設立35周年
2016年8月
平成28年8月
  240号

発行人 片山浩子
編集人 松井三平
                                  夏は国際交流                           岡山から中国へ
                              中国から岡山へ 
高校生交流、上海へ12人

上海へ向けての出発式
  岡山県日中教育交流協議会(岡本啓会長)が、青少年の中国との相互交流事業として毎年実施している『2016 STUDENT EXCHANGE in 上海』が、今年も7月末から8月にかけて実施された。

  同交流事業は今年で11回目となり、県内から12人の高校生が参加した。
  出発式は、7月31日岡山空港で行われ、最初に団長を務める岡本会長から、岡山の代表としての自覚を持っていくことや、交通ルールなどに注意して行きましようという挨拶があった。

  引率する岡山県立倉敷青陵高校の宮原孝光教諭からは、積極的に中国の生徒と話しようと激励があった。     続いて、派遣生徒を代表して県立西大寺高校3年の千神理沙さんが挨拶。「力を合わせて元気に行ってきます」と力強い決意表明があった。

  今回の交流には、県下9校から12名が選抜を経て派遣された。一行は、上海市の第一中学で授業体験や生徒同士の交流をする他、ホームステイを通じて中国の家庭生活を体験。
  一行は、8月5日にいろいろな体験を胸に帰国した。

江西省から中学生が22人
              県日中懇の相互訪問事業
 

江西省南昌市第二中学歓迎レセプション
  岡山県日中懇話会(黒瀬定生会長)主催の「江西省南昌第二中学校訪問団歓迎レセプション」が、7月22日午後7時から、岡山市北区のメルパルク岡山で開かれた。

  これは同懇話会が隔年で実施している江西省との高校生相互訪問交流事業の一環で、昨年岡山から訪問したのに続き、本年は江西省から受け入れたもの。

  当日参加したのは、南昌第二中学から陳平副校長を団長とし引率教師4名、生徒22名の総勢27名の訪日団と、黒瀬会長ら懇話会の役員や事務局スタッフ。
  それにホームスティ受入家庭の生徒や父兄ら36名の日本側が参加してにぎやかに歓迎と交流会が行われた。

  江西省と岡山県は1992年に友好縁組を締結し、雑技団の公演や教育、農業分野での交流を続けている。    懇話会では、隔年に訪問団を派遣している 

国際サマーホームステイ
             洛陽などから中学生25人
 

漢服で登場した洛陽の孫さん (右端)
  岡山市国際交流協議会主催の「インターナショナルホームステイイン岡山」の歓迎会が、8月3日、岡山市のラヴィール岡山で行われた。

  会場には、ホストファミリーや協議会役員、友好都市議員連盟会長ら総勢約90名が参加。
  主催者を代表して、協議会理事の片山浩子氏(岡山市日中友好協会会長)が「友情と信頼の輪を広げてください」と歓迎挨拶を述べた。

  その後、それぞれの出身国の言葉で乾杯の発声をして宴が始まった。洛陽の孫梅頤さんが元気よく「カンペイ」と口火を切り、それぞれの国から2名ずつが舞台に上がり、英語と日本語で挨拶をした。
  孫さんは古琴学会で何度も岡山を訪問している楊虹さんの娘さんで、「岡山での滞在を楽しみにしている」と話していた。

  同事業は同交流協議会が主催して開いているもので、市内の中学生を対象に、岡山市の国際友好都市へ隔年で相互訪問を実施。今年は岡山市へ迎える年となっていた。

  今回訪日したのは、中国・洛陽市から10名、韓国・富川市から10名、そしてグアムから5名の中学生で、この日からホームステイに入り、文化体験、野外活動などを通じて国際理解を深め、9日に離岡する。 
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 「運命の大地」「運命の人たち」との再会 ~黒田雅夫・孝義さん兄弟~
 71年ぶりの開拓団再訪    同  行 レポート

