岡山と中国 2012年10月
平成24年10月
  217号


発行人 片山浩子
編集人 松井三平
日中友好の原点をお互い見失わず
    活動を真摯に分析、再構築目指そう
 あの「ピンポン外交」再び
        振り返る日中友好の歩み
                         「日中友好卓球交流促進訪問団」報告
周恩来総理を囲んだ日本選手団。
写真は向かって周総理の右が栗本さん。
卓球を通じての民間交流が国交回復につながった。
 (1961年、世界卓球選手権北京大会)
  1971年(昭和46年)。名古屋市で開かれた世界卓球選手権大会を機に米中は国交回復に動く。ピンポン外交である。遡ること10年、1961年の北京大会では、女子世界チャンピオンになった松崎キミ代選手や、深津尚子選手らが大活躍、中国首脳と交流、日米中の国交回復の地ならしをしている。

  本年8月、協会後援により日中友好卓球交流促進訪問団が青島を訪問した。参加された栗本(旧姓・松崎)キミ代さん、ジャーナリストの滝沢岩雄氏に特別寄稿を頂いた。


 元世界卓球女子チャンピオン
              栗 本 キミ代 (旧姓・松崎)
  今回、中国・青島への旅に参加したのは、荘則棟さんら卓球関係の懐かしい人たちに再会できるという思いからだった。
  しかし、荘さんは残念ながら、病気療養中で北京を離れることが出来ず会えなかった。
  訪ねた青島市卓球実験学校は中国でも有数の卓球モデル校で、32台の卓球台で激しく打ち合う8歳~15歳の生徒たちの熱気と指導者(コーチ)の厳しさに「ああ、このような徹底したシステムでここまで進んだ方法でやっているのか」と感心して見ていた。

  すると間もなく、誰から聞いたのか私と深津尚子さんがかつての世界チャンピオンであることを知り、「お手合わせを」とコーチとともにやってきたので、久しぶりにラケットを握り、快い汗をかいた。深津さんも同様に打ち合った。
  そして、フランスからの卓球留学生を含む生徒やコーチたちと和気あいあいに打ち解け合いながら、記念写真を撮るなどした後、青島市体育局と学校側が歓迎昼食会を開いてくれた。
 この席上、校長でもある、董煕総監督が「周恩来首相が松崎さんに贈った茅台酒は結婚祝いだったのですか」と尋ねてきた。
  私は、50歳前の若い人が私と故周恩来首相のエピソードを知っていることにびっくりしながらも「いいえ、結婚祝いではありません」とあらまし話をした。

  その話を聞いていた訪問団の皆さんが「感動的な話ですね。日中友好の深い流れをもっと多くの人に知ってもらいたい。ぜひ原稿を書いて下さい」と要請してきた。
  実は、この話については、同人誌「卓球人」の昨年6月号(47号)に書いたことがあり、今回、修正加筆して掲載していただくことにした。
  再録を快諾してくれた「卓球人」関係者に感謝したいと思います。

「長春市産業視察訪問団」報告
     緑園工業園区など大型開発進展中
            ■ ■ 長春の要請受け9月5日~9月9日視察 ■ ■
   「ぜひ来て」と強い進出要請受ける
                     県国際経済交流協会・県産業振興財団 共催 
  岡山県国際経済交流協会・県産業振興財団共催の「長春市産業視察訪問団」(団長・晝田眞三ヒルタ工業会長、32人)が、9月、中国吉林省・長春市を訪問、産業事情や経済特区開発状況などをこまめに視察した。

晝田眞三団長に聞く
人民政府関係者らとの懇談会
  これは、4月に来岡した長春市からの経済ミッションの要請に応える形で実現したもの。一行は、中国自動車生産最大手の第一汽車、中国高速鉄道の最大生産拠点である軌道客車などを視察、長春人民政府関係者や日本からの進出企業関係者らと懇談、貿易博覧会も見学した。

[長春の印象]正直、第一印象を申し上げると、中国の中では「出遅れてきた青年」といった感じを受けました。初めて訪れたのですが、活発な大連などと比較すると、先に豊かになった人たちではないようです。

