岡山と中国 /戦/後/70/年/
2015年4月
平成27年4月
  232号

発行人 片山浩子
編集人 松井三平
洛陽  2015年 岡山市民友好訪問団 天津
          天津市と友好交流調印
          
              岡山、天津両友好協会が幅広い交流を確認
              
「出来る分野から交流を始めたい」(片山会長)
「意向書」にサインする片山氏(左)と陳副会長

  岡山市日中友好協会(片山浩子会長)を中心とする市民訪問団が、4月15日から同19日まで、洛陽市と天津市を訪問。天津市では友好交流意向書を調印、洛陽では洛陽市を公式訪問し歓迎交流会に出席、植樹活動を実施するなど、交流促進に大きな足跡を残した。

友好交流と協力関係を樹立
  岡山市日中友好協会と天津市人民対外友好協会との友好交流に関する意向書の調印式は、4月18日、天津市の天津政協倶楽部で行われた。
  調印式には、天津市側から、田貴明公共外交協会副会長(前、天津市友協常務副会長)を始め、陳衛明友協副会長、程懐金民政局副局長、閻英霞婦女連合会副主席、鐘英華師範大学副校長、梁宗禹衛生局処長、李响西洋美術館館長、赫維友協前秘書長、佐大津友協幹部、張鐸友協聯絡第二処処長ら同市各界の代表者等が出席した。
  日本側は、片山会長を団長とする市民訪問団17名が参加した。
  片山会長と天津市友協の陳衛明副会長が意向書に署名した後、双方の代表者らがワインで乾杯し、和やかな中に調印式を終えた。

  調印式に先立ち行われた会見式では、田貴明氏がまず挨拶。
  「岡山とは1983年から、范曾先生の関係で交流が始まり、活発な交流をしてきた。本年1月には、黒住昭子副会長、松井三平事務局長が天津を訪問。今後の交流について話し合い、再会を約束したことが、今日実現して交流協定の意向書調印につながった」
  「これを機に今後、幅広い分野で交流するために、本日は、福祉、女性、医療、教育、文化など幅広い分野の指導者に集まっていただいた。大いに交流をしましよう」と呼び掛けた。

  これに対し、片山会長は「天津市は1,400万人の人口を有する直轄市で経済的にも発展が目覚ましい。岡山市は70万人の地方都市で、対等に交流ができるか心配だが、相互に関心があり、出来る分野から交流をしていきたい」抱負を語った。
  田副会長から発言を求められた黒住副会長は「1月にお邪魔して再会を期したが、その約束を果たせて嬉しく思う。団員の中にも様々な分野の人がいるので、何か交流につながればと思う。本日ご在籍の皆様が岡山へ来られて視察交流をしていただくことを念願しています」と応じた。

  当協会にとって、今回のような形の意向書調印は大変珍しい。しかも、国直轄の巨大都市と政令市とは言うものの地方都市。
  それだけに、意向書の内容にもあるように、様々な分野で具体的に交流が実現していくよう、当協会として果たすべき役割は少なからぬものがある。 (松井記)

 
岡山市民訪問団  満開の牡丹を満喫
洛陽空港に着いた一行

  市民訪問団は、片山会長を団長とする17名の会員や市民で構成。洛陽市では、満開の牡丹の観賞や協会が9年間継続している黄河沿いの緑化協力活動への参加、洛陽市政府主催歓迎行事への出席、そして協会のカウンターパートである洛陽市人民対外友好協会との懇談会等の交流活動に参加した。

  牡丹祭は、洛陽国際牡丹園を中心に洛陽市内全域で開かれており大賑わい。メイン会場の王城公園、国華牡丹園、市内道路の街路樹など洛陽市内は牡丹が一斉に開花し華やかな雰囲気に包まれていた。

  植樹は孟津県白鶴鎮で行われた。植樹したのは女貞(クロガネモチ)で地元農民や孟津県林業局、白鶴鎮政府職員らと約300本を植樹した。

  洛陽市表敬訪問と歓迎夕食会は、16日夕、洛陽市新区のホテルで開催された。
  洛陽市では、李柳身市長が転任し新たに鮑常勇氏が新市長に就任予定だが現在の肩書きは「代理市長」とのことで、今回は国際交流担当の王敬林副市長が対応。
  王副市長の歓迎挨拶の後岡山市からの公式訪問団団長の横山忠弘副市長が答礼挨拶を行った。
  洛陽市人民対外友好協会歓迎交流昼食会は、17日行われ、劉典立会長、王綉副会長、そして昨秋芸術交流訪日団で来日した古琴学会の楊紅会長らが参加し交流を深めた。 
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旭川荘名誉理事長 岡山市日中友好協会顧問
        江草安彦氏が逝去(88)
                       先駆的に障害児らの療育を推進
   

