました。4月7~12日まで5日間の短い旅でしたが楽しく学びの多い旅でした。 上海まで岡山空港から一時間半、上海で乗り継ぎ、西安市に夕方には到着し、9日に高速鉄道(新幹線)にて洛陽市に至る。 多くの遣唐使たちが命をかけて大海原を渡りたどり着いた都に4時間足らずで到着するのですから驚きです。 明時代の城壁に囲まれた西安市(長安)では、空海の勉強した青龍寺や吉備真備記念碑を訪ねた。 長安は「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」で有名な阿部仲麻呂の活躍した唐の首都で、彼は玄宗皇帝に愛され李白と親交した国際人であったとされている。 西安市は奈良市(奈良県)と友好都市で結ばれていて今年は奈良遷都1300年の記念すべき年である。千三百年前の遣唐使によってもたらされた仏教や律令制度その他の文物は現代の日本にも大きな影響を与えている。 学者の意見ではシルクロードの起点は西安だが、シルクロードはローマから終点は奈良であると、案内してくださった王柯氏が紹介してくれた。 中国との文化交流の長い歴史が続いてきたが、戦前戦後の不幸な一時期を乗り越えて、岡山県ゆかりの岡崎嘉平太先生と周恩来首相との出会いと友情等のお陰で日中友好の火が受けつがれている。 岡山市と洛陽市とは来年が友好都市30周年であり、洛陽市長が表敬訪問の場で会長の片岡和男・弘子夫妻の長年の日中友好への記しとして名誉市民にしたいと述べられた。 日本から「心花」(二十五弦筝ユニット)橋本みぎは・熊代七恵さんと洛陽師範大学音楽学院学生との合同演奏会が開かれた。高木文彦氏の持参された国花である牡丹の描かれた打掛をバックに行われた心温まる演奏による交流であった。 黄砂の予防植林を通じての農民との交流、白馬寺の方丈さまとの交流、洛陽市にある山間僻地の学校建設への元高塚校長先生を初めとする陵南小学校生徒・父兄を挙げての支援など、多くの皆様の友好の絆を感じた旅であった。 政治状況がどんなに変わっても一人ひとりの心と心の交流が両国間の絆を深めてきたのだなと、先人の活動に感謝しなければならない。 空海、吉備真備、阿倍仲麻呂なども中国の人との出逢いがもたらした「出逢いは永遠の薫り」だと感じます。 洛陽市人民対外友好協会主催の歓迎夕食会で、幸せをもたらす薬「こそ丸」を披露させて頂きました。 「貴方がおればこそ」の“こそ”の意味を理解し、中国の人も感謝・謙虚・愛情・元気(この薬の成分)などが幸福や平和の源であることを共感して下さったと思う。 森岡まさ子氏は(99歳で逝去)中国から岡山に留学して苦労していた二胡の奏者、田川氏を支えてきた一人である。森岡ママの「出逢いは永遠の薫り」の碑が岡山旭東病院の中庭にある。「こそ丸」の発案者でもある。 |
玉堂錦秀富貴春 刺繍打掛3着を寄贈 幹事 髙木 文彦 |
昨年に続き今年も、岡山市日中友好協会の訪中団に参加した。 参加の理由は二つあり、一つは洛陽に行く前に西安(昔の長安)に立寄る為、長年の夢であった兵馬俑坑を見学出来ること。もう一つは、これまでの厚情に対し何か返礼をすることでした。 昨年は、洛陽訪問の際、世界切手博覧会と牡丹祭りが同時に開幕され、一昨年の北京オリンピックの開会式の花火の打ち上げがなかっただけぐらいの素晴らしい式典であった。 ジャッキー・チェンや、サラ・ブライトマンや、中国の有名人の歌や踊り、アトラクション、しかも我々の席 は正面で国家主席の2列前という好位置。入場料は日本円で3万円(2009元)であったし、洛陽人民対外友好協会の厚い厚い配慮であった。 その厚意に対し何か良い返礼はないかと思案していたら、京呉服卸業の友人がすばらしい打掛を持っていたので購入、持参、寄贈することとした。 現在の日本では、ほとんど使用されない、金糸銀糸の刺繍の入った打掛なのである。 