  しかし、それには理由があって、長春には第一汽車とか長春軌道客車とか、国営の大企業があり、従来から恵まれ過ぎていたということだろう。新興の民間企業はあまり見当たりませんでした。
  ピーナツとかインゲン豆などが名産ということで、全体的に食べ物の豊かさは感じたが、ローカルだなぁとの印象は否めませんでした。
  ある大手商社の駐在員の話ですが「30年前の北京と同じだ」という分析だった。当社も南の遼寧省・瀋陽とは関係があるのですが、お隣りなのに長春との接触はありませんでした。

[長春側の反応]岡山に来られたミッションの方も熱心だったが、現地でも企業誘致や経済交流に強い熱意を示されました。長春では現在、緑園区内に「工業園区」という大型の開発プロジェクトを進めており、同開発区への企業誘致の要請だ。「ぜひ来てくれ」というわけです。

[ヒルタ工業の中国対応]当社は南の広東省仏山市に関連工場を持っているが、誘致企業ばかりの工業団地で、大事にされており順調だと思っています。あちらでは、「計画通りいくまいな」と言うことを常に前提にリスクを考えることにしている。賄賂の話も聞くが、あまり実感はしていません。要は、目立たぬ方が良いということでしょう。

[中国人との付き合い方]当社の場合、従業員は選抜して採用していますし、中国人だといっても個々人は別に変わってはいません。しかし政治的発言は要注意、向こうも気を使っている感じです。あちらの人は、全体的に自分の専門知識には自信を持っており、上昇志向は強いと思います。
  付き合う上では、過剰な思い入れを持たないことでしょう。白人や黒人と違って、顔も肌の色も同じなので、ついついガードを緩める。ビジネスの場合においてもしかり。過剰な思い込みは本当の友好にはつながらないと思います。

[長春の可能性]恵まれていたゆえに「出遅れた」状態なのだろうが、緑園区の開発などを見ると、やっとその気になってきたのかと思います。地域性から見て、ロシアのウラジオ開発や北朝鮮の経済開発の進展具合によっては、発展の突破口になります。これらができるとぐんと成長するでしょう。

[中国市場の将来]中国は物質的にも精神的にも成長過程にあるお国柄であるし、今以上に巨大なマーケットになることは確実でしょう。その中で、わたしたちは成すべき役割をきちんと果たしていきたいと思っています。
  中国市場は、あらゆる面で過渡期にあると思います。我々部品メーカーも数が多いので、競争の中で力のあるところは生き残ると思います。これまでのように全社が一斉に発展するといったようなことはあり得ないと思います。このハードルがかなり高くなりつつあるなと感じるのが現実です。
長春第一汽車の本社前で
アジア一の規模を誇る食肉加工工場

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ゴンドズユスフ副総領事
           瀬戸大橋など見学 野崎邸訪問し感激
ゴンドズユスフ副総領事
  9月1、2日の両日、当協会の招聘により、中国大阪総領事館から副総領事のゴンドズユスフ女史とアタッシュの胡元元さんが来岡し、倉敷観光や交歓会を通じて岡山の理解と協会との交流を深めた。 一行には、大阪府日中友好協会の長谷川理事、明石市日中の大西事務局長が随行した。

  1日には、瀬戸大橋を見学した後、児島の野崎塩業歴史館を訪問した。
  野崎邸では運営する(財)竜王会館理事長の野崎泰彦氏(ナイカイ塩業社長)が協会会員ということもあり、学芸員の宮崎さんから懇切丁寧な説明と著名な作家の備前焼による抹茶のお接待など特別の案内をいただき、ゴンドズユスフさんも感激していた。
交歓会
 

  1日の夜には、しんとうざん茶屋(黒住教総本山)で協会主催の歓迎会を行なった。黒住理事が女性代表として歓迎の挨拶。

  ゴンドズユスフ女史からは「是非新疆ウイグル自治区へ訪問してください」と熱い招聘がなされた。参加者は名物のおおもと鍋に舌鼓を打ち、日本酒、中国酒で乾杯をし、友情を深めた。
《ひ と
   岡山外語学院でインターンシップした
         長春・外国語学校の日本語の教師

                               李 煥 超 さん 
 
  岡山外語学院(岡山市、片山浩子学院長)に、中国・長春から日本語学校の教師、李煥超さんが来校、約2カ月間インターンシップを体験した。初来日の李先生に聞いた。

-初めての岡山の印象は。
○緑が多く、空気もきれい、人も皆親切にしてくれます。9月5日に来て、研修生として忙しい毎日です。授業を見学したり、スタッフの補助をしたりしています。勉強になりますし本当に楽しい。

