/戦/後/70/年/
2015年10月
平成27年10月
  235号

発行人 片山浩子
編集人 松井三平
天津市人民対外友好協会と交流開始
                岡山で9月17日 交流協定に調印 
大森岡山市長を表敬訪問

協定書調印を終えて(ANAクラウンプラザホテル)
  陳衛明天津市人民対外友好協会副会長を団長とする天津市友好訪問団4人が、9月17日、東京経由で岡山に到着した。
  岡山駅には、片山浩子会長はじめ協会役員ら4人が出迎え歓迎した。

  訪問団は、陳副会長の他、張鐸友好協会連絡第二処長、王燕天津市婦女連合会組織連絡処副処長、郭志剛天津市胸科医院院長の4人で、早速岡山の市役所や友好団体など関係者と熱心に交流した。

  一行は、同日、宿泊先のANAクラウンプラザホテルにて昼食会を済ませたあと、岡山市日中友好協会と天津市対外友好協会との友好交流協定書の調印式に臨んだ。
  調印式では、片山会長と陳副会長が日本文と中国文にそれぞれ署名した。
  この協定書調印は、今年4月に岡山市民友好訪問団が天津で交わした「友好交流意向書」に基づき交わされたもの。
  今後、両市友好協会の関係は法的拘束力のある正式なものになる。

  中国では、契約が三段階あるという。まず、お互いの交流の意向を確かめ合う「意向書」、その次に「協定書」、そして「合同書」となる。
  しかし、会社契約以外はほとんどが「協定書」までとなっている。このため、この「協定書」締結から法的にも拘束力が出て来るという。

大森市長と懇談する天津市一行(岡山市役所)
  同日は、午後3時に岡山市役所に大森雅夫市長を表敬訪問した。

  大森市長は、歓迎の言葉を述べた後、友人が天津の開発区で化学工場に勤めていたことや、自身も何度か訪問したことがあり、天津を身近に思っていたと話し、今回の大爆発事故を心配していると見舞った。

  これに対し、陳団長は、天津市の概況を説明した後、市長のご心配に感謝し、現在回復が進んでいることと、天津市の発展計画に変更がないことなどについて話した。

岡山市連合婦人会と懇談

岡山市連合婦人会と交流(岡山市役所)
  大森市長表敬の後、一行は岡山市役所内で市連合婦人会の幹部と懇談した。

  市連合婦人会からは、塩見槇子会長を始め、小松原、安井、垪和の3人の副会長が参加した。  
  塩見会長は歓迎の挨拶を述べ、連合婦人会の活動内容について説明した。

  天津市婦女連合会(婦女連)の王燕組織連絡副処長も詳細な活動内容を説明。

  女性の権利を守る活動や家庭内問題へも介入していること、また市政府に対し積極的に政策提言などをしていることなどを紹介した。
  懇談を終えた塩見会長は「とても良い勉強になりました」と感想を述べていた。

歓迎交流会を開催  実質的交流へ抱負  
  夕刻6時半からは、協会主催によりANAホテル一階会場で、歓迎及び交流会が行われた。
  会には、岡山市連合婦人会、岡山県精神科医療センター、岡山ビジネスカレッジ、岡山科学技術専門学校、岡山外語学院そして協会関係者ら約30人が参加した。

  片山会長が歓迎の挨拶を行い、正式に天津市側と交流協定書が締結されたこと、そして本日の歓迎交流会が交流の第一歩となることを期待したいと述べた。
  続いて陳副会長が挨拶に立ち、岡山市の関係者の歓迎に感謝を述べた後、今後実質的な交流を進めたいと抱負を述べた。

  交流会では、岡山県精神科医療センターの関英一医師が「岡山の医療事情について」プレゼンテーション。
中国語を交え、日本の医療制度などを踏まえながら岡山県の医療状況をコンパクトに説明。最後に、岡山の医療の特徴の一つとして日中医療交流に力を入れていることを挙げた。
  続いて岡山外語学院の奥田真弓さんが「専門学校交流」と題して、日本語学校を経て受入れ可能な専門学校への入学の流れを中国語で説明した。
  岡山は東京と比べて物価が安く生活がし易いことなどを説明し、岡山の優位性をアピールした。