  満蒙開拓団の両親に連れられて旧満州(中国東北部)に渡り、敗戦後の混乱の中で家族離散、過酷な運命にさらされて帰国した黒田雅夫・孝義さん兄弟(京都府亀岡市在住)が、7月、中国東北部を慰霊訪問、幼い兄弟にとってあまりにも残酷だった逃避行の足跡をたどった。

  「廟嶺京都開拓団の足跡を訪ね、日中友好を促進する旅」には、黒田さん兄弟と共に、企画した岡山市日中友好協会より黒住昭子副会長らが参加、関西テレビ放送(大阪市)が同行取材した。戦後71年、黒田さん兄弟の「運命の大地、そして運命の人たちとの再会の旅」をレポートした。 (専務理事・松井三平)


「かなん、かなん」… こみ上げる涙、涙

 【開拓団の跡地へ再訪】
  訪問団一行は、7月12日、関西空港から南方航空の直行便で遼寧省の瀋陽空港に降り立ちそのまま開拓団跡地である吉林省の樺甸に向かった。
  現地では、これまでも何回か残留孤児を尋ねる訪問団に同行いただいている中国遼寧北方国際旅行社の劉鉄昌さんが出迎えてくれた。
  また、関西テレビの上海支局から金富強さんも合流した。

  当日は、瀋陽から東北約330キロの道のりを走行後、樺甸手前の中都市、吉林省盤石市に宿泊。翌13日早朝、再び陸路を東に約80キロ走り樺甸に向かった。
  一面に広がるトウモロコシ畑を見ながら雅夫さんが「かなん、かなん…」と言いながら泣き出した。
  「かなん」とは丹波方言で「気苦しい」というような意味。雅夫さんは恐怖の中で、当時はコウリャン畑の中を家族と逃げ惑った記憶がパッと浮かんで来たと語っていた。

  午前10時過ぎに樺甸の入り口に到着した。ここで、現地の人に方向を尋ねていたところ、71歳になるという男性が、自ら案内を買って出てくれ、自分の車を運転して私たちのワゴン車を先導していただいた。
  この人には、最終的に場所が見つかるまで約5時間ずっとお付き合いいただくことになった。

唯一の手がかり  5歳時に描いた絵

 【難航した場所探し】
  今回の最大の目的は、黒田さん兄弟が過ごした開拓団の跡地を探すことだった。しかし2人とも、帰国後初めての訪問だったため、記憶だけが頼り。
  唯一の手がかり、そして最後の決め手となったのは、弟の孝義さんが訪日調査の時に証拠として提出した絵だけ。

  この絵は、孝義さんが5歳の時の思い出を手がかりに描いたもの。
  田園風景と小山を背景に、ふもとに流れる川がV字に蛇行して流れ、兄の雅夫さんが川を渡り釣りをしていた所へ弟の孝義さんがやってきた。
  ところが、兄の所へ行きたいが、5歳の孝義さんが渡るには川が深く危ないため、雅夫さんが「来るな来るな」と言ったので、弟が泣いている、そんな絵だった。

  廟嶺京都開拓団本部跡地らしき場所は地元農民の方の案内で確認できたが、住んでいた場所が見つからず、何度も集落を回り絵と突き合わせながら、昼食も忘れて回った。半ば諦めかけていた午後3時半ごろになって、もう一度資料を確認し、「徳勝屯」という場所を訪ねることになった。そこでついに探していたその場所が見つかった。
「ここや、ここや!」
黒田兄弟が子供時代に過ごした廟嶺京都開拓団跡地。
弟・孝義さん(左)の記憶の絵どおり。 

  「ここや、ここや」と兄弟が一致した。正に絵のとおりの景色が残っていた。川に出て山を遠望すると、本当に孝義さんの絵そのまま。
  5歳の時の記憶を手掛りに描いた絵が、こんなにも正確だったと、皆が驚いた。

  苦しく貧しい生活ながら、兄弟にとっては2人でいっしょに過ごした特別の思い出がフラッシュバックしたに違いない。雅夫さんは人目を構わず泣いていた。そして何度も川べりを歩いて、その場を離れようとしなかった。