-日本語の先生として、新しい発見はありましたか。
○仕事をしていて友達から「はようしねぇ」と言われ、何だろうと思っていたら、よく聞くと「早くしてね」くらいの意味の岡山弁だそうなんです。「しんどい」も初めて聞きました。来て体験してみないと分かりませんね。それに丁寧語も難しい…。

-長春では。
○日本語の教師として約150人の生徒を教えています。若者が中心で、日本への留学などを目指して頑張っています。熱心なんですけれど、ここに留学して来ている一生懸命な生徒と比べると、ちょっと遊んでいるようですね。

-どうして日本語を、そして日本へ。
○祖父が日本語を勉強していて「きれいな言葉だ」と言っていたので、関心を持ったのがきっかけです。日本語を勉強しても、私自身、日本を全く知りませんでしたから、日本語を教えるなら、自ら日本を体験してみて、教える方がニュアンスも伝わって良いだろうと、今回来させて頂いたのです。勉強です。

-岡山では何を。
○日本の文化や日常生活を体験し学びます。お茶や華道、着物の着付けも体験しましたよ。また日本のいろんなところに行って、見て実感してみたいと思っています。

-故郷・長春は。
○長い歴史を持った都市で人口も増えています。中国では「一番親切だ」と言われている街ですよ。自動車企業もあるし大学も多い。だんだん盛んになり、これからもっと良くなると思います。岡山の皆さんもぜひ来てください。

-帰ってからの目標は。
○ここで経験し学んだことを学生に伝えていきます。岡山は一番安全で親切な街だということも教えてあげたいと思っています。
 (李さんは28歳。ご主人は大学の博士課程在学中。10月20日研修を終え帰国しました)
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【特別寄稿】
    友好の証・一本の茅台酒

                             栗 本 キミ代
  2010年12月、中国のあるジャーナリストからこんな話があった。
  「来年の2011年は第26回北京大会から50周年の年、そして周恩来総理がその送別会で松崎さんに茅台酒(モウタイシュ)を贈ったのが4月20日だと資料から判りました。北京に来て50年前を追想し、茅台酒の産地へ行きませんか」。
拍手の中、茅台鎮の茅台酒会社を訪れた一行

  そういえば、5年前の日中卓球交流50周年のイベントで、双方のOB選手たちが北京に集まった。
  私はゆかりの品である茅台酒を大切に携えて行った。日中の選手たちとテレビに出て思い出話をした。
  「あの番組を見て感動しました。私は52歳で26回大会のことはよく分かりません。でもあのような生き生きとした日中友好交流の証を、特に今の時期、メディアを通じてもっと広めたいのです。荘則棟さん、邱鐘恵さんも参加して」。

  私にとっても異論のあるはずがない。それで4月17日から22日までの6日間有意義な旅をしてきた。
  北京では会えると思っていた荘則棟さんが、やはり癌が肺に転移、上海で手術して入院中とのこと電話で声を聞いた。

  「松崎さんに会えると思っていたが残念です。抗がん剤の副作用がひどく4日間で5キロも痩せました。他人の前では元気を装っているが、妻の敦子と二人になると泣いています…」。私も泣けてしかたがなかった。

朱で「解放前老酒」
  北京では、邱さん(女子の世界チャンピオン第1号)のほかに常に周総理の近くにいた姪御さん、身辺警護を務め、のちに少将となったかた、総理の秘書や事務所で働いたスタッフの子息たちが北京飯店に集まり座談会が開かれた。
  遠くなった記憶を辿りながら周総理に会った時のことを話した。そして「これが総理からいただいた茅台酒です」とバッグから出した。

  ラベルの裏側に「解放前老酒」と朱で書いた紙が貼ってある。もう赤茶けている。
  姪御さんとSPだったかたは懐かしそうにふたりで容器を持ちながら「これは新中国になった10周年記念の1959年に、茅台酒の会社が特別に周総理に送った中の1本です。これは百年余り前に造られたものですよ」と一気に言われた。
  「エーッ、そうですか」。驚いてせき込むほどだった。この時初めて知ったのだ。改めて周恩来総理のやさしさ、情け深さに打たれた。
  1961年、第26回世界卓球選手権北京大会。香港、広州を経由して羽田から3日かけてようやく辿り着いた北京。