スタートした巨大都市・天津との交流

調印後握手する片山会長(右)と陳副会長
  歓迎会では、天野理事の乾杯の音頭のあと、テーブルごとに名刺交換や写真撮影、乾杯を重ねるなど活発な交歓となった。

  今回の訪日メンバーの郭志剛氏が院長をする天津市胸科医院は天津で一番大きな心臓専門病院との事。
  また、郭氏の専門が心臓血管外科ということもあり、心臓病・血管疾患の領域で全国トップレベルの榊原病院を訪問させて頂いた。

  病院では、室山英輝事務長らの案内により、救急外来やヘリポート、リハビリセンター、プールなどを見学。郭医師のみ、許可されて手術室に入り、オペの様子を見学した。

  一行は、18日午後の新幹線で次の訪問地・神戸へ向かい、20日に関西空港から帰国した。
 
  
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日中伝統音楽交流協定を締結
                 吉備楽十六日会・洛陽古琴学会

調印式に臨んだ古琴学会・楊虹会長(左)と吉備楽・小野孝盛楽長。
「鎮守の杜・吉備楽コンサート」も楽しんだ(宗忠神社)
  9月12日、洛陽古琴学会の楊虹会長を団長とする音楽交流訪日団を岡山にお迎えし、吉備楽十六日会と洛陽古琴学会による「日中伝統音楽交流協定」の調印式が行われた。

  これは、昨年秋に洛陽市を代表する伝統音楽や書画の専門家の皆さんが岡山に来られ、雅楽の流れをくむ吉備楽、そして各分野の岡山の芸術家の方々と交流した日中芸術家交流会がきっかけとなったもの。

  この時に吉備楽の演奏や舞いに強い関心を持たれた古琴学会の楊会長から、伝統音楽としての交流を継続したいとの申し出があり、今回の調印につながった。
  この分野での協定は全国的にも珍しい。

  調印式は、協会理事や吉備楽の楽団員の皆さまが見守る中、和やかに行われ、吉備楽十六日会を代表して小野孝盛楽長が「日本の和楽器のルーツでもある中国古典楽器の専門家の皆さまと交流できることは、吉備楽にとっても大いに勉強になります」と挨拶された。

  また、この日夜には、岡山市北区大元にある宗忠神社拝殿前で「鎮守の杜・吉備楽コンサート」が行われた。
  調印を終え、交流の第一歩として洛陽古琴学会の楊会長が友情出演し、3千年の歴史を持つ古琴の調べを披露した。
  演奏前には静かに瞑想し、精神を集中させて舞台に臨むという楊会長の真摯な姿勢には深く感銘を受けた。
  ライトアップされた境内の幻想的な雰囲気に溶け込むような優美な音色は、境内いっぱいに集まった観客を魅了し、吉備楽の雅な舞いで締めくくられたこのコンサートは、日中伝統音楽交流の意義を感じさせる素晴らしいものとなった。

  その後の懇親会では、次は吉備楽が洛陽を訪問してはどうか、という話も出て、これからの文化交流に一層期待が寄せられる。   (黒住昭子記)
 
 
瀬戸内日中友好卓球交流会

 青島から卓球青少年ら来県
               
岡山・香川で親善練習試合

 念願の相互交流がやっと実現  青少年の卓球技術向上にも意義

  瀬戸内日中友好卓球交流会では、8月25日から1週間、中国青島市卓球運動協会が派遣した青少年卓球訪日団総勢12名(うち選手9名)を受入れ、岡山・香川両地域で卓球交流を行った。
 活動開始から3年半、昨年3月には同地域の小中学生を青島に派遣し交流の緒に就いたが、当地で受入れて初めて相互交流が完結する。