ありし日の江草氏
県日中教育交流協議会
記念講演(2009年11月)
  旭川荘名誉理事長で岡山市日中友好協会顧問でもある江草安彦(えぐさ・やすひこ)氏が、2015年3月13日、亡くなった。

  社会福祉に一生を捧げ、国際交流にも貢献した88年だった。「医療と福祉の融合」を推進、障害者や子供、高齢者に常に温かい眼差しを向け見守ってきた。
  笠岡市出身で、岡山医科大付属医学専門部を卒業、川崎病院院長の川崎祐宣氏に請われ、旭川荘の創設に参画。同施設を日本屈指の医療福祉施設に育て上げた。

  日中関係では、川崎氏の薫陶を受け、岡山市日中友好協会設立に参加、赤木五郎会長の元で副会長を務めた。第一回「福祉の翼」訪中では団長として上海を訪問。

  その後も中国との交流は続き、上海市から「白玉蘭」賞や「栄誉市民」称号を、また国レベルでも「中国人民友誼貢献賞」を受けている。
 
 江草先生  安らかに
【江草安彦先生を偲ぶ】
      こみあげて来る悲しさ   「もっと努力せよ」の声
                        
岡山市日中友好協会 専務理事 松井三平

  2015年(平成27年)3月13日、旭川荘名誉理事長、江草安彦先生が亡くなられた。88歳の生涯だった。
  同16日、岡山・天神町のカトリック教会で江草先生のお通夜が開かれた。
  讃美歌「いつくしみ深き」を歌いながら、在りし日の先生の面影が思い出され、ついにお別れの時が来たのかと、こみあげてくる悲しさに歌い続けることができなくなっていた。

友好協会設立準備から雇用・生活面の支援も
  先生との出会いは、1970年代の終わりごろだと思う。そのころ頂いた名刺には、旭川荘児童院院長と書かれている。
  岡山市日中友好協会の設立準備をしている時に、賛同人として名前を連ねて頂いた。1981年(昭和56年)の協会設立時に、会長であった赤木五郎氏の強い要望で副会長に就任して頂いた。
  その後、先生はお亡くなりになる今年まで、会費を払い続けて頂いた。準備段階から数えると約40年の間、私は事務局長として、ずっとご指導を頂いてきたことになる。

  先生には、個人的にもお世話になっている。
  私が協会の事務局長として活動し、組織の拡大に奔走していた頃、専従とはいえ給与は月5万円だけ。1980年代の頃でも、5万円は生活費としては全く役に立たない額だった。
  見かねた江草先生が、旭川荘厚生専門学院の非常勤講師を紹介頂き、生活面で支援を頂いた。
  そして、旅行会社アジア・コミュニケーションズを設立した。この会社の設立企画はそもそも江草先生の発想だった。

  1988年(昭和63年)、洛陽市からの要請があり、洛陽市の福祉事情視察をすることとなり、当時当協会の副会長だった三島伯之氏、宗忠神社宮司の黒住忠篤氏、そして江草先生と私の4名が洛陽に赴いた。
  当時、洛陽に空港はなく上海から18時間くらいかけて夜行列車で往復した。
  帰りの列車の中で、4人1部屋のコンパートメントの中で友好協会の運営などについて夜遅くまで話した。
  その時に、江草先生が、今後日中関係が緊密になってくる中で旅行需要は必ず拡大してくる。そこで協会が中心となり旅行会社を作ってはどうかと提案されたのだ。
  皆一同に賛同し、帰国後松井が中心となって設立準備が始まった。そして、1989年12月に(株)アジア・コミュニケーションズが、三島氏を社長に松井が代表権のある専務に就任し産声を上げた。

「福祉の翼」実現に熱意と強烈な指導力
  ある時、江草先生から障害者が海外旅行に行けないかとのご相談があり、上海市の人民対外友好協会に受入れ打診をした結果、障害者関係をつかさどる民政局と協力して熱烈に歓迎しますとの回答がきた。それが1990年(平成2年)の第一回「福祉の翼」訪中団だった。