記憶に残る北京大会
  1万5千人収容の円型体育館が完成したばかりだった。新中国になって初めてのスポーツの国際大会ということで国を挙げての行事だった。
  その前の1959年ドルトムント大会で日本は7種目中6種目に優勝していたが北京では厳しい大会だった。
  地元中国の著しい台頭、そして冷たい対日感情のもとでの試合。やはり結果は男子団体、男子シングルス(荘則棟)、女子シングルス(邱鐘恵)の主要な種目を中国が制覇。体育館をゆるがすような熱狂だった。
  日本は女子団体、男子ダブルス、混合ダブルスを獲るにとどまった。
  私はシングルス準決勝でハンガリーのコチアン選手に逆転で敗れた。3対0で勝ってもいいような試合を逆に1対3で敗れてしまった。

  ただ、この試合の途中から観客の声援振りが少しだが変わったのに気づいた。それまでは強い日本選手たちに対する判官びいきだけではない、侵略時代から続く日本憎しがあらわで私たちへの拍手は全くなかった。
  不思議だが終盤になって私の得点にも少し拍手が聞こえるようになったのだ。勝敗に影響する場面で相手に幸運なポイントが重なったのは確かである。だがこれは仕方がない。

周総理主催の送別宴
  終わった瞬間私はコチアンに駆け寄り握手をした。全館に拍手が鳴り響いた。間違いなく彼女への称賛の拍手だと思っていた。
  大会が終わり、北京最後の日のこと、周総理主催の送別の宴が日本選手団のために開かれるという。みんな胸が躍った。私は総理の隣の席が指定され更に緊張した。
  途中おなかが満たされたころ、40分間スピーチをされた。日本選手団の労をねぎらわれ続いて次のように話された。(以下次号に続く)

広がる「一縁融合」
                滝 沢 岩 雄
  今回の青島訪問について、団長の村上尚さんから「荘則棟さんががんの手術のため、青島に来られなくなった」と聞いた時、一瞬、「この卓球訪問団はどうなるのか。また荘さんがいなければ、わざわざ自分が行く必要がないな」との考えがひらめいた。

  というのは、私にはある計画があったからだ。荘さんの名は、毛沢東・周恩来時代の劇的な米中国交回復(1971年)につながるピンポン外交の影の主役であったこと、また今度の旅で、その荘さんと、周恩来と親しくしていた、卓球の元世界チャンピオン、松崎(現・栗本)キミ代さんや深津(現・徳永)尚子さんらが再会する、これは、ぎくしゃくする日中関係にも関わらず、「井戸を掘った人」を大事にする中国側の方針を再確認するチャンス、 「大きな記事になる」と。
  まあ、言って見れば、新聞記者の特ダネ根性丸出しの動機があったからだ。

  荘さんが来なければ、“歴史的な再会”記事は書けない。また今度の旅の目的、卓球交流の、肝心の卓球に縁がなく、また旅の中核を担った慶応大学卓球部とも関係がない私としては自分の居場所も分からない旅になってしまう。それが躊躇する理由だった。
  しかし、村上さんは実現に向け、必死で様々な案を描いた。彼は十数年来の気の合う飲み友達だ。その彼が、4月には北京に父君の親友だった故郭沫若氏の娘さんや荘さんを訪ねて、今回の旅につながる成果をもたらした。
  その北京行きを「親孝行と日中友好、しかも卓球という青春回帰が三位一体で同時に果たせる奇跡的なチャンス」と煽り続けたのが私だ、しかも、同行者に顔見知りが多い。記事にならなくてもいい、旅自体が楽しそうだ、と参加を決めた。

  結果は思った通りだった。青島合流の鈴木兼四さんを含め、経験と資質に富んだ仲間ばかりだ。
 松崎キミ代さんの「周総理からプレゼントされた茅台酒」のエピソードは圧巻でこの話はこの号に再録されている通りだ。
  中国通の国定剛さんの12日の誕生日祝いを見て、18日で67歳になる私も「繰り上げ誕生日」を願い、最後の夜の14日、大きなハート型のケーキで実現していただくという図図しさまで発揮できた。