  受入れスケジュールを調整する段階で紆余曲折はあったものの、交流会メンバーの熱意が実り、悲願の相互交流がついに実現した。
  初日は、午後8時半頃、台風の影響が心配される中、ほぼ定刻通り岡山空港に到着、熱烈歓迎で出迎えた。
  2日目はまず高松へ移動、途中与島に寄り瀬戸内海の多島美や瀬戸大橋に歓声が上がり、栗林公園では小舟での遊覧や園内散策を楽しんだ。

  午後からはさっそく香川で選抜された小中高の精鋭たちが、高松市総合体育館で中国選手に挑んだ。
  今回来日した中国選手の中には中国でも卓球の盛んな山東省でランキング上位の選手も多く、練習試合とはいえ白熱した試合が展開され、観戦する側も大いに盛り上がった。

  歓迎会は高松の老舗料亭二蝶で行われ、香川県出身の往年の卓球世界チャンピオン松崎キミ代さん、二蝶の大女将徳永尚子さんも参加された。
  特に徳永尚子さんが、1964年に北京で開催された国際招待卓球大会で優勝した際に、当時の周恩来総理から直々に手渡されたカップも披露され、記念撮影に華を添えた。

  28日は午後から再び岡山に移動、新しくできたイオンモール岡山などでショッピングを楽しんだ。
  そして29日からは2日間、岡山の小中学生でもランキング上位の選手を中心に選抜された選手たちと、市内の、ねや卓球道場で交流を深めた。

  日中両国の関係が必ずしも良好ではないこの時期に、延べ150人を超す岡山・香川両地域の卓球少年少女が、卓球王国中国の選手たちと直接交流できたことは日中友好、卓球技術向上の両面で大変意義深かった。
  報道関係者の関心も高く、ほとんどの地元新聞、テレビ局各社が取材に訪れ、報道していただいた。
                                                       (国定剛・記)
岡山の子供たちとお手あわせ。あふれる元気と笑顔(岡山・ねや卓球道場)
 
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友好協会会員、読者アンケートより―
       戦後70年と私
 
 記憶を記録し  伝え残すこと
    《4》
魯迅の「藤野先生」 中国では子供も知る
                        協会参与 江田五月さん(74) =岡山市=

江田五月氏
  私と中国との関係は、物心付く前からだから、長い。
  父・三郎が戦争に反対して投獄され、出て来てからつてを頼って母と私とを連れて中国に渡った。戦争中、1943年ころで、石家荘で水利工事に従事し、45年の終戦を迎えた。
  翌46年に天津から佐世保に引き揚げて岡山に帰ったのだが、生まれたばかりの弟を抱えての4人家族だから、文字通り着の身着のままだったはずだ。
  中国の人々には、大変にお世話になったに違いない。以来70年が経った。

  77年に私が、急逝した父が最後に掲げた旗を拾い上げて国会に出て行き、翌年に母を連れて訪中して石家荘を訪ねた。
  まだ改革・開放が始まったばかりで、今の中国の発展とは程遠いのに、既に大都会となり、母にも何処に私たちが住んでいたのか、皆目見当が付かなかった。

  初当選から38年が経過し、この間に訪中歴は少なくない。ただ、88年に青少年を連れて訪中して以来、21世紀に入るまでは控えた。
  89年に起こった天安門事件は、私には我慢ならなかった。私も学生時代に、社会に対する異議申し立てで処分も喰らった。
  そんな私が、権力者にどんな言い分があろうとも、時代に物申す若者に対する強権的な口封じを黙認することは出来なかった。

  しかし、時は流れる。21世紀に入って、中国とのお付き合いを再開した。
 2007年から3年間の参議院議長の役目を終わり、日中友好会館の会長に就いた。青少年交流、文化交流、学生寮やホテル経営など、多様な事業を営んでいる。
  日中友好7団体の中では最も若い団体だが、前身の「善隣学生会館」設立は1953年で、その前の「満州国学生寮」時代から数えると最長だ。
  それだけに古くから関わっている華僑の皆さんをはじめ関係者が多い。2012年には公益財団法人となり、運営の透明性や適法性などが強く求められ、さらに両国政府の合意による事業なので、政治の影響も受け、苦労が絶えない。

