岡山と中国 /戦/後/70/年/
2015年6月
平成27年6月
  233号

発行人 片山浩子
編集人 松井三平
特 集 友好協会会員、読者アンケートより―  戦後70年と私     記憶を記録し
 伝え残すこと
    《2》
焼夷弾雨あられ  母の背中で命拾い
                  
協会理事 天野勝昭さん(70) =岡山市=  
天野さん

  昭和20年3月生まれの私にとって、戦後〇〇年という表現では“〇〇”の数字は常に私の年齢と一致しており、その都度、生後間もない時の岡山大空襲について親等から聞いた話を思い出す。

  母校である旧弘西小学校(現在の中央小学校の場所)の鉄筋コンクリ―ト造りの校舎の外壁に黒く塗られた跡があったのは、空襲を予想して目立たないように黒く塗っていたためとか、住んでいる弓之町の北の番町にある「疎開道路」と言われる少し広い直線道路は、住宅密集地で空襲時に延焼を食い止める防火帯にするため、強制的に建物を撤去して造られたものと言われている。

  昭和20年6月29日未明の岡山大空襲の地獄絵は、さまざまな形で語り継がれている。
 我家の状況については両親からも存命中に詳しいことは聞かされていないが、その時に父は警防団の仕事で不在だった。
 後楽園に近い弓之町の我家では、焼夷弾が雨あられと降る中を母は生後3か月の私を背負い紐で背中に負ぶって、8歳の姉の手を引いて一目散に後楽園の東方面へ必死に逃げたという。
 その途中で姉と私は生死を分けるような目に遭っている。姉は焼夷弾の破片の直撃を受け、布団を被っていたが肩のあたりに火傷を負い、ケロイド状の傷痕を残している。

空襲で焼け野原になった岡山市街。戦後岡山の原点

  私は、母が慌てて背負ったためか背負い紐がうまく止められておらず、のけ反るような形で落下寸前のところを後ろから逃げていた人(どなたか判らない)が咄嗟に押さえてくれ、そのお蔭で落下せずに命拾いした。

  落下していたら確実に踏み殺されていたと思う。その方がいなかったら私はこの世にはいない。

  戦後の岡山の復興、発展は正に私の人生の歩みと重なっていると言えるのではないか。改めて平和の尊さを考えていきたい。
 
新京で玉音放送 大人は皆泣いた
                     協会会員 池田武久さん(78) =岡山市=
満州生まれの池田さん。
訪中には必ずハモニカを携帯。
「音楽は人を和ませる」−。
  中国の丹東の生まれの私は、当時9歳でした。
  1945年8月15日は、長春(当時・新京)の我が家で一家4人と近所の人達と正午からの玉音放送を聞き、日本が負けたことを子供心にも判った。
  大人は皆泣いたが子供だった私は泣かなかったように思います。

  この日から辺りは不穏となり、どのくらいの期間か判りませんが毎晩夜になると貧しい満人(当時の呼称)が集団で日本人の家を襲い、やられた家は風呂場の灰までもって行かれました。
 日本人は引き揚げるまで人それぞれ違うが相当の苦労が続きました。                      〇  
  私は、昭和21年10月、敗戦後約1年3ヶ月で幸いにも幾多の幸運に恵まれて一家全員無事に父の郷里、久米郡久米町に引き揚げました。
 10歳と5ヶ月でした。

  敗戦から帰国迄1年3ヶ月間、全く学校に行けなかった私は、帰国後留年せず小学校4年生の2学期に復学したのですが、算数など授業が全く分からず子ども心にもずいぶん苦労したものです。

  一方、在満財産を全て失った上に、農地改革により田畠も僅か6反しかなく、それも帰国した時は父の姉弟たちの手にあり、我が一家は、父が長男でありながらまるで居候状態で生活は悲惨でした。
  しかし、この間約1年余、学校まで冬は雪のある道を藁草履で約2キロメートル、歩いて通った田舎の生活は、ひ弱だった私には体力向上に役立ったようです。

  1年後、父が岡山に職を得てからは生活も少しずつ改善し、私も人並みの教育を受けることが出来ました。この間の両親の努力は並大抵ではなかったと心から感謝しています。
  そうして平成10年、一切の仕事を卒業して大阪から岡山へ帰りました。
  岡山では、長年病院生活をしていた母を日々見舞うことと、高校の同期との交友と勧められてフランス発祥の球技のペタンクをすることで過ごしました。