  「一縁融合」、太っ腹の藤井正二さんが寄せ書きのど真ん中に記した言葉だ。この「一縁」は帰国後も、あちこちで新たな輪を作り続けている、どこで止まるのか分からないほどの多彩な輪を。
  このエネルギーと知恵が「瀬戸内日中友好卓球交流」に流れ込み、永続していくことを願っている。
                (坂田記念ジャーナリズム振興財団理事兼事務局長、毎日新聞元論説委員)
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日中国交回復40年  建立63年記念祝賀
                            友好団体など800人出席
  9月28日、大阪総領事館主催による「中華人民共和国建立63年記念祝賀会」がホテル新阪急インターナショナルで行われた。
  祝賀会には、近畿、中四国から政財界、日中友好団体関係者ら約800人が出席。当協会からは片山会長、黒住理事、松井事務局長が参加した。

  冒頭あいさつに立った劉毅仁総領事は、建国63年来、とりわけ改革開放を実施して30数年来、中国が社会主義現代化建設の各分野で収めた輝かしい成果を強調。
  参加していた大阪府日中友好協会の谷井昭雄会長(パナソニック顧問)は総領事のあいさつに触れ「大変穏やかに気を遣ってごあいさつされた」と感想を述べていた。

【投稿】  わたしと中国  中国とわたし
       中国なんて大嫌い…だけど、大好き 《下》

              東京学芸大学 四年(国際理解教育課程アジア研究専攻)
                                 中 村 源 太
  平成20年(2008年)私は東京学芸大学国際理解教育課程アジア研究専攻へ進学しました。
  この学科には中国を始め、アジアの様々な分野で研究なさっている先生方がいらっしゃいます。また、学科所属学生の半数近くが留学に行っており、そんな環境は私にとって大変魅力的でした。

  大学1、2年ではアジア、特に中国に関する知識を蓄えるために学科を問わず様々な授業を受けました。
  いろんな事をどんどん知り、知識の増えていく大学生活は自分にとって知識の「高度経済成長期」でした。
  そして、大学3年の夏、平成22年の9月より大学の交換留学生として、中国は北京の北京師範大学に行けることになったのです!
  私は中国人学生と一緒に講義を受ける「普通進修生」として文学部に入学し、主に言語学を中心に学びました。

  授業を通して言語学そのものはもちろん、中国の試験制度、北京師範大学の授業の様子、学生たちの学習状況まで色々理解することが出来ました。
  特に、一人ひとりの積極的な態度には私自身、たくさん学ばせていただきました。教授が何か一つ質問を投げかけると、多くの学生が挙手をし、自分の考えを述べようとします。
  指名された学生はまるでディベートをしているかの如く、順序よく、理論付けて自分の考えをはっきりと述べます。教授は、学生の考えに対する見解を述べて学生に反芻を促します。
  そして、中国人学生は授業終了後に毎回教授に対し拍手をします。これは教授に対する尊敬、感謝であり、授業内容に対する学生の評価でもあると思います。
  そこに教授と学生が一緒に授業を作り上げている雰囲気を感じました。

                         ○     ○
  私は中国留学を通して感じたことが一つあります…中国人の「活力」です。
  日本はバブル崩壊後、先の見えない不況に陥りました。増える失業者、高い自殺率、平成元年生まれの私は元気のない日本だけを見て育ってきました。
  一方、私が中国で見たのは中国人学生が必死に勉強する姿、経済成長を遂げる街の姿、日本に追いつき追い越していこうとしている「活力ある中国」でした。
  沿岸部の物価はどんどん上昇し、場所や物によっては日本より高く、国を発展させようという意識が日本よりとにかく強かったのです。
  なのに私は帰国後、民放バラエティー番組での中国の伝えられ方を見て愕然としました。
  反日、パクり国家、発展途上、汚い…未だにそんな視点でしか中国を見られていない人がたくさんいることがショックでした。

  もちろん声高々に日中友好!とだけ叫んでいれば良いというものではありません。私だって確かに中国に対して複雑な思いはあります。決して良い出会いばかりではなかったし、大嫌いなやつもたくさんいます。
  しかし、その上で中国の良い点を認め、参考にし、日本発展のための糧にしていく…それでこそ成熟した国と国としてのあり方ではないか、と私は強く思うのです。
  実際に中国に行き、中国の現状を自らの目で確かめてほしい…私は本当に強くそう思っています。
  なのに今、日本では海外赴任や海外留学に行きたがる日本人が減ってきています。
  日本人がそうやって海外から目を背けている間に中国を始めとする国々はどんどん成長してきているのです。
  そうして私は次第にこう思うようになりました。「人々が外を見ようとしないなら私が外を伝えなくては」。