1着は同行の二十五弦琴演奏の「心花」さんと日中友好演奏会が行われる、洛陽師範学院音楽院へ寄贈、あと2着は、合同演奏会場のバックに飾った。 人民政府も当日は他国の来賓の応待や行事で忙しく、持参した打掛の贈呈場所も、贈呈時間も取れないということで、同場所で前市長の劉典立様に人民政府分と洛陽博物館分二着を寄贈した。 旅行中、自分の荷物と3着の重い打掛と2メートル弱の飾り棚棒、移動中大変であった。しかし、演奏会場の音楽院ホールのバックが黒く、殺風景であったため、同行者からも、あの2着の打掛があったから非常に見栄えが良く、良かった、良かったと絶賛された。その言葉で旅行中の苦労も咲き飛んで爽快であった。 大学へ寄贈した打掛の写真が無いのが残念であるが、各々の打掛へ名前を付け、立看板も私が勝手に作成したが、非常に映えて、自己満足しています。 ◎人民政府寄贈分 玉堂錦秀尾長鳥富貴春 ◎洛陽博物館寄贈分 錦秀雙鶴緑紅松打掛 ◎洛陽師範学院寄贈分 鳳凰白花紅正絹打掛 今回の訪中団は25名であったが、非常に打ち解け、和気藹々で楽しく過ごせたのが何よりであった。 |
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中国の友人との約束 パソコン2台を贈呈 団員 西上 忠志 |
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昨年、洛陽申窪村希望小学校を訪問。たしかな友好交流を終えた後「学校として今必要な器材は何ですか」と問うと、校長先生よりパソコンが今学校には1台しかなく不自由しているのでぜひパソコンをと聞かされました。 そこで帰国後、協会などとも相談しながら、私なりに消防OB会、瀬戸農OB会、ウッディヨネダ、協会の人に働きかけ、そして本命の陵南小学校の基金と合わせて2台のパソコンと高木さんのシャープペンシル、私のサッカーボールを贈呈することになりました。 4月10日、申窪村希望小学校に到着すると父兄、児童全員出迎えを盛大に受けました。感激しながら校門をくぐり式典場へ向かい、寒い中にもかかわらず全生徒が頑張ってくれました。 式も終わり、帰る時に旧校舎を遠望し、子供達の暖かい握手攻めに見送られて、次回の再会を約し学校を後にしました。 次回は子供達とのふれあいに重点を置き、いろんな遊び等をして交流を深めたいと思っています。会員の方より折り紙等をしたいと申し出がありました。 |
吉備真備記念碑を訪ねて 真備の姿くっきり 団員 仁科 民子 |
4月7日、桜が満開の建部を後に、周囲のご理解を得て、協会訪中団に参加させて頂いた。 考えてみれば、このところ立て続けに吉備真備に縁がある。昨年末に矢掛町の「吉備真備公園」と旧真備町の「まきび公園」に立ち寄る機会があり、3月には「国文祭おかやま」の支援講演会「温故知新~中国と岡山~」での真備の回に参加できた。 また、おりしもNHKテレビ「大仏開眼」で、真備のドラマの放映もあった。そして今回の訪中では西安の「吉備真備公園」に立ち寄ることになった。 西安2日目の夕刻、南の城壁の外面に沿って細長く、その真備公園はあった。それと知って訪れている人はいないようだが、散歩したり、カップルが決めポーズでケータイ写真を撮ったり、三々五々、人々が行き交っている。 日本からの物なのか八重桜が咲き競っていて、花桃やスオウ、白木蓮の花が咲き、夕陽が城壁の向こうに沈んでいく。 その間の小道を200メートルほど歩いて、昭和61年に岡山県が建てた記念碑に着いた。 回り込んで見ると、東向きに、真備の姿の描写をくっきりと線で刻した黒系の御影石が、赤茶色の大きな石にはめ込まれ、「まきび公園」と同じにそこに在った。二度もの遣唐使として約20年を過ごした唐の都に再び立っておられる。 「まきび公園」のそれと少し違うのは、その御影石に石をぶつけたような跡がたくさん付いていること。真備は、その後の中国と日本の歴史を知ることなくここに居られる。