  平成15年、私が学業と仕事で岡山を離れていた40年間ずっと母の面倒を診てもらっていた大恩ある義兄に誘われて、岡山市日中友好協会催行の洛陽訪問旅行に一緒に参加しました。
  これによって、満州生まれの私は中国を思う念に火が付き、それ以来、協会の旅行は勿論、安東会(現・丹東=出生地)や長春会(敗戦時の居住地)の旅行や、時に個人旅行もして毎年数回中国へ行くようになりました。
  この間私は、中国からの留学生等と交友するようになり、中には家族同士の付き合いをしています。ですから中国には何時でも熱烈歓迎してくれる中国人が各地にいます。
  今日私は、ささやかながら日中友好のために訪中旅行には常にハーモニカを携帯しています。  音楽は人を和ませます。
 
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異国で知る戦後  晒の布に武運長久
                     協会会員 仁科民子さん(66) =岡山市=
特攻機の模型

  今年の3月末から3週間余り、オーストラリアで第二子を出産する娘の手助けに、ニューカッスルから北へ30キロほどの、レイモンドテラスという小さな街に滞在しました。

  その近くに、戦闘機の博物館があり、戦争当時のものから、ごく最近のものまで、操縦席やエンジンなどが展示してありました。
  その一角のケースの中に、翼に日の丸のついた30センチほどの特攻機の模型があり、「Mitsubishi A6Mzero」と表示してあります。
  のぞいて見ると兵士のかぶっていた国防色の、フチに毛のついた帽子というか頭布というか、ヘルメットと表示したものとゴーグル。晒の布の四すみに「武運長久」と書いて、虎の姿を縫いとった千人針。

  そしてもう一つ、遥かオーストラリアの地に攻め入り、取り残された兵隊さんたちにまかれた「日本軍将兵諸君」というビラが並んでいます。
  ビラには『つくすべきをつくし、方策つきたというのが諸君の実感であろう。今死ぬのは全くの無益の死である。当方に来て戦後の日本の為に一働きする道を選ぶべきである。その道を選べば、交戦地域よりオーストラリア
オーストラリアでまかれた降伏呼び掛けビラ。
取り残された兵士がこれをどう読んだか 
(レイモンドテラスの博物館)


 
の収容所、病院に移される。』という内容のことが、漢字とカタカナで記されていました。

  カウラという街の収容所跡に、墓地と日本庭園が整備されていて、岡山では山陽女子高校の方が交流していらっしゃると報道で、また、ゼロ戦の兵士の姿など映画やテレビで知るのみと思っていましたが、現代の飛行機で9時間を要する異国で目にするとは思いがけないことでした。

  オーストラリアには、「日本人は卵を投げつけられるので外出しないで」という、日本が空爆した日が残っているそうで、70年はまだ短いと思い知った今年、66歳です。

  
女学生の私にも  「青酸カリ」一包
                            協会会員 則次美弥子さん(84) =岡山市=

  戦争末期の満州は無政府状態だった。軍隊町だった公主嶺の各種部隊は既に撤退。その上、8月9日ソ連軍参戦以降は不穏な空気に一気に包まれた。
  私達はこれが最後だという帰国列車に乗ったが、正午の重大放送を家で聞くように言われて下車。玉音放送は雑音に消されながら敗戦を告げるものだった。

  その後、町に入ったソ連軍の物欲と色欲、中国の八路軍と国府軍の内戦に私達は逃げ回った。
  加えて中国暴民による略奪が既に空き屋の軍官舎から始まり、私達は町の中心部にある酒造大倉庫に集結した。
  父達日本人会の代表団は、昼は町の様子を見守り、中国人民政府の関係者や土地の有力者に話をして回っていた。

  婦女子には、まさかの時にと渡された物は青酸カリの一包。女学校3年生の私には重すぎた。
  引揚げ後、敗戦に係わる本を読み漁り、混迍を極めた当時を少しは理解することができた。
涙の対面(左端筆者、昭和58年)

  時は流れ生まれ育った公主嶺を訪れた。1回目は涙の対面。町の様子は昔のままだった。幼友達やその家族、クーニャンは「美弥ちゃんの所で又働きたいよ」。私達は抱き合って泣いた。

  2回目は歓びの再会。友人達が親族と共に多勢迎えてくれた。乾杯!。日本語の達者な1人は文革時代は大変だったという。

  3回目は納得の旅。町の様相は一変。その躍進ぶりに中国の逞しさと人海戦術の凄さを改めて思い知らされた。
  タクシーで郊外を回った。日本人墓地跡にお参りし、騎兵隊に守られて遠足に行った公主廟も遠望でき、広大な風景にも出合い、心洗われて旅は終わった。