最もつらい場所  じっと頭垂れ慰霊

 【収容所のあった撫順へ】
  思い出の場所発見の興奮も冷めやらないまま、14日には樺甸から撫順に向かった。来た方向に約350キロの行程を一気に走った。
  撫順では、昼食もそこそこに、撫順収容所の跡地を訪ねた。そこは当時、撫順永安工業学校校舎だった所で、現在は、一部当時の建物が残ってはいるものの、夏草が生い茂る地になっていた。

  その場所は、2人にとって最も辛い場所だった。雅夫さんがお母さんやおじいさんを葬ったところだ。
  2人とも零下30度にもなる冬に亡くなったため、遺体はしばらく埋葬も荼毘にふすこともされず、凍ったまま、土
線香を手に収容所の跡地を巡る雅夫さん
手に積まれていたという。その数は高知からの開拓団の方と合わせ約500体にものぼったという。

  その場所で手を合わせ、人目を気にしながら線香をあげ手を合わせた。
  日本から持参した「御神水」を撒きながら長い長い間、雅夫さんは手を合わせその場をじっと動かなかった。
  弟の孝義さんも少し距離を置きながらも、じっと兄の動きを見守り続けていた。

弟は中国人に 兄は脱出して孤児に

 【黒田兄弟の生き別れ】
  この撫順収容所で兄弟は生き別れる。孝義さんは母の生存中に中国人の夫婦に預けられ、中国人として育てられる。   「子供がいなかったので」という理由もあったようだが、その後4人の子供ができたにもかかわらず同じように分け隔てなく「福の神」と言われて大切に育てられたという。

  孝義さんはその後、瀋陽の第一機械製作所で幹部になり、日本に帰国するまで、現役で働いていた。
  兄の雅夫さんは、家族が誰もいなくなった撫順収容所を脱出し、孤児となっていたところキリスト教会の人に助けられ、その後帰国船に乗り、1946年7月に帰国した。

養父母の墓前で  膝つき頭たれ供養

黒田兄弟を囲んで義兄弟のみなさん(永陵の自宅前)
 【養父母の故郷・永陵県へ】
  撫順から東に1時間半ほど走ると、孝義さんが引き取られた養父母の家のある永陵県がある。ここは、清朝皇帝のヌルハチの祖先の墓があるということでその名がつけられており、現在、その場所が世界文化遺産に登録されている。

  永陵の家では、孝義さんの義理の弟や妹さんたちの出迎えを受け、家の中を案内していただいた。
  寒い冬のためオンドルの設備があり、大きな立派なボイラーも。それぞれの部屋も清潔で設備が整っていた。一昨年建築したのだという。

  家を訪問した後、お墓参りに向かった。田んぼのあぜ道を1キロほど歩いたところに養父母の墓があった。
  中国式にお供え物をして、黄色い紙を燃やし、それぞれが膝をついて頭を垂れて拝んだ。孝義さんは日本から持参した日本酒を供えていた。
養父母の墓前に兄弟そろって(永陵県)

中国への感謝  命の大切さ訴え

 【遼寧中日友好協会、遼寧省人民対外友好協会訪問】
  今回、特に黒田雅夫さんから、中国の人に自分の生い立ちを聞いてもらいたいという要望があり、対象や場所を探していたが、学校は夏休み中ということもあり、形式的だが対外友好部門の幹部との会見ということになった。

  遼寧中日友好協会から元遼寧省外事弁公室主任の陳鉄城会長、遼寧省人民対外友好協会からは副会長の李承志氏が出席し、歓迎の挨拶をした。
  岡山市日中友好協会からは黒住昭子副会長が訪中団を代表して挨拶。歴史を忘れず、日中友好の大道を歩んでいくと述べた。その後、黒田さん兄弟がそれぞれ自身を紹介した。