  主催は旭川荘と岡山市日中友好協会、後援は県や市、社会福祉協議会、黒住教等、そして旅行会社はアジア・コミュニケーションズという実施体制ができた。
  当時は岡山空港から中国への直行便がなかったため、障害者の利便性も配慮してチャーターした。
  140人乗りのMD82機だった。空港エプロンで開かれた出発式の様子は今でもはっきり覚えている。
  この「福祉の翼」はその後20年間20回まで、毎年実施され、友好交流史上、金字塔をうち立てることとなった。

  反日、サーズ、領土問題など様々な困難に対し「こういう時期だからこそ実施すべきだ」と決断し継続して来られた。これも江草先生の日中友好への熱意と強烈な指導力なしにはあり得なかった。
  この「福祉の翼」だけでなく、視察団や研修生受け入れなど、密接に福祉交流を指導して来られた。ほとんどの訪中の際に同行させて頂き、いろんなお話を伺うのが楽しみだった。

  江草先生のご家族とご一緒したハルビンへの旅行も思いで深い。奥様のお父様がハルビンへ赴任されていたとのことで、その場所へご子息らと同行させて頂いた。
  サッポロビール会社の役員をされていたとかで、今もビール会社として残っている“一面坡”という駅を通り過ぎる時、大変喜んでおられたのが印象的だ。

「甘え」には厳しく感謝してもしきれない
  江草先生には公私とも、どんなに感謝してもしきれないほどの恩を頂いている。
  ただ、数年前に会社の手配ミスにより先生の逆鱗に触れたことがあり、爾来いくらか敷居が高くなっていた。
  今考えてみると、やはり私の「甘え」から生じたことであり、先生はそれを諭されたのだと思った。株主として会社経営には非常に厳しい側面もあり、毎年の株主総会は緊張して迎えていた。
    
  先生のご遺体にお会いした時、先生の貌立ちから、安らかというより、まだやり残したことがあるような感じを受けた。そして「もっと努力せよ」というご指導声が聞こえてくるようだった。
  私は、生涯先生から受けた恩を忘れず、協会運営や会社経営においてもいつも厳しい指導を受けた言葉を思い出しながらこれからの人生を歩みたいと思っている。
  江草先生、ありがとうございました。どうかいつまでも見守ってください。

【民間交流の模範】
     中日友好運動の偉大な旗手 人徳に魅了
 
                         上海市人民対外友好協会 元常務理事 田 穂蓁
江草氏を偲ぶ田氏(上海)

  中日友好運動の偉大な旗手、江草安彦先生のご逝去に悲痛と遺憾の気持ちで胸がいっぱいです。

  ここ100年以来の長い中日友好運動の中に日本、特に岡山から中国の老朋友が輩出されました。
  その代表者といえば、戦前は魯迅先生の友人、内山完造氏、新中国成立後は国交回復の功労者、岡崎嘉平太氏、そして、中国改革開放時代は上海市栄誉市民、江草安彦氏でした。

  私が初めて先生にお目にかかったのは、26年前の1989年(平成元年)でした。
  「津山車椅子マラソン駅伝」の通訳として、馬伊里女史(後に上海市民政局局長)と共に日本を訪問しました。一週間の訪問の中で先生の笑顔が一番印象に残りました。
  あれから、上海から中国の北国、ハルビンまで何十回も訪問、視察、講演に先生をご案内し、また、上海市政府代表団、上海市人民対外友好協会代表団などの友好訪日団でも、岡山で大変お世話になりました。
  その交流の中で、感動的な友好のエピソードが沢山ありますが、ここに2つ紹介させて頂きます。

[草の根の交流]  『福祉の翼』友好訪中団の立役者
  先の車椅子訪日団の期間中、将来に向け、上海と旭川荘の交流について先生、馬さんと私の間の話し合いの中で『福祉の翼』の案がまとまりました。
  つまり、先生は100人による『福祉の翼』を組織し、上海市民政局は上海での福祉交流を担当し、上海市人民対外友好協会は『福祉の翼』を受け入れるという形です。

  翌年、福祉の翼訪中団は計画通りに上海に来られ、当協会のスタッフ一同は先生の人徳に魅了されて、きちんと役割分担をし、会見、宴会、交流、交歓会等それぞれ立派にやってくれました。
  それから身体障害者を南京路散策にも案内しました。すると、ある上海の年配の方が日本の身体障害者の姿を見て「日本の身体障害者はよく上海に来られました。本当に幸せですね、上海の身体障害者はいつ外国に行けるでしょう」と呟いてくれました。