  満蒙開拓平和記念館が昨年長野県に設立された。
  10冊に近い本を一気に読破。筆舌に尽し難い辛苦を忖度し感激。語るのに70年に近い歳月を必要とし、長期にわたる収録だった。国の政策だったとはいえ悲しい終末だ。

  戦争を知らないものが戦争への道を探ろうともしない。知覧特攻平和会館を知らないものが尊い生命を粗末にする。どこかで歯車が噛み合わないまま動こうとする不安。
  「教え子を再び戦場へ送るな」。これは私が属する会の信条であり、私の信念でもある。

 
写真で見る戦後70年 そして日中交流 ―  

県庁に三木知事を訪問した
内山完造氏(71歳)=右端=。
戦後の日中交流の最初の架け橋となった
(昭和31年3月)
シベリアからの引揚げ問題の「引揚促進緊急県民大会」。 
戦後処理が続いていた(昭和31年5月)

























中国科学院学術視察団の団長として来岡した郭沫若氏=中央=。
後楽園を散策し、これが「丹頂」寄贈に繋がった(昭和30年12月)
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「范曾美術館」(岡山)設立31年
 范曾氏76歳溌剌颯爽 天津で松井理事らと再会
      ○ ローマで7月に范曾展覧会を開催 ○
       ○ 来春にも岡山訪問の意向を表明 ○
 

南開大学に作品を寄贈した范曾氏(左端、贈呈式で)
  2015年1月のことだった。就実大学と南開大学との学部間交流協定調印のために、協会訪問団として天津を訪問した。
  その時、南開大学国際交流処の歓迎宴があり、席上、高海燕処長が、明日范曾氏に会いに北京へ行くとの話が出た。

  確認したところ、4月末に開かれる南開大学東方芸術学部の新校舎竣工式に、范曾氏が来て作品贈呈式と特別講演を予定しているとのこと。
  日時が決まったら知らせるとともに協会に招聘状を送ると約束された。

  その竣工式の日程が4月25日と決まり、岡山からは松井が、東京から天津飯店の経営者で、天津市名誉市民の王克昌氏の孫にあたる貝塚大祐氏が参加した。

  王克昌氏は天津市の出身で、日本で中華料理店・天津飯店を開業し成功。個人財産1億円を寄付し「王克昌奨学財団」を天津に設立し、これまでに1万人以上の天津市内の大学生が海外留学などで奨学金を受けている。
 初代の理事長には范曾氏が就任していた。

  私は、4月24日に天津に入り、予定では、午後会見するということだったが、急遽、夜に食事をご一緒にということになった。
  そして、南開大学正面のホテルレストランで、范曾氏との再会が果たせた。
  実に30年ぶりの再会だった。岡山で范曾美術館を設立したのが1984年3月で、その時范曾氏は壮年の46歳だった。
30年ぶりに再会した范曾氏(右)と松井理事
  再会した范曾氏は76歳。白髪であったが、健康そうな面立ちで、中山服のような洋服を着て、以前と同じように毅然としていた。

  会食は范曾氏が主催し、南開大学の党書記と国際交流処の高処長が同席し、貝塚氏と松井が招かれた。
  范曾氏は30年前のことを鮮明に覚えていて、世界で一つしかない「范曾美術館」設立に岡山市日中友好協会が大きな役割を果たしたと挨拶。
  そして、最近の活動などを披露した。習近平総書記が韓国の朴大統領に贈呈したものが范曾氏の作品だったことや、イタリア大統領と北京大学で対談し東方芸術に対する期待が寄せられ、6月30日からローマで范曽展覧会が開催されることを明らかにした。

  私は一般的な挨拶とともに、崇高な志操を持った范曾氏の芸術が日中のみならず世界的な広がりで広がっていくことに敬意を表し、今後とも大きな貢献をしていただけることを期待していると挨拶した。
  宴が終わるころ、范曾氏からローマでの展示会はイタリア大統領が出席して行われる予定で、日本からも参加しないかとのおさそいを受けた。

  その後、正式なインビテーションが届き、協会からも参加することが決定。その展示会終了後、岡山を訪問したいとの意向が伝えられた。
  1984年に、様々な困難を乗り越えて岡山にオープンした范曽美術館を、日中文化交流のみならず東方芸術のシンボルとして生かして行くために、大きな期待が寄せられている。

