岡山と中国 2013年10月
平成25年10月
  223号


発行人 片山浩子
編集人 松井三平
日 中 緑 化 交 流  8月現地調査
  《岡山市日中友好協会事業》        嶋准教授視察
    
         洛陽の孟津県「白鶴鎮」地区が'13年の対象
      洛陽市人民政府・対外友好協会も大歓迎
岡大・嶋先生と張君/後方に見えるのは黄河

  日中緑化交流基金の助成を受けて岡山市日中友好協会が実施している洛陽市の黄河沿い地区「白鶴鎮緑化協力事業」(孟津県)がやっと動き出し、8月27日から同30日にかけて現地調査が実現した。

  昨年9月の尖閣諸島の国有化宣言以降、現地への訪問さえはばかられていたが、4月の医療交流委員会の訪問団が交流再開の口火を切ったことから、緑化事業の方も順調に受入が決まった。

  訪問したのは、岡山大学農学部准教授で森林生態学の専門家、嶋一徹氏と当協会の松井三平理事・事務局長。
  更に現地では、嶋氏の研究室に留学している洛陽出身の張博君(農学部大学院環境生命科学研究科)が合流してくれた。
  なんと張君は、緑化の実施場所である孟津県高校出身だったので、現地事情に詳しく力強い助っ人となった。
女貞(ネズミモチ)
  28日には朝から、この事業のカウンターパートである洛陽市人民対外友好協会の蔡秘書長が出迎えていただき、国際友好センターの于愛紅さんが通訳として同行。
「友好林」と書かれた記念碑を囲む参加者
  孟津県林業局の迎えの車の誘導により約一時間半で現場に着いた。
  位置的には、当協会が2005年から6年間にわたり実施した「洛陽小浪底緑化事業」の少し下流になるところ。

  やはりこれまでと同じく、黄河沿いの土砂流失や、乾燥すると埃となって市内の空気汚染や環境汚染となるのを防ぐための緑化事業である。
  現場では、孟津県林業局長、白鶴鎮長、地元村の村長などが同行し実施場所を回った。

  嶋氏と張君が、GPSなどを駆使して面積の実測や樹種の本数などが計画書通りに実施されているかを確認した。
  昼になって、近くの保養所に場所を移し、現状の問題点や今後の実施方法などについて意見交換した。

  昼食時には、林業局のメンバー以外に元洛陽市外事弁公室のメンバーだった石艶さんが、孟津県の人事局長に就任しており、合流して歓迎していただいた。
  嶋氏は農水産省の事前許可を取り、土壌分析のため土を持ち帰り分析をしている。この結果をもとに、より適した樹種や植樹方法を提案していく事になっている。
協議会に参加したメンバー(中央女性が石さん)
 
 
 また、29日に開かれた岡山大学国際校友会華中地区分会の成立大会に出席のため、岡大の森田潔学長も洛陽入りしていた。
  関係者間では、今後、洛陽と岡山の学生がボランティア植樹に参加し、日中相互理解にもつなげていくことも話し合われた。

  日中緑化交流基金は、1999年に小渕総理が訪中した際、基金設立を決定。爾来、中国の21省(自治区、特別市)で、日本の友好団体などが基金運用による植林事業を実施してきている。(松井)

洛陽「小浪底緑化」の実績
                     6年間継続/15万本植樹
黄河台地に広がる小浪底地区
日中共同で行われた植樹作業
 
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内山完造の扁額と色紙発見
        「共歓共苦」の墨跡鮮明

                                   協会理事 赤木宣雄
赤木宣雄理事
玉島協同病院にだいじに掲げられていた扁額

  ある人が小生に「あんたが言うとった内山完造の書が水島の協同病院にあるはずで。あんた見たん?」「わしゃー見とらんがな…」-。

  という事から、小生の好奇心・探究心に火がついて色々調べていくと…どうも玉島の協同病院にあるらしいという事が分かった。

  そして、話の中で元共産党県議・栗本泰治氏の名も出てくる。ちなみに、栗本氏は水島・玉島の協同病院の生みの親で元理事長だった。
  これらの話を、当協会の猪木理事にする。これからが早かった。一週間もしないのに玉島協同病院と栗本氏へアポをとり、8月26日の訪問が決まった。