軽く手を合わせてそこを辞した。 次の日は高速鉄道の成った友好都市・洛陽へ。龍門石窟の廬舎那仏は、かの真備たちの建立した東大寺大仏のルーツ。「大仏開眼」のドラマでは真備といっしょに長安で留学生活を送った僧玄昉が魅せられた仏だそうだ。 他の国は「姉妹都市」というのに、中国は「友好都市」というのは、歴史から鑑み、姉と妹という上下関係を想わせる言い方を避けるため、と何かで読んだ。いつか、姉妹都市親善訪問というニュアンスでいえるような時が来るのかなと、ぼんやり考えている旅の終り。 職場のグループホームの、辛い時代は忘れてしまった「おばあちゃま」といっしょに眺める二階の窓は桜吹雪です。 |
訪中「心」の映像 「心花」人の心をうつ 団員 川野 明 |
暖寒の両極内、牡丹花咲く内陸の地西安・洛陽で交わるは、やはり人と人との心よりの信頼関係である事を強く感じた。地道に確実に歩んで来た結果の民間外交の素晴らしさではなかろうか。 それにつけても行政の(国を含む)日本の国際外交のまずさかげんには、もううんざりである。諸外国を見習ってほしいものである。 中国という国のバイタリティのすごさ、エネルギッシュな行動は、すごいの一言あるのみ。爆発した時の凄さは、訪中の度に驚かされている。中国の1年は日本の何年に相当するかと考え込まされる。 文化においても兵馬俑、龍門石窟、各寺院など古代遺跡の保存と開放には、大陸的な大らかさを感じると共に、今回「心花」の二人の乙女の演奏も楽器を通して、琴のルーツと共に合同演奏の交流がなされたことは、人の心を打つものであった。音楽が観衆を魅了し気持ちを一つに成した一時でした。 医療の分野においても特殊職種なれど、人とて生身なれば最も必要欠くべからざる機関にて、今後ますます人的、技能、技術の交流が成される事は大変喜ばしい事。5月には中国の医療団の訪日の成功を祈ります。 洛陽での最終日に朝一番に白馬寺へ参詣する釈印楽方丈様が門前までのお出迎え、恐縮のいたりなり。日焼けしたお元気な姿を拝し喜ばしく、気持的にも、一段と逞しく、身の内より湧き出ずる慈愛、恵知、人徳に頭の下がる次第であった。 再会を約しながら、上海へと帰路にむかう。その前日、日申窪村希望小学校を訪問するが、曇天に風も強く、幼い学童が待っていてくれた。本当に短時間の出会いであったが子供たちの清く澄んだ瞳が目に焼き付いている。10年前に訪問した時より生活も少し安定して来た様子が見られた。素直に大きく育ってほしい。 日々進歩する内にも、世代交代は時の流れ、人の宿命とか、元洛陽市長の政界からの引退は一抹の淋しさを覚える。 次世代に対して何を語り、何を残すべきか、老いし者の責任がまだ成し得ず、若人に望みを託すのみが、今度も有意義な訪中ではあったが、今少し旅程に余裕を持てればと願うものなり。 |
日中の共通言語「箏」 繋がる響き感動共有 心花 みぎわ |
「箏は奈良時代に中国から伝わってきた」。日本の箏の元を辿っていくと中国から始まっています。 子供の頃から常に箏のある生活の中で育ち、その音に惹かれ、今では箏と共に道を歩んでいます。そんな私にとって、中国訪問は一つの夢でした。 「箏の生まれた国を見てみたい。」「箏の生まれた地を肌で感じてみたい」。今回は更に、演奏の場を作って頂き、日本生まれの箏と共に中国に行くことができました。 約千年以上もの時をこえて、改良を重ねた日本の箏は中国の方々にどう映るのか、どう響くのか…期待と不安の中で中国の旅を迎えました。 まず、印象に残っているのは至る所で耳にする箏の音。街の中でも、公園でもテレビからも…特に中国の中でも古都と呼ばれる都市だったからかもしれませんが、日常の中で箏の音が溢れている生活は嬉しく、また羨ましく感じました。 今回、心花として演奏させて頂いた洛陽師範学院では、たくさんの生徒さんが箏を勉強されていて、日本の箏にたいへん興味を持ってくださいました。 一曲いっしょにコラボレーションしましたが、言葉はわからないものの、不思議と箏を通じて伝わるものがありました。 国の違いとか楽器の改良の違いとか、そんなことは関係なく、日本と中国の共通言語『箏』を通して感動を共有できたことが、何よりの経験で思い出です。 このような貴重な経験をさせて頂き、本当にありがとうございました。 |