〝イオン幸せの黄色いレシート〟キャンペーン
         毎月11日、レシートは当協会BOXへ
 
イオン岡山店1階の当協会ボックス。
11日~13日に開設
  流通大手のイオングループが取り組んでいる「黄色いレシートキャンペーン」の寄付金贈呈式が、5月19日、イオンモール岡山一階未来スクエアで行われ、当協会も寄付金を受け取った。
  これは、同グループ店舗で買い物をした時の黄色いレシートを集めることにより、その相当額の1パーセント分を参加団体側にバック(寄付)してもらうキャンペーン。

  当協会分、今回は、約5万円分が集まり、1パーセント相当額の5百円のギフトカードを受け取った。
 キャンペーンは、毎月11日にイオングループ(イオン、山陽マルナカなど)各店で行われており、各店の黄色いレシートは、イオンモール岡山の一階イオン岡山店食品売り場レジ前にある各団体別のボックスに入れればよい。
  ご協力をお願いします。
 
’15岡山市友好訪問団
                  =2015.4 洛陽・天津・上海=  
洛陽緑化事業の植樹式開幕
洛陽古琴学会の歓迎昼食会
洛陽副市長と乾杯















天津・海河遊覧クルーズ
上海新名所「田子坊」
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□ 岡山・香川日中卓球交流 □
   青島市から小中学生一行
         8月末に来日し交流試合
 
  瀬戸内日中友好卓球交流会は昨年3月、青島市卓球運動協会と協定書を交し、岡山・香川の小中学生を青島に派遣、第1回の卓球交流を行った。
  今年はいよいよ青島市卓球運動協会の友好訪問団を迎える年であり、既にそのスケジュール調整に入っている。
  現在のところ、8月25日~31日の1週間を予定しており、青島側の参加者もほぼ固まったようだ。

  26日から2日間は香川の小中学生と練習、交流試合などを行った後、28日は移動日で、香川・岡山の観光やショッピングを楽しむ。
  29日から2日間は同じく岡山の小中学生と交流する予定だ。

  青島市は中国でも卓球の盛んな地域の一つ。今年4月、中国蘇州で開催された世界卓球でも、中国代表として男子では元世界チャンピオンで今回シングルス3位だった張継科、女子では混合ダブルスに出場した陳夢が青島出身だ。
  特に陳夢はいずれ世界チャンピオンになるだろうと見られている大器だが、彼女は青島市卓球運動協会の董熙副会長が育てた選手だ。

  昨年、青島に派遣された選手達もこの1年で大きく成長し、国内の大会でそれぞれ優秀な成績を上げている。   その董熙氏率いる友好訪問団を迎えるに当たり同交流会関係者も万全の体制で準備を進めている。

  同交流会では、より多くの当地域の小中学生が中国の選手達との交流を通じて刺激を受け、卓球の技術向上につなげると同時に、言葉の壁を乗り越えてコミュニケーションを図ることにより、日中友好、ひいては国際人としての成長に繋がることを期待している。 (瀬戸内日中友好卓球交流会、国定剛・記)

岡山商科大学 創立50周年記念式典
         片山浩子会長が出席

  岡山商科大学(井尻昭夫学長)の創立50周年記念式典と同祝賀会が、5月23日、岡山市の岡山プラザホテルで開かれた。
  式典には、県内の行政、教育、経済界関係者等約480人が出席。50周年を祝った。当協会からは、片山浩子会長が出席した。
  この他、大学の発展に寄与した20人に感謝状が贈られ、祝賀会では卒業生らも含めて賑やかに懇談した。

ネパール地震募金
        高木理事ら呼掛け
岡山駅地下通路の共同募金

  岡山駅地下通路で岡山県国際交流団体協議会の呼びかけで、5月9日、ネパール地震救援募金が行われた。
  当協会から高木文彦理事と松井三平専務理事が参加した。

  ネパールでは、4月25日に発生した地震によって、建物の倒壊、雪崩、土砂災害などにより甚大な被害が発生し、8千人以上の犠牲者が出ている。

  この地震救援のために共同して募金活動をすることが呼びかけられ、協会も参加団体として協力した。
  当日は、岡山学芸館高校や山陽女子高校の生徒ら多くの団体も募金活動をしており、大きな声を上げネパールへの支援を訴えた。
 

田口光代さんを偲ぶ
   報恩胸に夫妻で親身の交流
                 岡山市日中友好協会 専務理事 松井三平
ありし日の光代さん

  平成27年6月17日、田口光代さんが逝去された。
  田口さんは、ご主人の克巳氏(故人)とともに、河南省信陽市と新見市との友好都市縁組締結に尽力された。  両市は平成4年に正式に友好都市となり、書道交流や青少年交流など交流を継続している。