  直近では、13年暮れの首相の靖国参拝から日中関係は厳冬期となり、青少年交流が途絶えてしまった。
  日中は隣国だから、諍いが起きても不思議はない。しかし隣国だから、引越しは出来ない。それならばやはり、友好最優先が賢明だ。
  特に青少年交流は息の長い仕事で、一時の途絶が永く悪影響を残すので、時々の政治環境の悪化に影響されず、関係者が汗をかくことが求められる。

  多くの皆さんの努力のおかげで、途絶は長くは続かず、私も最近は青少年訪日団の歓迎会出席も多い。
  そんな時、よく挨拶で魯迅の短編小説「藤野先生」を引き合いに出している。
  先生は、魯迅が仙台の医学校に留学した時の指導教官だった。なかなか厳しく、魯迅は嫌になるのだが、後に回顧して、先生は全中国人民のために自分にきつく当たったのだと思い直す。

  この話が、中国の子どもたちの教科書に出ているというのだ。
  私は訪日した若者たちに藤野先生を知っているかどうか尋ねたら、なんと何処でも7割方が手を挙げてくれた。
  日本では、中国の教科書は日本の悪口ばかりのような印象が強いが、これは訂正しなければならない。
  会って話せば分かる。みな人間同士だ。日中友好活動の使命は重い。

  
朝鮮から家族逃避行  運よく機帆船で宇野へ
                        小郷原昌道さん(76) =玉野市=

小郷原昌道氏
  終戦の日、私は朝鮮慶尚南道陝川郡佳會面佳會小学校の校長官舎にいた。父は4月に当校校長を拝命し、母と満6歳の私と3歳の妹3人が生活していた。
  外地に居た所為もあって、内地のように空襲や警戒警報などはなかった。毎日「日本勝った。日本勝った」であった。

  しかし、終戦を聞いて朝鮮人の日本人に対する態度が急変した。武装解除された憲兵などは一番に襲撃されたと聞く。
  父は7月に応召したまま京城(現在のソウル)からまだ帰って来ていなかった。学校の先生方や近所の人たちが心配して、「ロシア兵が来ないうちに早く内地へ帰りなさい…」。
  皆さんの助けを借りて、荷物をまとめ、車力(荷車)を借りて荷物を積んだ。カラカラ音がすると人に気付かれるので用務員さんが鉄輪に縄を巻いてくれたのをよく覚えている。

  8月28日夜、母は妹を背負い私と3人は逃げるようにして学校の官舎を後にした。先生方や近所の人たち数人が道案内をしてくれたり、荷車を押してくれたりして14~5キロ東の「三嘉」という町まで見送ってくれた。
  引揚者は一度ここに集結した後、トラックで晋州市の南の「三千浦港」まで行った。そして引揚船をチャーターしなければならない。何日もかかってやっと機帆船に乗り込めた。
  小さな塩船の船長は「潮が速い」とか「風が強い」とかと言って途中で引き返したり、1か月以上も費やしてやっと玉野市の宇野港に上陸した。
  父は、運よく三千浦港で待機してる我々を探し当ててくれて、幸いにも一家4人揃って帰国できた。

  引き上げてからは、父は現在の八浜小学校に勤務することになったが、全くの貧乏生活であった。
  非農家なので食べるものがない。母と2人で母の着物などを持って日曜ごと「買い出し」いわゆる「物々交換」に行かなければならない。
  遠くは赤磐郡の方まで行くこともあった。時のヤミ相場は振袖1枚と米1升が物々交換の相場であった。米1升が2、30万円という計算になる。農家が実にうらやましかった。

  友達の弁当は米の飯(ギンシャリ)我々は蒸かしたサツマイモか大豆の塩湯漬け。少ない配給米に麦や芋を混ぜて大量の水で炊いた湯ばかりのおかゆが主食であった。
  暇さえあれば魚を釣ったり、キノコを採ったり、野草を漬けたりして腹の足しにした。余ったものは売って小遣いにした。
  買い出しから帰る途中、岡山駅に立つと、見えるのは焼け焦げた5階建ての天満屋だけである。