いにしえの音、再び 歴史の深さ目の当たり 心花 熊代七恵 |
大地の声が無限に広がる空を包んでいました。万葉の想いをのせた風が、牡丹の花びらを靡かせていました。この風は変わってないのかもしれない。ずっと昔から、この国が生まれた時から…。 人から人へ受け継がれる大切なもの、たったひとつの音に込められた魂の叫び、それは国境も海も越えて五千年前も現在も絶えることなく続いている。 そして、五千年後も地球が存在する限り続いていくことを願う。どんなに文明が発達しても人の手から人の手へ温もりを感じながら受け継いでいかれることを…。 中国の広い広い大地を踏み、果てしなく続く青い空を仰ぎながら、世界はどこまでも繋がっている、と自分の目で、心で実感することができました。 共演させて頂いた師範学院の皆様が奏でる音からは、キラキラした明るい希望が伝わってきました。 中国の筝と日本の筝で同じ空間をつくり出した時、何かふるさとのようなものを感じ、二つの楽器の音はひとつの「音」となりそこに存在していました。 私の弾いている「筝」。これは奈良時代に中国から伝来したものが、長い時間をかけて独自の発展を遂げて今の形になったものです。音律論も中国で確立したものが持ちこまれ、現在の日本の音楽理論、音楽思想の根源となっています。 その陰陽五行説にもとづいた「楽書要録」や、高音を知るための調律具、礼楽思想を日本に持ち帰ったのが遣唐使、吉備真備。この度は西安にある吉備真備記念碑を訪れる事ができ、とても嬉しかったです。 旧真備町にある琴弾岩の上で、真備は何を想い、筝を鳴らしていたのだろう…。愛しい者へ捧げる祈りか、天への切なる願いか、自然への敬愛か、自らの心を救うためか、戦いの世の中に平和を求めてのことか…。 楽器の形は違えども、遠く離れた場所にいても、音の波動は言葉の壁を越え、時代を越えて人々の心に届く、自然と対話し慈しむことができる。私が生まれる遥か昔から世界をみてきたこの楽器は、今の私達に何を言わんとしているのだろう。 昔の人から延々と続く大切な想いを見失うことなく、音を通してもっとたくさんの人達と手を繋いでいきたいと改めて思いました。 青龍寺ではお経が軽やかな旋律に乗って「歌」として境内で流れていたのが印象的でした。師範学院の皆様の演奏と同じように上へ、外へ解き放つような音と心の広がりを感じました。 師範学院の先生方、生徒さん達の真剣に音楽と向き合う姿、日本語学科の生徒さん達の情熱と純粋な心、申窪村希望小学校の子供さん達の嬉しそうな顔、それらをみて中国滞在中、次第に回りの風が色濃くなっていくのを感じました。 中国の歴史の深さを目のあたりにする度、偉人の足跡をみる度、戦争の傷あとを知る度に、人類が過去に残したメッセージに胸が打たれる想いで、たくさん今まで考えなかった事を考えさせられた数日間でした。 あたたかく迎えて下さった洛陽市、西安市の皆様の笑顔はいつまでも忘れません。 そして、ごいっしょさせて頂きました岡山市日中友好協会の皆様から本当にたくさんの人生の道標となるお言葉を頂き、たくさん学ばせて頂きました。心から感謝申し上げます。 日本と中国との架け橋となるすばらしい活動をずっとしてこられた皆様に尊敬の意を表して…。 中国の筝を奏でる手が、日本の筝を奏でる手が、いつも幸せな温もりで溢れていますように。そしてその手はいつも繋がれていますように。そしてその手が離れることなくいつまでも繋がれていきますように。 |
「心花」の親として 音楽は国境をも越えて 団員 熊代 三鈴 |