  同日、猪木理事と待ち合わせて栗本氏宅を経て玉島協同病院へ。
  病院へ着くと会議室に掲げられていた内山完造の「共歓共苦」の扁額は、栗本氏の手配で降ろされ、埃もきれいに落とされ応接室に運ばれていた。
  これだ。完造の息づかいが伝わって来る。
[色紙説明]
 「眉を横たえて冷やかに対す千夫の指 首を俯れて甘んじて為る孺子の牛」。千夫とは敵のこと、孺子とは人民大衆のこと。
「敵に対しては一歩も譲らないが、人民に対しては牛となって奉仕する」の意。魯迅の詩。完造が好んで書いた。(色紙は栗山氏所蔵)
内山完造の像(井原市)
  この扁額は、1957年(昭和32年)3月1日、水島小学校講堂で内山完造が講演。その夜、佐藤義信医師(当時、日中友好協会水島支部長)宅に宿し揮毫したものだ。

  落款は〝鄔其山〟(うちやま、魯迅が命名)のみで印は無い。今まで小生の観た書・色紙すべてがこの式だ。

  栗本氏が当時、佐藤医師宅で協同病院設立の趣旨を話したところ、新中国建国の精神と同じだと、この「共歓共苦」を揮毫したとの事。


 よくも大事に残して…

  最初は水島協同病院にあり、その後玉島協同病院へと移りながら、よくも残っていた、残してくださった、50数年も経つのにと思う。
  と同時に、栗本氏82・3歳ながら、今なお矍鑠としておられ感謝申し上げます。
  内山完造が帰国して亡くなる12年の間、北は北海道、南は九州まで講演行脚をし、かなりの書・色紙をしたためているが巷間に残るものは稀少でそれだけに貴重である。
                               
岡山大学 国際校友会
        華中地区分会が新発足
 
            森田潔学長ら出席し洛陽で盛大に式典
            中国との交流を深め、国際化戦略を促進
 

  岡山大学に留学し岡山に来ていた関係者で組織する岡山大学国際校友会の華中地区分会成立大会が、8月29日夜、中国・洛陽市新区の洛鉏都利豪国際飯店で盛大に開催されました。

  劉元洛陽市長ら出席

  中国側の参加者は、地元洛陽市から洛陽市人民対外友好協会会長(元洛陽市長)の劉典立さんを筆頭に、元洛陽市外事弁公室主任の方双建さん、現外事弁公室主任の王建軍さん、同副主任の蔡志さんら。

  そして、同窓会会長で今回の会合の主催者である楊虹君さん(女性)を始め、洛陽市以外の周辺各地からも岡山大学留学経験者の方々が約30人。
  さらには、河南科技大学第一附属病院長ら、各界の有力者が参加しました。

  そして岡山側からは、森田潔岡山大学学長を始め、松井三平岡山市日中友好協会理事・事務局長、岡山大学法学部教授で岡山大学国際校友会全体の会長である張紅さん(女性)、岡山大学農学部嶋一徹准教授ら。
  また、洛陽市内で勤務・留学・研修中の日本人3人(関を含む)も加わり、総計80人にも及ぶ盛大な会でした。
  開会、来賓紹介の後、華中地区同窓会長の楊虹君さんが岡山弁を交えてあいさつ。
  洛陽市人民対外友好協会会長あいさつと岡山市長の祝電(松井事務局長が代読)が披露、岡山市日中友好協会片山浩子会長のビデオメッセージも紹介されました。


祝辞を述べる森田学長


片山浩子会長はビデオメッセージ

 岡大同窓生集い歓談

  岡山大学森田学長、岡山大学国際校友会張紅会長から、それぞれ祝辞が述べられました。
  その後、参加者全員で記念撮影が行われ、続いて、松井事務局長による乾杯前の祝辞(祝酒詞)、さらに続いて、洛陽市人民対外友好協会会長と松井事務局長の2人が乾杯の音頭をとり、歓談の時間となりました。
  式典の部だけで、およそ1時間半に及び、皆さん、熱弁をふるっておられました。
和やかに懇談する同窓生
 

  岡山大学国際校友会(岡山大学留学生同窓会)には、世界各地に18の支部があり、その中に洛陽支部もすでに登録されています。
  しかし、今回は、「岡山大学国際校友会華中地区分会(岡山大学国際校友会華中地区分会)」として、より大きな地区を包含する校友会として発足したものです。

  いつもお世話になっている任麗達先生も岡山留学経験者として参加され、私も医療関係者の淋歴に座らせていただき、一緒に森田学長や洛陽市の名士の方々にあいさつして回りました。