  ある時、宇野線を待っていると反対側のホームに進駐軍列車が入ってきた。窓を開けて私を手招きする。
「ヘイ、ボーイ、カモン」とでも言っていたのだろうか。母が止めるのを聞かずに窓に寄って行った。
  すると、持っていたヤミ籠(イ草製)に、飴やチョコレートや缶詰め、砂糖、ビスケット、カンパン等々見たこともないものをいっぱい詰めてくれた。
  母は「えらいものをもらった。進駐軍からもらったものなど食べちゃならん、毒が入っているかもわからんから」と言う…。食糧難の時だけに有難い食べ物であった。

  後に時がたって思うのであるが、惨めな日本の姿でもあったのである。
  昭和21年4月入学であるから国民学校であったし、奉安殿もあった。
  教科書はクラスに1冊。しかも新聞紙の2倍もあるような1枚がそれである。折りたたんで折り目を切ると1冊の本になるしかけである。みんな夫々その1冊を写して自分の教科書を作った。
  先輩から譲られた本は軍隊に関するところは全て墨で黒く塗られていた。鉛筆など2センチの長さになるまで使って物を大切にした。

  いつも腹をすかしていたが食べ物は家族皆でいつも分けあって食べた。近所の人はみんな優しかった。友達もみんな仲良しだった。
  いわんや青少年のいじめや自殺、老人の孤独死等聞いたことがない。現在のような贅沢な時代が来ようとは、 其の当時、誰も夢にすら思わなかった。

  「日本に行けば何でもあるが、心がない」と外人が言うそうだ。「物足りて心育たず」ということか。  戦後70年はあっという間に過ぎてしまった。この間、日本人は得たものも大きかったが反面失ったものも計り知れない。
  昔を懐かしんでいるわけではないが、改めて日本百年の計を立てて、緒を締め直さなければ、本当に日本は沈没しかねない…などと思う昨今である。
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白馬寺・印楽方丈ら岡山へ

  印楽方丈らの洛陽・白馬寺一行が、10月7日、岡山を訪れ、協会として受け入れ関係者と交流、歓迎した。
  一行は、白馬寺住職の印楽方丈の他、随行の梁沢英さん、元洛陽外事弁公室主任の方双建さん、そして元宗教局局長の邱平欽さんの4名で、小豆島での落慶法要に参加した後、来岡した。
方双建氏、赤木理事、印楽方丈(左から)

 一行は、7日到着後、病気療養中の協会理事、赤木宣雄さんを倉敷サンライフに見舞った。
  赤木理事は今年2月に脳梗塞で倒れ、言語などの後遺障害が残り療養中だが、古い友人である方双建さんや印楽住職の呼びかけに対し笑顔で応え、喜びを表現した。

  夕方には東山の松琴寺で行われた協会主催の歓迎会に臨み、片山会長や片岡弘子さんらと親しく懇談した。
  芸術的な精進料理に感心し、特に稲穂の料理を何度も写真に撮るなど見入っていた。また、印楽方丈が、来春の牡丹祭りには白馬寺での精進料理のほか、特別体験を準備してお待ちしていますと話すと参加者も拍手で応えていた。

  翌8日には午前中、前協会長で故人の片岡和男さん宅を訪問し、仏前にお経を上げられたあと、弘子夫人と歓談し、在りし日の片岡先生を偲んだ。
故片岡和男氏宅を訪れた印楽方丈

  その後、南方の長泉寺を訪問。参拝に先立ち、宮本容子さんが手作りの栗ご飯など心のこもった精進でもてなした。
  本堂で宮本龍門住職とともにお経を上げた後、光研名誉住職らとともに懇談した。