初めて訪中団に参加させて頂きました。訪中団の皆様には二十五弦筝の運搬など、快く手伝って下さり大変感謝しています。 大変内容の充実したツアーで、行く先々で中国の方々の偉大さ、広さを痛感致しました。中でも強く印象に残っているのは、高塚様方の努力で作られた希望小学校の子供達に出会えたことでした。 子供達の瞳は、どの子も輝いていて美しく、寒さにもかかわらず、校庭に並んで一生懸命私達を歓迎してくれました。これからの未来を担う大切な子供達、一人一人が今の瞳をずっと持ち続け、志高く、大きく育ってほしいと願っています。 洛陽師範学院で行われた「心花」と中国の日中友好コンサートでは、初めは互いに緊張感がありましたが、コンサートが進むにつれ、会場が一つになり、演奏者と観客が溶けこみ、非常に和やかな雰囲気の中、満場の拍手と共にコンサートを終えることができました。 まさに言葉は通じなくとも、音楽は国境を越えて友情、愛情を育み築いていくことができるものだ、ということを目のあたりに実感し、大変感銘を受けました。 つくづく参加させて頂き良かった、と思った瞬間でした。方先生、洛陽師範学院の先生、学生の方々、ありがとうございました。 翌日の牡丹祭りの開幕式も見事な演出で牡丹園の蕾ながらも威厳のある美しさ、優雅さが今も目に焼きついています。洛陽市は大変活気のあり、人々も優しく、とても好感の持てる所でした。 今回、いろいろな名所も訪れることができ立派な病院見学や白馬寺にも訪問させて頂き、本当に有意義な時を過ごすことができました。 最後になりましたが、両国の益々の友好発展を祈り、お世話になりました中国政府の方々、岡山市日中友好協会の皆様方に、厚く御礼申し上げます。 |
「心花」の親として 優しさが満ちた訪中団 団員 橋本 好史 |
4月12日の夕方、私は少し疲れた体を電車の座席に埋め、東京の池袋に向かっていました。 渋谷の駅で、流行の先端を行くであろう若い男女が乗り込んできて、目の前の席に座りました。濃く化粧した女性は、しきりに男性に話しかけています。しかし、二人共なぜか不機嫌そうでした。 そんな光景がぼんやり目に入ってきた時、突然、4日ほど前、洛陽の大学で偶然話をした女学生の顔が思い出されました。 化粧っ気の顔の無い、しかしキラキラした顔が現実以上にしっかりと目の前に現れました。それと同時に、現実の目の前の二人の若者がどんどん遠く、薄くなっていきました。 実は、中国で琴を演奏する機会を与えられた二十五弦ユニット「心花」の親という、訪中団とは希薄な関係にも関わらず、お筝を持つ必要があるからとの口実を作り、厚かましくも北海道から岡山市日中友好協会訪中団の一人として参加し、その帰りの事でした。 空港での出発式の時、私は、訪中団の雰囲気が優しさに満ちていることに驚きました。それは、団長初め役員の方々、団員の方々の「しなやかでありながら強い意思と、優しさと、思いやり」に、そしてガイドの方の真摯な仕事によるものと、旅の終わりになって理解しました。 また、その雰囲気は驚くことに旅の終わりまで続きました。 初めて訪れた中国は、悠久で重層的に歴史が流れ、広い空間と様々なものが混在している世界でした。しかし、その中国から日本を顧みると、なぜか硬直化し、もろく危ういものをはらんだ気がしました。 その硬直した世界を救えるのは、訪中団の「しなやかでありながら強い意思と、優しさと、思いやり」をもった精神なのかもしれないと、友好の意義を見つめ直している私がいました。 それは、夢だったのでしょうか。 電車に座っている日本の若者の前を、白馬寺のご住職が衣を翻させて通り過ぎると、凛とした一陣のさわやかな風が通り抜け、女子大生の笑い声が明るくあたりを包んだのでした。 気が付くと目の前の若者は消えて、ただ、空席だけがありました。 |
中国パワーの印象 ほんまにすっげぇ~なぁ~ 団員 高橋 幸夫 |