  改めて、岡山市と洛陽市、さらには華中地域との交流の歴史と広がりを感じました。
        (洛陽にて関英一記)
 
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新刊 『大地の青春』元満蒙開拓少年義勇軍の生きた道
     満蒙開拓団、悲劇の叫びを聞いて欲しい

     この国がどちらに向かうのか気づくはず

                                  青 木 康 嘉 
青木氏著「大地の青春」
 

  満蒙開拓団を扱った『大地の青春』は、2年前に発刊した『大地の叫び』の続編である。
  その『大地の叫び』は、七虎力開拓団の残留孤児、高杉久治と龍爪開拓団の残留孤児、高見英夫と共に現地へ赴いて、証言と資料を実証しながら書いたものであった。

  今回の『大地の青春』は、元満蒙開拓青少年義勇軍村上中隊の杉山勝己の生涯を現地に赴いて書いた。
  戦後、なぜ彼が残留孤児として中国に残ったのか、理不尽な戦時死亡宣告を受け、戸籍上死亡したことにされたにもかかわらず、自分で手紙を書いて一時帰国した。

  その後、家族から身元引受人を拒否されると、杉山は16年も永住帰国にかかった。
  その無念さを裁判資料「陳述書」「準備書面」などを分析しながら、国の「早期帰国義務違反」「帰国の権利妨害」「自立支援義務違反」がどのように行われたかを追求した。このことは、杉山の無念さを晴らすことでもあった。
  岡山県の満蒙開拓青少年義勇軍村上中隊だけでなく、岡山県出身の各義勇軍を中隊史から紹介した。

 逃避行の体験を語る

  義勇軍のそれぞれの逃避行の体験を本人の体験談を通じて書くことによって、杉山勝己の残留孤児体験を相対化して読むことができるようにした。

  もう一つ論文は、大主上房開拓団の梶田夫妻の逃避行を丹念に追求した『悲劇の大地』である。
  国の施策によって満蒙開拓団に参加したが、昭和20年7月の「根こそぎ動員」によって夫が召集された。
  男たちはソ連参戦の最前戦に立ち、ある者は戦死し、ある者はシベリアへ送られ、厳寒の中強制労働を数年にわたって強いられた。

  なかには、逃避行を続けた者がいた。また、開拓団の若い母親は幼児抱き、女子供中心の逃避行を続けた。
  時にソ連軍に攻撃され、「匪賊」と呼ばれた現地農民に襲われて、家族を亡くし、自決し、子どもを中国人に預け、中国人農民の妻となって生き延びた。その艱難辛苦の逃避行を知ってほしい。

  この本を一読して頂ければ義勇軍の逃避行と残留孤児問題、開拓団の男たちの逃避行、開拓団の女子供の逃避行が杉山勝己と梶田夫妻を通じて見えてくる。

  中国残留孤児裁判の大阪地裁の「国民等しく受忍」せよという判決文と、「自国民の生命・身体を著しく軽視する無慈悲な政策」であったとする神戸判決文を読んで、この国がこれからどちらの方向へ向かうかの岐路に立っていることに読者は気づいてほしい。
       (2013年10月2日記)
 
もう一つの「交流」史 『大地の青春』を読んで
                             協会理事 宮本光研
宮本光研理事
 

  日中友好の華やかな一面に、もう一つの奥戸をこじ開けて晴らさんとした交流史がある。

  昭和10年代。岡山県から14、5歳の少年2千7百人余が中国へ行った。
  山本弘之(飯岡小学校)の詩に、

             十五歳の時でした
             僕たちは、純粋でした
             沢山の友が、病気や
             栄養失調で
             亡くなりました
             その名は「満蒙開拓
             青少年義勇軍」
             僕たちは、純粋でした
                         =『残影』より=

  鳥越伯夫(小田郡)の父親は無茶苦茶に、行くな!と反対した。「寒い満州へ百姓に行く阿呆があるか」「騙されとるぞ」
  杉山勝己(美作町)や梶田栄一、君子夫妻の生きてきた道も過酷だったことが本編に綴られている。
  人間が人間であることの困難さ。少年が「純粋でした」ということのあどけなさ。哀れ、窓打つ風が入りこんで憂愁の頬を叩く。