  長泉寺正門には白馬寺と同じ釣鐘があり、1980年代の初頭から歴代の白馬寺住職が訪れるなど友好を温めてきた。

  一行は、9日の岡山上海便で帰国の途に着いた。


日本診療情報管理学会学術大会
    洛陽の医師らゲスト参加

  第41回日本診療情報管理学会学術大会(大会会長・土井章弘岡山旭東病院 院長)が、9月17、18の両日、岡山市の岡山コンベンションセンターにて開催されました。
  大会には、土井会長の配意で、中国・洛陽より2名の方を学会に招待致しました。
  2人は、洛陽の東方病院情報科課長、楊文宝氏と、同じく看護部主任、範文英氏です。
出向かえた旭東病院関係者と
岡山旭東病院で















    9月15日夜、岡山空港にて、日中友好協会の松井専務理事と黒住副会長にもご協力を頂き、私達と一緒に熱烈歓迎を致しました。

  翌16日は、岡山旭東病院にて、病院内の環境、特に病室やスタッフステーション、談話室、院内ITシステム(ネットワーク)を中心に見学して頂きました。
  そして、黒住副会長から「岡山と中国との友好交流について」講義をして頂きました。短時間ですが看護管理者達と情報交換もできました。

  2人は「日本の病院の療養環境はすばらしい、そして地域のITネットワークを確認できたことが良かった」と話されていました。
  17、18日は、来日目的でもある、日本診療情報管理学会学術大会に参加しました。楊氏は「これからの医療は情報管理が重要であること、そして情報管理の質を高めていくことが情報科の使命」だと強調していました。

  範氏は「記録物の監査システムについて自国にも大切なことである」と話していました。2人とも学会では通訳を介しての参加ですが、熱心に質問をしていました。
  17日の夜には懇親会にも参加して、大会関係者や全国からの参加者と交流を深めることもできました。
                                 (岡山旭東病院 看護部長  中山伊都子・記)

 
活動日誌

  8/21…第4回理事会
  8/24…信陽市溮河区訪日団(新見、岡山~26日)
  8/25…青島市青少年卓球交流訪日団(香川、岡山~31日)
  9/10…三誌友の会例会
  9/11…洛陽音楽交流訪日団(~13日)
  9/15…洛陽東方医院訪日団(~20日)
  9/17…天津市友好訪日団(~19日)
 10/ 5…青木康嘉先生打ち合わせ(協会)
 10/ 7…洛陽白馬寺訪日団(~9日)
 10/ 8…三誌友の会例会
 10/11…創価学会「世界書籍展」開幕式(イオンモール)
 10/12…黒田雅夫さん訪問打ち合わせ(京都・亀岡)
 10/13…会報編集委員会
 10/18…岡大国際同窓会総会
 10/19…洛陽医療交流訪日団(~21日)
  
先憂後楽

  「中英は黄金時代に入った」と英国を公式訪問している習近平総書記が高らかに挨拶した。150名強の経済人を引き連れ、中国商務部スポークスマンの発表によると、4千億元(約8兆円)を超える投資や貿易協議が行われたという。この情景を見て、中英新時代というより、中国の新時代が来ているのだなと実感した。

  日本では安保法案が可決され、アメリカとの共同軍事行動が現実化してきた。TPPの大筋合意でアメリカ主導の世界的な経済枠組みがスタートしようとしている。いずれも中国を意識した政治的経済的な動きだ。EUなどは、アメリカとの関係を保持しつつ中国ともキチンと向き合い、付き合う戦略を持っているようだ。日本はアジアの一員として、中国をはじめとする近隣諸国との友好を維持しながら生きていく戦略をキチンと持っているのだろうか。

  そんな中、我が協会は、来年設立35周年を迎える。中国の存在感と日中関係が大きく変化してきている中で、友好交流はどうあるべきか?そのヒントが今年協定を結んだ天津市との交流、そして35年来大切にしてきた友好都市・洛陽市との交流にあるように思う。協会が地方同士の友好の橋を築き、双方の市民同士がその〝橋〟を利用して有益な事業を展開し、お互いの心の中に友好の気持ちを増進していく。地道だがこの友好の橋を作り、また補修していく活動の中にこそ協会の存在意義があるのではないだろうか。(松)
 


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また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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