[信頼のしるし]  国家元首級の対応で崇明島の視察
  しかし、あれから、20年して、上海の新聞で上海の目の不自由な方がエジプトのピラミッドも観光していることを知りました。
 すると心ではこれも江草先生のお蔭だと思いました。
  中国の外交儀典では、副市長の案内賓客は国家元首です。先生は長い交流の中で、上海政府や要人に深く信頼されているので、1995年(平成7年)の秋に謝麗娟上海副市長の提案で先生を案内して国賓並で崇明島の視察に出かけました。
  これは上海の外国賓客接待の中で前代未聞の待遇でした。
  一行はわずか5人で、上海側は謝麗娟副市長と私、日本側は先生、そして、板野美佐子常務理事、松井三平専務でした。
  私達は朝からまず車でフェリーの乗り場に着き、それから船に乗り換えました。船内で一行は船長の紹介でこの中古船は元々瀬戸内海フェリーであったことを知り、先生はとても喜んでくださいました。
  崇明島に上陸すると、県の党書記長、県長を始め、大勢の島の幹部に歓迎され、そのまま福祉施設の見学や県庁の会議室での福祉向上の協議を行いました。ハードな一日だったが、忘れ難い視察となりました。

  今、先生は故人となられましたが、しかし、私達は必ず先生の功績を永遠に銘記し、先生の人格を永遠に学ぶでしょう。
                        元上海市人民対外友好協会常務理事 日本処 副処長   
                        元上海市人民政府外事弁公室 友好都市処 副処長
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 友好協会会員、読者アンケートより―
      戦後70年と私
  記憶を記録し
 伝え残すこと
    《1》
「リンゴの歌」に 平和を感じた
                               協会会員 小路広史さん(89=岡山市=
洛陽市長を表敬し、武振国市長と懇談し
握手する筆者(中央、1987年4月) 
 

  昭和20年8月15日、終戦。私は当時20歳だった。10月には「リンゴの歌」が街に流れ、明るい歌声に平和を感じた。
  昭和61年、岡山市日中友好協会に入会、会長は赤木五郎先生、協会新発足5年余、事務局は松井三平氏が奮闘中で、日中関係や洛陽との交流について教わった。
  昭和63年、中国雑誌の普及活動で人民中国雑誌社東京支局長の講演会、中国三誌友の会結成など、松井局長を手伝った事を思い出す。

  洛陽訪問は計9回、市政府の戴保安、方双建、呉小現各氏と親交を深めた。
  当時、日中は蜜月時代で熱列友好だったが、近来の両国関係はギクシャクして和解の糸口は見えない。
  他方、友好団体、経済文化の交流は続くがこのイビツな関係がいい筈がない。
  この事態に岡崎嘉平太氏がご在世ならいち早く犬馬の労を取られたであろう。
  民間人ながら故周恩来首相との熱い信頼と友情、LT貿易の推進等中国に貢献、中国では「井戸を掘った人を忘れない」と、正に岡崎氏をおろそかには扱わないだろう。ご逝去が惜しまれる。

  昭和63年、岡崎嘉平太訪中団に参加。北京では中日友好協会、孫平化会長の歓迎宴が人民大会堂であり、団員も招待の幸運を得た。
  翌日、岡崎嘉平太氏に面会し人民中国雑誌社編集長の安淑渠氏から託された贈り物をお渡しした。
  以前に岡崎氏と安編集長の対談があり、後日に人民中国誌に登載された。岡崎氏は私に日中友好の大切さを諄々と教えられ最後に日中友好を頼むよ、と新米理事の私に暖かい言葉を頂いた。今も忘れていない。
  過日、岡崎氏の元秘書の金光貞治氏(訪中団に同行した)から岡崎氏の日中友好への事跡を知らされ、ご在世であれば両国のもつれた糸をほぐすべく残された名言「信はたて糸愛は横糸、織りなせ世を美しく」のとおり、日中和解に尽力されたことであろう。

 残された名言どおり信頼と愛情によって両国の官民共に揃っての交流が実現するよう念願している。
 協会では、過去の活動記録である記念誌を、十五年誌、二十年誌、二十五年誌の三冊、故人となられた岡本拓雄副会長と共に手掛けた。
 私がワープロを使って編集したことを思い出す。

街角の傷痍軍人や残留孤児に想い
                            協会会員 洞 富美男さん(62)=東京都=
文物展開催準備で訪中した筆者
(左から2人目、2015年4月北京
 