  光代さんは、信陽市の貧困児童への奨学金(日中教育交流基金)設立や中学校への図書館寄贈などの業績が評価され、平成14年に信陽市溮河区(市が行政変更で溮河区になった)の栄誉区民賞を受賞されている。

  克巳さんは、戦時中病に倒れて動けなくなっていたところを信陽の青年に助けられ、敵地である日本軍の陣営にまで運んでもらい、命が救われたことに対し、その青年を探したいという思いとその行為に感謝し恩に報いたいという気持ちから、信陽市との交流につながった。

  当時、新見市に、岡山県の出先である阿新地方振興局があり、その局長であった難波一進氏に友好縁組のことを相談。
 当時の福田正彦新見市長に働きかけ、事前調査団の派遣や受入れを繰り返し、民間団体として新陽会が設立され小学生交流が始まるなど交流が深まり友好都市締結への機運が高まっていった。
 この間夫妻は、頻繁に新見市を訪れ各方面への働きかけを精力的に行い、私も何度か同行させていただいた。これらはすべて手弁当だった。

  協会が、まだ富田町に事務所があったころ、何度も事務所に足を運ばれ、中国旅行のことや戦争体験などについて熱心に語られていた。
  お茶も出せない殺風景な事務所だったため、湯沸しポットを寄付してくださるなど、たいへん気遣いもいただいた。
  創業された五洋工業を、岡山を代表する水道設備会社に育てられ、現在ご子息やお孫さんが事業を継承し繁栄されている。
  そして、協会設立以来の賛助会員としてご支援をいただいている。

  この8月末には、信陽市から中学生が新見を訪問し青少年交流を実施する。田口さんの蒔かれた友好の種は着実に芽を出し花を咲かせている。

  田口さん、本当にお世話になり、ありがとうございました。安らかにお眠りください。

 
活動日誌
 5/ 9…ネパール募金活動(岡山駅地下、高木理事、松井理事)
 5/10…莫邦富氏会見(天津飯店。黒住副会長、松井専務理事)
 5/12…黒住教吉備楽小野楽長に会見(宗忠神社、黒住副会長、松井専務理事)
 5/15…両備文化振興財団理事長小嶋光信氏会見
       (両備ホールディングス、片山会長、黒住副会長、松井専務理事)
 5/16…県日中教育交流協議会総会(県生涯学習センター)
 5/19…イオン・イエローキャンペーン贈呈式(猪木理事)
 5/23…岡山商科大学開学50周年式典(片山会長)
 5/26…岡山市民訪問団写真交換会。親睦会(上海料理「梅蘭」)
 5/27…協会第3回理事会 6/10…県日中懇話会理事会(松井専務理事)
 6/11…三誌友の会例会(ピュアリティまきび)
 6/11…会報「岡山と中国」編集委員会(協会)
 6/12…FMおかやまドリームトーク出演(松井専務理事)

先憂後楽

  田口光代さんが逝去され、中国信陽市から多くの弔電が届いた。中国共産党委員会、政府、人民代表大会、政治協商会議、外事弁公室など、正に信陽市を代表しての礼儀はこれまで経験したことがない。組織だけでなく、次々と個人の弔電が届き喪主の田口誠さんにお送りした。それぞれの文も田口さんの日中友好への偉業に敬意と感謝の言葉であふれていた。.

  中国の人は熱いなあと感じた。社交辞令という言葉があるが、そんな感じは微塵もしない、心からの言葉であふれていた。翻って、私はどうだろう、お世話になった中国の人が亡くなってどれほどの気持ちが表せただろうかと反省した。

  言葉といえば先日、岡山旭東病院の土井章弘院長より「ハガキ道に生きる」という坂田道信さんの講演録をいただいた。本の中にはハガキを書くことによってどれだけの効果が得られるか、即物的なものでなく、心の充足や自分を磨くことなど〝ハガキ道〟の中身が綴られている。坂田さんは毎日30通、年間1万通のハガキを書くことを実践しておられるという。

  これは「複写ハガキ」という方法で、書いた内容を残しておき、後からでも確認できるようにするのが特徴。メールやSNSで簡単にしかも即座に世界中にメッセージを送れる世の中で、文字を書いて送るという行為に人と人の本来のつながりを感じる。無理のない程度に実践していきたいと思う。   (松)


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