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平成22年4月7日、岡山空港から出発→上海→西安(2泊)→洛陽(2泊)→上海(1泊)→4月12日、岡山空港に帰る日中友好交流の旅でした。 中国の発展状況は大ザッパには知ってはいたものの、今回初めて肌身で感じてきました。印象を一口で言いますと、良い面(意味)でも悪い面(意味)でも「こりゃぁ~ほんまに すっげぇ~なぁ~」でした。 日本に帰ってその感動から解放されホット一息ついています。旅行では、立派な多種多彩な人達とも知り合えて本当に楽しく意義深い印象的な旅でした。 軍隊に守られて(見張られて?)洛陽市牡丹祭の開幕式にVIPとして招かれ、中国の要人は前列でしたが、我々も赤い雛段に並んで多彩な演劇を観覧しました。 その壮大な企画と、数百人並んだ大学生のマスゲーム(智弁和歌山高の応援団のような)の整然たる動きは、今の日本の大学生にはモハヤ出来ない、失なったものと思いました。 洛陽師範音楽学院では、我が国の誇る『心花』さん達の琴で奏でる日本文化の繊細な優雅さが、中国の大学生の心に沁み渡ったようで、大感激され大成功でした。「日本には、まだまだ世界に誇れる文化を持ってるんだ。嬉しかったなぁ~」。 西安では整然と並んだ兵馬俑の多さと、その規模に圧倒されました。秦の始皇帝の権力の絶大さ、しかも紀元前に。それに比べて日本はどうか? 老人介護保険適応者達が「たちあがろう日本」と口をへし曲げて、あちらを向いたりこちらを向いたりして叫んでいる。日本の政治家達は、日本をいったいどこへ導こうとしているんだろう。一度見習ってきて欲しいものだ。 でも、近くにある楊貴妃の像だけは見ないで欲しい「さらなるへナへナ」を招きそうだから。今まで視察と言って、こんなのばかり見て来てたんだろうかなぁ~。 翌日は、全く取り残された貧しい村の小学校を訪問しました。ボールペンを子供達全員(130人程)に持って行ったら、飛び上がって喜んでいました。 その目の輝きようったら、ソレワ ソレワ、日本では到底見られない失った情景でしたね。 また、新幹線(350㎞/h)が走ってるんだけど、停車駅の周りは粗末なレンガ造りの家がポツンとあるだけ。物珍しそうに駅のネット越しに住民が羨望の眼で眺めてました。彼らがこの新幹線に乗れるのは、いつなんだろう? 観光地のトイレはマッコト汚ない。それに普通乗用車、三輪自動車、ダンボールを乗せた三輪自転車(マダアルンデス)が、混然と右往左往に走っており、その隙間を縫うように人は横断していました。 交通事故も多いそうで、脳外科の入院患者の3分の1が頭部外傷だそうです。そこには一昔も二昔もの前の日本がありました。 日本とEメールや携帯電話は容易につながったけど、多くの国民はどれだけ、これらの恩恵を受けているんだろうか?将来、恩恵を受けるのでしょうけど、今生活している多くの人達には「関係無い!」って感じでした。 でも、中国のパワーは兎に角すごかった。それに比べて、今の日本は、夢もパワーも無くしたまま「今までの富の上に乗って漂ってる」って思いました。 |
もう一つの交流…洛陽 小学生の演奏に大感激 団員 木山敬太郎 |
西安・洛陽の両市で大歓迎を受け有意義な友好交流が出来ました。 その中で洛陽師範学院で「心花」さんと音楽学院の学生との日中友好演奏会が盛大に行われ、「心花」さんの着物姿での演奏に大きな拍手がありました。また、小学生の女の子の琴の演奏には感激しました。 記念撮影のあと「こんにちは」と学生たちに声を掛けられました。話してみると彼女たち3人は日本語科の二年生だという。とても上手に日本語が話せます。さすが日本語科!時間がなかったので、とにかく宿泊している友誼賓館へ来てくれるよう告げて別れました。 その夜の洛陽市長主催歓迎レセプションが大幅に遅れ、ホテルに帰った時には日本人の先生と学生10人余りが、1時間以上も待っていたという。 早速、荊雪鴿と李静を部屋に案内して色々と話しました。