  私は戦後生まれです。
  幼いころ、時々見かける傷痍軍人の恰好をした人が街角に立ち、物乞いをしているのを見かけたのが、戦争の実感と言えるものでした。

  しかし、現在、仕事の関係で、いわゆる残留孤児、またはその二世の方々と知り合うことがあります。
  お話をうかがうと、終戦のどさくさと、その後の中国での暮らしを聞くと、戦争というのは、ただ単に人間が殺し合うだけではなく、何十年に渡って暗い影を引きずるものなのだと知らされます。
  国策として行われた満州開拓。しかし、終戦時、国民を守るべき軍隊は無く、生死をかけた逃避行は続き、多くの帰国できない人が中国に残る。また、その後中国での暮らしは、常に〝日本鬼〟の子と言われ、特に文革時代はビクビクしながら生活していたそうです。

  私の知る残留孤児の方々は、大なり小なり同じような経験をしておられた。振り返って70年経った今、また新たな問題も起きている。
  つまり、やっと念願かなって祖国の土を踏み、日本での生活が始まるのですが、長年中国で暮らした彼らは、言葉も習慣も中国なので、なかなか周囲に受け入れてもらえず、孤立してしまう方もいます。
  大勢の親族を連れ帰り、近隣との軋轢を生んでいることもあります。しかし彼らが何をしたというのでしょうか。
  戦前、満蒙開拓五族協和と国にそそのかされ、終戦と同時、日本に見捨てられ、中国で日本の責任を一身に受け差別され、やっとの思いで日本に帰れば、中国人として見られ、阻害され、彼らはいったい何者なのでしょうか。

  私と同い年の残留孤児二世の友人は、学校の帰り道で、みんなに〝小日本〟と石を投げられ、道端の木の皮をかじりながら暮らしたと聞きました。
  同じころ、私は特需景気に沸く日本で、消費に溢れる生活をしていた。戦後70年と言っても、まだまだ戦争は終わっていないような気がします。いや、むしろ戦争とは、本来そうしたものなのでしょう。
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【長崎研修】
「ランタンフェスティバル」と長崎・中国の交流史を

           探訪する旅(3月2・3日)に参加して

                                             副会長
 土井章弘
長崎沖の端島(通称・軍艦島)。海底炭坑跡の廃墟

中国との交流史と賑わいを学ぶ
  岡山市日中友好協会の片山浩子会長を団長とする総勢17名は、3月2日、九州新幹線に直結する「さくら」で岡山駅から午前8時3分、長崎研修の旅に出発した。
  江戸時代、鎖国政策がとられていて世界への窓口は長崎の出島に限られていた。当時、長崎は出島という小さな窓口から世界とつながった特別な場所である。

  長崎に到着後、早速「ちゃんぽん」発祥の地、四海楼にて昼食。午後は、孔子廟や崇福寺を訪ねた。
 崇福寺の創建は寛永6年(1629年)である。長崎に在留していた福州人たちが、古郷の福州の僧、超然を迎えて寺を造った。
  本堂は国宝となっている。媽祖堂には往時唐船の船主が海上祈願のために海の神様(媽祖)を祭っている。
  今回の目玉である「長崎中国交流セミナー」で、陳東華先生(松井三平専務の友人)から日中交流史の話しを伺った。

  陳先生は長崎に定住して4代目、家庭料理は母親、北京語で育つ。長崎は漁村から発展した街であり、海外との交流史に彩られている。
  カトリック系キリスト教の布教が広まり、江戸幕府は周りの国々がキリスト教の国(スペインやポルトガル)によって支配されていると耳にし、キリスト教諸国からの侵略を恐れ、キリスト教を禁止する。
  やがて天草の乱が起こる。ポルトガルが関係したとして、貿易は長崎の出島に移って、ポルトガルからプロテスタン系のオランダに代わった。

  西洋との交易は1641年に出島にて始まって、1851年までの約200年間、対オランダ貿易が行われた。
  中国との交易は盛んで、出島が開設されて50年後に唐人屋敷ができる。清は日本に銅を求める。
  船は3日に一度入って来て50日間宿泊する。水夫など2千人から3千人が宿泊する。街は賑わったに相違ない。
  これが180年間続く。鎖国は日本人が出てはいけないが、外国人は入ってくる。そこから幕府は海外情報を得ていた。

  唐人の墓も残っているが、主に水夫の墓で、中国の高官の死の場合は本国に連れて帰った。1879年に勝海舟が長崎でアメリカ大統領を経験したグラント将軍を接待したのもお寺であった。(そのお寺は原爆で消滅)
  1689年に作成された唐人屋敷の唐館絵図がロンドンにあったとのこと。蛇踊、ペーロン(福建語・精霊流しの原型)などが中国との交流の文化遺産として残っている。
  清の時代には陳東華先生の祖父等華僑が孫文を支え、孫文と宮崎滔天(革命家、浪曲師)との長崎での集合写真を紹介された。