                        ○     ○
  私は来年の4月より、ジャーナリストとして社会人生活をスタートさせることとなりました。
  「日本に実際の中国を伝え、中国に実際の日本を伝えたい」…簡単なことなのですが、今の日本にはそれが必要なのです。一衣帯水の隣国である中国は今もこれからも日本にとって重要な国であり続けます。
  私が今までやってきた中国語を役立たせ、ジャーナリストとして架け橋になりたい!なぜならそれが私の大好きな中国、そして大好きな祖国日本に対する恩返しだと信じているからです。
  そして、そう思うようになった大きなきっかけがSTUDENT EXCHANGEにあったということも最後に特筆させていただきたいと思います。

  よく人から「中国は好きですか?」と聞かれます。そうすると私にはこうとしか答えようがありません。
  「大好き!…だけど、大嫌い!」。知れば知るほど嫌いになり、知れば知るほど好きになる…私にとって中国とはそんな国です。
  それが中国の魅力的なところであり、そんな中国を一人でも多くの方に感じてほしいと心から願っています。(完)                                                                 
  =岡山県日中教育交流協議会(門野八洲雄会長)が主催する日中青年交流事業の第一回「STUDENT EXCHANGE IN 上海」に参加し、来年大学を卒業し放送局に就職、ジャーナリストの道に入ることになっている中村源太さんの「投稿」でした=

 
活動日誌
  8/12…日中国交正常化40周年記念、青少年卓球交流促進訪中団(10名、青島)
        世界女子シングルチャンピオン松崎キミ代、徳永尚子氏ら参加。協会後援
  8/17…早島小学校友好訪問(上海)~20
  8/29…協会理事会
  9/ 1…大阪総領事館副総領事ゴンドズユスフ女史来岡、歓迎会
  9/ 2…本年度第一次洛陽医療視察訪日団(山陽病院、岡山旭東病院視察)歓迎会
  9/13…三誌友の会例会
  9/28…中国建国63年祝賀会(大阪総領事館主催)片山会長ら出席
 10/ 6…矢掛町日中美術展開幕(やかげ郷土美術館)松井事務局長出席
 10/11…三誌友の会例会

 
会員消息
【入会】
 徳永 孝明さん(高松市)
 徳永 尚子さん(高松市)
 藤井 正二さん(横浜市)
 滝沢 岩雄さん(高槻市)
 山本  清 さん(豊橋市)
 重慶強衆文化傳播有限公司(中国)
 
 
先憂後楽
  これだけは中止にならないで、と祈る気持ちで毎日過ごしていた洛陽訪問。12日には「大丈夫です」というメールが来て思わずガッツポーズ、ところが翌朝には「やはり今回の訪中は延期してください」という電話。最後の最後まで受け入れのために奔走してくれた中国の友人に感謝したい気持ちと、事態はここまで来ているのか?という暗然とした気持ちが交錯する。

  安全面の心配があるという。もう一つは受入側の責任が問われる。一地方としては判断できないこともあろう。今、中国と交流しているすべての地域で同じようなことが繰り広げられている。いずれも「延期」の期日は明確にされていない。

  我が政府の「国有化」宣言のタイミング、方法など、外交の浅薄さが問われている。かつて、解決できない難しい問題は棚上げして、日中両国の国益を最優先して国交正常化を成し遂げた両国の先人の知恵が、いとも簡単に反古にされた。そして事態の予測も解決のシミュレーションもないままに。

  直接被害を受けている日本企業、これから営業展開しようとしていた産業、訪日や訪中で業を営む観光業者、文化、教育交流を企画推進していた友好団体等々、数字には出ていない無数の損害が広がっている。

  日中国交正常化は米中国交樹立が前提だったが、その契機となったのは『ピンポン外交』だった。その時代の世界女子シングルスチャンピオンが栗本キミ代、徳永尚子の両選手だ。このお二人がそろって今夏青島を訪問し、再び卓球を通じた日中青少年交流のために尽力されている。

  『民が官を促す』日中友好の原点をもう一度見つめ、新たな井戸を掘り続けたい。   (松)



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また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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