お互いの電話番号やメール番号を聞いているうちに、一階のクラスメイトから電話で、もう遅いから帰るというので、話の途中で彼女たちはタクシーに分乗して帰りました。 洛陽牡丹祭開幕式特別参加・緑化植樹ボランティア活動参加の翌日、白馬寺参観のあと河南科技大学附属第一病院を見学しました。 驚いた事に、看護士さんたちに混じって例の日本語科の程卓玉も一緒に3人の学生が居るではありませんか。日本人と話がしたいばっかりに、ここまでやるか!彼女たちは自転車で来たそうで、それぞれ花束・牡丹花の絵・お菓子をプレゼントしてくれました。 病院見学のあと病院長主催歓迎昼食会が行われ大変な歓待を受けました。同じテーブルに大柄な看護士、袁景茹さんが同席していて話をしようとしても、中国語がなかなかうまく通じません。なんとか自分の名刺を渡して、彼女の住所・電話番号・Eメールを教えてもらう事が出来ました。 今回の岡山市日中友好協会訪中団に参加して、大変素晴らしい日中友好交流が出来た事を心から感謝致します。 上海に1泊した事で上海の知人にも会う事が出来ました。12日帰宅したら早速洛陽師範学院の荊雪鴿からメールが届いていました。 |
○おことわり 訪中団団員の皆様に投稿をお願いしましたところ、大変多く集まりました。ありがとうございました。今号と次号で特集を組みます。今号未掲載分は次号でご紹介します。ご了承下さい。 |
◎中山時子氏特別講座◎ [中国・中国人との付き合い方] 「一緒に食事」これが第一歩 通訳を信じ過ぎてもダメ |
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第一部の「中国そして中国人との付き合い方」には約50人が出席、熱心に話に聞き入りました。 中山氏はこの中で、中国人を相手にする場合の“食”の重要性を指摘。「一度も中国人から食事を誘われたことのない人はダメな人です。中国人は真の交わりになった時、必ずいっしょに食事をしましょうと言います。いっしょに食事をして初めて二人の結びつきが固まるのです。共に食するということがいかに大事か、日本人は知らないといけません」と強調。 さらに「これから日本は中国がなければやっていけないと思う。それには中国語をしっかり勉強しなければなりません。知らないからだまされるのです。日本人は通訳を信じ過ぎています。通訳が本当のことを伝えているかどうか…。勉強した通訳を雇わないといけません」と指摘。 最近の中国留学生事情についても「留学もメチャメチャです。日本で中国語をしっかり勉強させてから行かせるべきです。“日本の女性はすぐ寝てくれる”といった評判まで立っています。何とも恥ずかしく悔しいことじゃありませんか。中国の学校教育は厳しく、若い人は猛烈に勉強している」と苦言も。 「今の中国の拝金思想は長くは続くまいが、その時、日本人はどう対処するのか、それを考えておかないといけない。今の中国は今日が良ければよいとの考え方で、そんな中であの紅衛兵を懐かしむ声さえ出てきている。戦争よりもっと恐ろしい事態になりかねない」と警鐘を鳴らされました。 第二部の「自然な中国語表現」講座には、中国語を学んでいる人たち約30人が参加し勉強しました。 また、この日は午後6時から、北区丸の内のチャイニーズレストラン福幸で、中山氏による「中国料理マナー教室」が開かれ、約30人が熱心に指導を受けました。 (簡単な中国料理マナーについては次号に掲載します) |
「程さんを救おう」 募金目標達成 ありがとうございました・手術は5月 |