街中を彩る大小15,000個のランタン
  中国の旧正月「春節祭」を起源にしているランタン祭りにいく。提灯が町中を照らし多くの人で賑わっていた。
  初めは、華僑のコミュニティーで行われていたが、祭りに長崎市民も参加し、行政も後押しして全国的にも有名になり、全国から多くの観光客が訪れている。
  街中を彩る大小1万5千個とも言われるランタンは来年も使用するとのこと。中国との長崎を通じての深い歴史をまさに探訪する旅となった。

  2日目には、120年以上の歴史を持つ老舗料亭「坂本屋」にて長崎ならではの卓袱(しっぽく)料理を堪能した。
 長崎での中国との交流の歴史から多くの学びを得た貴重な研修旅行であった。

◎長崎にて◎

どっぺりの有明海や浅き春
長崎の午睡の夢や涯千里
民交流政府に言うてきかせんか
長崎や過去ある街の雨しきり
                 (宮本光研副会長) 
楊曾葳墨跡書画展
黒井山グリーンパークゆうゆう交流館

  「東洋の美の心を愉しむ」と題した楊曾葳とその師生たちの墨跡書画展が、3月20日から10日間、瀬戸内市邑久町虫明の岡山ブルーライン・黒井山グリーンパークゆうゆう交流館で開かれた。
  会場には、楊曾葳氏の作品を中心にそのお弟子さん等の書画約50点がズラリ。地元の愛好家を交えた交流揮毫も行われ、会期中約1,500人の来場者で賑わった。

  楊氏は中国で名だたる書画芸術家で、北京在住で71歳と高齢ながら、師生の指導や親善交流活動と取り組んでいる。
  同所での書画展は今回で9回目となり、毎年訪れるファンも多い。来年は10回目となるため、今回と同様春に、記念イベントも計画する方針。

活動日誌
  3/ 2…岡山市日中友好協会親睦研修旅行・長崎ランタン祭り(~3/3)
  3/11…日中友好座談会(大阪総領事館)
  3/12…ワールドオプティカルカレッジ卒業式
  3/12…三誌友の会例会
  3/17…岡山外語学院卒業式(外語学院)
  3/18…協会理事会
  3/22…中国語検定試験(ビジネスカレッジ)
  3/26…仮認定NPO法人認可
  3/30…岡山市民訪問団結団式及び旅行説明会(協会事務所)
  4/ 4…岡山後楽館高校中国語講師祁潔(きけつ)さん来岡(岡山空港)
  4/ 9…協会会報編集会議(協会事務所)
  4/ 9…三誌友の会例会
  4/11…瀬戸内日中友好卓球交流会編集委員会(協会)
  4/15…岡山市民友好訪問団17名、洛陽牡丹祭りと天津を訪問

先憂後楽
  洛陽と天津を4泊5日で回った。岡山から上海経由で空路洛陽へ、洛陽からは北京経由で陸路天津へと、乗り継ぎの時間が結構長い。それでも、30年前から考えると随分速く移動が出来るようになった。以前は洛陽まで、上海から夜行列車で17時間くらいかかっていたのだから

  この30数年間の間に、日中交流はどのように変わってきたか、ゆっくり検証してみる価値はある。特に、民間の友好活動はどういう変遷をたどってきて、これからどうあるべきなのかを真剣に考える時期に来ている

  今回、協会は天津市対外友好協会との交流協定を結んだ。セレモニーの場とは別に、担当者と突っ込んだ話し合いを持った。日中関係が必ずしも良くないのは、一総理の問題だけではない。国民の中に反日や反中の意識が高くなっている中で、問われているのは民間の友好交流団体の活動だ。総理だけを批判していても前に進まない。具体的にやろうよと

  天津は人口1,472万人(2004年中国統計局から)の巨大都市である。対する岡山市は約70万人、経済規模でも大きな差がある。また、相手は純然たる政府、こちらは地方のNPО団体。対等に交流は出来ない。しかし、細かく分野ごとに考えればやれることはいっぱいある。私たちの協会の良いところは、徹底した大衆路線にある。そのスタンスで団体や人を結びつける架け橋の役割をさらに発揮し、日中友好を深く広く推し進めていきたい。  (松)  


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