  雅夫さんは、地元京都府亀岡市で小学校や中学校の子供たちや先生方を対象に、語り部として自身の中国での体験を話し、命の大切さについて講演していることなどを紹介し、二度と悲惨な戦争を起こしてはいけないと強調した。
  孝義さんは、中国語で中国に対する感謝の気持ちを述べ、日本帰国後の生活が苦しかったことなどを語った。
日中友好の証「水石」
雅夫さんは、自身が得意としている「水石」を持参しプレゼントした。

  これは、京都の鞍馬石を使ったもので、京都・嵐山にある周恩来の詩碑「雨中嵐山」に使われている石と同じもの。
 石の中に銅で作った小さな鶴2羽と亀2匹を置いて、黒田兄弟と母、祖父を表したという。伝統的日本芸術と日中友好を表現した見事な「水石」に、受け取った陳会長も感嘆していた。

中国関係方面の協力に感謝  不幸な歴史的事実伝えたい

 【訪問団派遣にあたって】
  岡山市日中友好協会は昨年、戦後70周年を記念して、会員内外から原稿を集め、会報に連載し、冊子にまとめた。
  その活動の一環として、昨年12月に京都府亀岡市在住の黒田雅夫さんを講師に招き、「中国残留孤児問題を考える」講演会とパネルディスカッションを開催した。

  その後、実際に現地を訪問し、兄弟が辿った足跡を確認し、開拓団の歴史や背景について学び、次世代に伝えようと訪中団が企画された。
  このたびの訪問団は、黒田さん兄弟の開拓団の足跡を尋ね、2人の生き別れを通じて、悲惨な歴史の事実を広く伝えることと合わせ、そもそも日本の戦争により起こった歴史的事実を広く伝えていくことが大きな目的だった。  
遼寧省人民対外友好協会を訪ねて
  瀋陽や樺甸、徳勝屯、撫順、永陵など訪問した現地ではいろいろの方々にご協力をいただいた。現地の人々にとって開拓団は「満州国」を背景にして土地や家屋を奪った侵略者に他ならない。

  事実、徳勝屯で会った婦人は、村の中に日本軍に殺された人や犯され女性がいて、顔を黒く塗って隠れていたということを父母から聞いたと語っていた。
  これらの方々の、暖かくあたりまえのような協力なしに今回の訪問の目的は達成できなかった。心からお礼を申し上げたい。

  また、関西テレビの取材に際し、記者ビザの取得が必要だったが、協会は、会長名で李天然大阪総領事宛に正式依頼書面を作成し、松井専務理事が書面を持参してテレビ局の役員や担当者等とともに総領事館を訪問し直接依頼した。数日後、総領事館の許可が降り訪問に弾みがついた。

  現地では遼寧中日友好協会、遼寧省人民対外友好協会に、多大なご配慮をいただいた。中国の各方面のご協力に対して深く感謝申し上げたい。
 この訪問とドキュメンタリー番組の制作により歴史的事実を事実のまま伝え、再び日中戦争の誤りを繰り返してはならない平和への誓いの記録となることを願っている。

                         〇   〇   〇  

  関西テレビのドキュメンタリー放送予定は、8月30日の深夜枠で、関西2府4県と四国の徳島がエリアに
入っている。
黒田兄弟の 歩み

  終戦の前年、1944年6月、黒田雅夫、孝義兄弟は父、母と一家4人で京都府亀岡市を出発し、福井県敦賀港より旧満州(中国東北部)へ渡った。
  7月3日に吉林省樺甸にあった廟嶺京都開拓団に入村し、その後に祖父が合流し一家の生活が始まった。

  そして1945年4月、ソ連は日ソ中立条約の不延長を通告、その後、ソ連軍の対日総攻撃が始まる。開拓団は正に棄民状態となり、過酷な逃避行を余儀なくされ多くの方々が犠牲となった。
  黒田一家も、撫順にあった難民収容所まで、やっとのことで逃れてきた。過酷な環境の中、同収容所で祖父と母が相次いで亡くなり、父は現地根こそぎ動員で兵隊に招集されたまま、幼い兄弟だけが残された。