骨髄移植を受ける中国人留学生、程?さんへの支援費用として、皆様に呼びかけました募金が協会取り扱い分として総額151万2千円集まり3月31日締め切らせて頂きました。 他団体分と合わせて目標の200万円余を寄託し、手術終了後会計報告と合わせてご報告申し上げます。本当にありがとうございました。 程さんは5月11日に手術予定で、4月末に入院して検査を開始します。 程ブンさん寄付金リスト (敬称略) 2月16日~3月31日協会到着分 【7万円】上田恭典 【5万円】片岡良仁 【2万円以上】岡山済生会総合病院有志、高橋幸夫、宗忠神社 【1万円以上】笹野靖宏、妹尾佳代、田口誠、田口光代、多田利哉、日笠一代 【5千円以上】岡山情報処理センター、炭焼火の鳥山本、アイスライン、松井三平 【3千円以上】岡山新老人の会岡山支部、黒住昭子、高渕宣雄、中山正昭、政倉昭信 【2千円】赤木陽一、秋山治道、片山高江、黒田実、田河 強、直原良七、中島一、松田葉子、宮本悦子、山村康男、渡辺恭次、土井章弘、平野陽子 【千円】赤澤、宇高千恵子、太田、大森絢子、黒住宗芳、西田、仁科民子、福田かつえ、藤代浩志、藤原博子、三宅由美子、蓑輪田鶴子料理教室(岩野、隠崎、梶原、片山、菊池、小坂、定金、佐野、竹田、出口、永瀬、永原、羽染、姫井、蓑輪、横田) |
六高創立100周年 記念事業に共催 |
本年6月6日、中国から郭沫若記念館館長らを迎えて、六高創立100周年記念シンポジウウムが開催されます。 協会としても共催して協力することとなりました。詳細は後日チラシなどでご案内します。 |
洛陽市医療視察 訪日団来岡 |
5月25日、洛陽市衛生局局長を団長とする6名の医療視察団が来岡する。 岡山では岡大附属病院、岡山旭東病院などを訪問し、先端医療や病院管理などについて視察する。 一行は、岡山市日中友好協会の招聘で来日するもので、岡山市のあと、交流のある橿原市などを訪問する予定。 |
「特定非営利活動に係る事業」 特定非営利活動法人 岡山市日中友好協会 |
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活動日誌 | |||
2/26…会報201号発行 3/11…三誌友の会定例会 3/11…岡山ビジネスカレッジ卒業式 片岡会長出席 3/14~17…國忠征美氏と松井事務局長洛陽緑化事業の視察 3/18…岡山外語学院卒業式、松井事務局長出席 3/20…中山時子先生中国特別講座、中国料理マナー教室 開催 3/28…第70回中国語検定試験実施 4/8…三誌友の会定例会 4/7~12…訪中団洛陽・西安訪問 |
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会員消息 | |||
【入会】 高橋正志さん(岡山市) 西尾栄治郎さん(岡山市) 森中俊彦さん(岡山市) 塚元和良さん(岡山市) 荒木敏雄さん(岡山市) 原 政之さん(倉敷市) |
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先憂後楽 | |||
いよいよ来年は協会創立30周年を迎える。過去を振り返るのは未来を展望するためである、といわれる。30年の歴史を顧みて、新たな日中関係の中で、友好のありかた、それを支える協会の在り方を展望する時期に来ている。 創立当初「再建」という言葉を使っていた。それまでの友好協会を解散して新たに作ったのが今の協会。その途上では守旧派との熾烈なやりとりがあった。それを乗り越えるために思想信条、政党政派を問わず「市民みんなで日中友好」という分かり易いスローガンで組織作りをしてきた。 その時期の事を知っている人も少なくなってきたが、先日岡崎平夫市長のご子息で全日空ホテルの顧問をされている岡崎登さんが、当時の市の幹部の方との会食の場を設けていただき、協会設立当初の評価を聞く機会があった。確かに未熟な面もあったが、正しい組織作りをしており将来発展するだろうとの評判があったと言われ、協会の方向が間違っていなかったと嬉しく思った。 この協会の歴史はまた岡山の友好運動の歴史そのものでもある。検証して正しく客観的な岡山の日中友好史を作成して、次の時代にバトンタッチしていきたい。(松) |