  この著を書いた青木康嘉・岡山関西高校教頭や、発行者「岡山・十五年戦争資料センター」の上羽修さん。大勢の引揚者らはほんとうの日中友好人士である。
  国に「棄民」された日本人子女に救いの手をさしのべた中国人も又、そうだ。協会の松井三平氏が旅行社として旧満州の訪問旅行に随行、現地入りして取材協力。わが協会活動の救いである。

  □お知らせ□  「大地の青春」販売中! 一冊千円、送料別。
 岡山市日中友好協会では、『大地の青春』を協会事務局でも取り扱っています。ご入用の方は、電話(086-225-5068)かファクス(086-225-5041)でご連絡下さい。

国慶節:民間交流の重要さ確認 
民間交流を強調した劉総領事

  日中毎年恒例の中華人民共和国駐大阪総領事館主催の、中華人民共和国の建国記念日である「国慶節」を祝うレセプションが、9月27日、大阪市のホテルニューオータニ大阪で盛大に執り行われました。

  総領事館からの招待を受け、片山浩子会長、松井三平事務局長、黒住昭子の3名が協会を代表して参加してまいりました。 
  劉毅仁総領事の挨拶の中では、今の日中間の政治的な緊張関係にも触れられましたが、やはりこのような時だからこそ、民間交流が大切であるということを強調しておられ、会場から大きな拍手が起こりました。

  今年の協会新春互礼会に来賓として来てくださった胡元元さんが司会を務め、終始和やかな雰囲気で会場は熱気に包まれていました。

  私たちも関西の経済界の方々や各地域の友好団体の皆さんと交流を深め情報交換をすることができ、活動を活発化させたいとの思いを新たにしたひと時でした。 (黒住)


黒住理事、片山会長、劉総領事(左から)


 今年も司会は胡元元さん(左)
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《引揚げの地〝我がふるさと〟コロ島訪問の旅》
      地方政府も人民も熱烈歓迎
      遣返の地で「ふるさと」吹奏

                              
長春会 池田武久(当協会会員)
望海公園内の緑化事業記念碑(除幕式)
 

  この旅行は、昨年、葫蘆島市政府が打ち出した葫蘆島港南側の港外の「日本俘虜遣返之地」碑(横型)がある望海公園緑化事業計画に、東京の国際善隣協会が協賛して植樹をした記念碑の除幕式に参加する事を主目的としたもので、秦皇島と北京の観光も含まれていた。

  私は、長春会会員でもあるM氏より誘われて岡山市日中友好協会の会員のS氏と共に参加した。

  まず、北京より高速鉄路(中国の新幹線)の和諧号で葫蘆島へ向かい、葫蘆島市政府外事弁公室及び地元メディアが参加した記念碑の除幕式に臨んだ。

 国際親善協会が協賛し 緑化事業と取り組む

  辺りは、昨年植樹された松の木々が余り元気とはいえない姿で在ったが、これ等が緑豊かな林になるにはかなりの年月を要する事だろう。
植林が進む望海公園(「日本捕虜遣返之地」碑も)
 
  実は2006年に長春会が来た時、この辺りに友好公園を造ると、当時の葫蘆島市政府の銭宣伝部長(書記)と馬副部長からその計画図まで見せてもらったのだが、その後資金不足で中止になったらしいと聞いていた。
 この望海公園というのは、様式も名前も変わったが恐らくこの計画の復活といえるのではなかろうか。

  一行はこの後、外事弁公室主催の昼食会に招かれた。私はハーモニカを吹いたが「北国の春」を外事弁の人達が唱和してくれたので驚いた。
  昼食会の後、引き揚げの際数日間船を待った馬杖房貨物站へ行った。
  私は一行の要請を受けてハーモニカで「ふるさと」の曲を吹き、皆さんが唱和した。引き揚げ船が埠頭を離れた時、誰からとも無く口にしたこの歌に、乗っていた千数百人が静かに唱和した思い出の歌である。
  当時、引き揚げ者の多くは二度と来ることは無いであろうと思ってこの歌を歌ったはずである。

  引揚者にとって中国は 忘れられぬ「ふるさと」

  しかし、私はこれでここへ来たのは3回目である。良くも悪くも引き揚げ者の多くにとって中国は「ふるさと」なのである。
  更に我々は港の反対側にある縦型の引き揚げ記念碑に案内された。
  2009年、私が個人的に来た時、この辺りは干拓工事が行われていて碑の周辺は荒れ放題。碑はまさに残骸になるのではとさえ思われる状態だった。
修復されていた"遣返"記念碑
 