  そして、弟の孝義さんは、中国の養父母に預けられ、その後長い中国生活を経て、1987年に参加した第15回中国残留日本人孤児訪日身元調査団を経て翌年に日本に永住帰国した。
  兄の雅夫さんは、撫順の収容所を脱出し、孤児となっていた所をキリスト教会に救われ、1946年7月に帰国することができた
「運命の大地」「運命の人たち」との再会 ~黒田雅夫・孝義さん兄弟~
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□ 友好交流協定締結記念 □
岡山天津福祉交流促進訪問団

天津へ10月派遣
福祉施設見学・人材育成学校訪問
10月18日〜21日、参加者募集中 

  岡山市日中友好協会では、この秋10月、友好交流協定を締結している天津市に「岡山天津福祉交流促進訪問団」を派遣することになった。協会では、奮っての参加を呼びかけている。
  今回の主目的は、福祉交流とりわけ高齢者福祉の分野で理解を深め、人材育成やその他の協力の可能性を追求しようというもの。
  訪問先は、高齢者福祉施設や人材育成を行っている専門学校、それに福祉関係者らとの交歓会もある。
  日程は10月18日、岡山空港から仁川経由で天津入り。3日間滞在し、同21日帰岡する。参加費用は約11万5千円。
  天津との交流については、今年4月、天津市から視察団が来岡しており、今回は岡山側から訪問し、お互いに理解を深めようというもの。
  参加申し込み等、問い合わせは、当協会まで。

活動日誌
  7/ 4…関西テレビ来局、訪問団打合せ
  7/ 6…莫邦富先生引率「新農人」訪日団(23名)来岡、歓迎会(しんとうざん茶店)。
        7/7真庭市を視察訪問。
  7/12…「廟嶺京都開拓団の足跡を尋ね日中友好を促進する旅」出発(~7/17)
  7/22…岡山県日中懇話会理事会(メルパルク)
  7/27…江蘇同歩慰医療情報コンサルタント有限公司CEO桂祈亮氏来局。
  7/31…県日中教育交流協議会、STUDENT EXCHANGE高校生上海へ出発(~8/4)
  8/ 3…市国際交流協議会主催サマーホームステイ。洛陽から10名の中学生来岡(~8/9)
  
先憂後楽
  先月、大阪の黒門町市場を訪れて驚いた。歩いている客のほとんどが中国人を中心とするアジアからの観光客。店づくりも呼び込みも完全に中国人相手の内容だった。道頓堀も全く同じような雰囲気。人気の道頓堀クルーズも並んでいるのは中国からの観光客で、その日運航予定のチケットは完売で乗れないという。

  中国から帰国して関西空港に降り立った時も驚いた。午前便だったせいもあるが、13箇所あった入国ブースのうち日本人用はたったの一箇所のみでその他は全て外国人用だった。到着便ごとに流れるアナウンスでは例えば『◯◯便が到着しました。日本人15人、外国人150人』のように、搭乗者のほとんどが外国の方だった。

  日本政府観光局(JNTО)の統計によると、本年1月から6月までに訪日した外国人は約1,171万人で昨年比28%増。そのうち中国人は238万人で約20%を占め昨年比41%増となっている。政府は平成32年に2千万人目標としていた訪日外国人の数を前倒しが確実となったため変更し、一気に倍増の4千万人としている。確かに岡山でも駅前だけでなく、普通のショッピングセンターでも中国語が聞こえてくる場所が増えた。

  少子高齢社会が急速にやってきている日本。地方の農村では崩壊寸前の地区が増えている。大学や高校も学生集めに生き残りをかけている。介護の現場でも人手不足が社会問題になっており、外国人実習生の枠を介護にも広げようと法律整備が進んでいる。

  国際化、グローバル化の段階から既に共生社会への段階に入っているのではないだろうか。欧米などでの移民・難民問題が近い将来日本でも起こって来る。日本の法律を遵守していただくのは前提として、社会自体が普通に受け入れられる環境整備が急がれる。       (松)


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また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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