  私はこれを見て、この我々にとって得難い思い出の碑も、いよいよ消滅するのかとさえ思ったものである。

  しかし、今回来てみて驚いたことに碑は若干内陸側に移転されてはいたが、碑自体も周囲も立派に修復されていたのである。
  私は葫蘆島政府に感謝の念を持った。
  さて、夜は葫蘆島政府の皆さんを招いて国際善隣協会主催の晩餐会があり、両国人は和やかに一時を過ごした。

 中国側も引揚60周年で 盛大に式典を挙行

  2006年、中国政府は葫蘆島で日本人引き揚げ60周年記念の式典を盛大に催したのである。
  日本からは数百人の引き揚げ者が参加した。中国政府は公式に唐家璇前外交部長を派遣し、日本は非公式ながら村山富市元首相が参加した。

  この時私も、長春会の一員として来たのであるが、日程の都合で式典には参加できなかったが葫蘆島市政府は熱烈歓迎をしてくれた。
  昨年より日中両国は尖閣諸島問題でぎくしゃくしている中で、葫蘆島市政府は今回も2006年当時と変わらぬ熱烈歓迎をしてくれた。

  私は、中国政府の在り様は好きになれないが、葫蘆島市に限らずいつも友好的に接してくれる地方政府と一般人民は好きである。

  我々はこの後葫蘆島の古城や秦皇島を観光して北京へ戻った。翌日一行は寧夏自治区へ向かったが、私とS氏は一行と別れて北京一日観光をした後帰国した。
  謝謝。

[葫蘆島市(遼寧省)は、北京と瀋陽市の中間に位置する交通の要衝に当たる港湾都市。戦後、旧満州の在留邦人105万人の引揚港として知られる。中国側から見れば、満州にいた日本人を日本に送り返す「遣返(けんへん=元に返す=)」の地となる]

 
「広報・編集委員会」開催 新メンバー加え新機軸も
  協会会報「岡山と中国」の編集を担当する広報・編集委員会が、10月3日、協会事務所で開かれました。
  委員会には、松井三平理事事務局長を始め、新たに委員会に参加して頂く朝日塾宙SORAの小島達也校長、牛田和子理事、広報委員の山本直樹理事、猪木正実理事らが出席。10月号会報の内容などについて話し合いました。
  新しい企画記事や取材内容などについて提案もあり、今後、協議を進めながら積極的に新機軸を打ち出していくことを確認しました。 (猪木)

活動日誌
8/ 8…会報「岡山と中国」発送
8/19…吉備中央町友好訪問団出発(江蘇省淮安市へ)
8/21…理事会開催
8/27…洛陽緑化訪中団(~30日)
8/29…岡山大学海外同窓会華中地区(洛陽)支部設立大会(洛陽、鉏都利豪国際飯店)
9/12…三誌友の会例会
9/20…日中卓球交流会準備会(協会事務所)
9/24…日中医療交流委員会会議(多幸半)
9/27…大阪総領事館主催国慶節64周年祝賀会(大阪、ホテルニューオータニ大阪)
10/ 3…編集委員会(協会事務所)

先憂後楽
  岡山大学の国際校友会華中地区分会の成立(結成)大会に参加した。たまたま、緑化調査で洛陽行が決まっており、日程調整して運よく参加できた

  当日の参加者の顔触れを見ると、さながら岡山と洛陽の友好交流促進会のようだった。協会が設立当初派遣していた留学生の恩師である元洛陽大学の李鴻恩老師。「78歳になったよ」とニコニコして再会を喜び合った。手にはスマホが握られていて時代を感じた。牡丹画家の王綉先生、初期の頃の技術研修生等、そして新旧の外事弁公室幹部等々

  確かに懐かしがっていても始まらないと思うが、32年間、多くの人々が岡山と洛陽を行き来し、また触れ合い、『友好』を心身に刻んだ事実は消すことができないし、それらの人々は大きな友好の財産だ

  緑化調査にご一緒頂いた嶋先生が、緑化活動の時に、今回の大会に参加した人々にも呼びかけたらどうかと言われたが、グッドアイデアだ。来年度からの緑化活動は市民参加型で行きたいと思っていたが、動員されて参加するのでなく能動的に参加する形でないといけない

  いよいよ民間交流の再開だ。来春の市民訪問団の派遣に向けて更に意思疎通を深めていきたい。  (松)


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