社会福祉法人旭川荘(岡山市北区祇園)の理事長だった故江草安彦氏等が監修した介護職向け中国語版テキスト「老年介護技術教程」が上海で出版された。江草氏の理念がまとめられており、その報告を旭川荘にまとめて頂いた。 この教科書は2014年2月、当時の上海市民政局長から「初級職員の養成が課題」との説明を受けた江草先生が制作を提案。 まずは旭川荘職員や大学教員らに執筆・作画を依頼して日本語版を取りまとめ、それをJICA中国事務所(北京市)が中国語に翻訳。さらに元上海市民政局長の馬伊里氏に監修を依頼し、中国文化に即して修正した上で、2015年3月、江草先生ご逝去の直後に完成しました。 制作に当たっては、介護において最も重要な「高齢者の尊厳」「自立支援」等の理念教育に重点を置くとともに、技術面ではイラストを多用した分かりやすい内容としました。 教科書はいったん上海市民政局に贈呈しましたが、著作権保護のため出版するのが適切との指摘があったため、上海市側の関係者が自費出版する形で、現地の「世界図書出版」から出版されました。 記念式典は上海市内最大の書店「上海書城」で開催され、末光理事長、馬伊里氏のほか上海市民政局の代表者や大学教員、介護施設の職員ら約60人が参加。 末光理事長が「今後も上海市との交流を続け、教科書を多くの人に知ってもらいたい」と挨拶すると、馬伊里氏らは口々に、教科書を有効に活用したいと語りました。 その後末光理事長、馬伊里氏、板野美佐子元理事によるサイン会があり、教科書の購入者が長蛇の列となっていました。 (旭川荘企画広報室・記) |
||||
高校生交流14人上海へ | ||||
岡山県日中教育交流協議会(会長・岡本啓おかやま希望学園学園長)主催の「2017 STUDENT EXCHANGE in 上海」が、7月30日から8月3日まで上海で行われた。 一行は、岡本会長を団長に14人の高校生、それに引率の小寺裕之清心高校教諭ら17人。7月30日に岡山空港を出発、8月3日までの日程で、上海各地で交流した。 上海では、交流校である上海市内の上海市第一中学での授業体験、隷書の書道演習、生徒同士の交流会、ホームステイなどに参加。庭園など多くの世界文化遺産がある蘇州も見学、3日に帰岡した。 相互交流のため、秋には上海からの高校生を迎える。 |
● 旧満州開拓団跡地(龍爪開拓団)訪問・交流 7月13〜18日 黒竜江省林口県地区日中友好の旅 ● 温かく迎えてくれた地元住民 近現代史研究家 青 木 康 嘉 氏 =敬称略= |
||||||
我々一行は、当時3歳近くまで龍爪開拓団に在団し、引揚者の一人である小林軍治(74歳)を団長に、総勢10人で企画した日中友好の旅である。 林口・日の出郷再訪 林口は、中国・黒龍江省林口県地区で、佳木斯(ジャムス)と牡丹江の中間点にある。ソウル(仁川空港)経由で牡丹江に入り、当時龍爪開拓団のあった林口を訪れた。 龍爪開拓団跡には、小林軍治は6回目、青木が5回目の訪問で、その他複数回参加した人も3名参加している。 特に今回は小林軍治や高見英夫が在住していた日の出部落(現龍爪四隊)の現地の人たちと交流してきた。 これまでの訪問は半日であり、十分な交流が出来なかった。その理由は、林口地区には外国人が宿泊できるようなホテルが不備であった点がある。 牡丹江市まで往復4時間かかることからも、龍報希望小学校との交流や龍爪開拓団跡地を訪れてお土産をお渡しするのが現状だった。 今回の企画は、団長の小林軍治が一度林口へ宿泊して、日の出地区の住民を招待して一緒に食事でもできないかという希望から始まった。(林口は経済発展地区に指定され、ホテルも存在していた) アジアコミュニケーションズの松井三平社長に相談して、地元住民を招待して交流したい旨をお願いした。 松井社長は黒竜江省外事弁公室に連絡して、協力を求めてくれたが、「住民との交流は、黒竜江省外事弁が主催するものではなく、同行する職員もいないので、省外事弁の名前で、住民を招集することはできませんと言われた」という。 今回の旅の通訳兼添乗してくれた北方旅行社の劉鉄昌社長も、牡丹江市の教育庁を通じて依頼したが断られた。 終戦時ソ連軍侵攻 今回訪問する第六次龍爪開拓団には、昭和12年の先遣隊から始まって延べ1,254名が入植した。岡山県関係者も229名入植しており、龍爪駅近くの日の出郷、春日郷、上岡山郷、林口駅近くの八幡郷などに居住していた。 終戦時にソ連軍の侵攻をまともに受けた地区の一つで、入植者らは悲惨な逃避行を強いられた。 帰還者575名、死亡者637名、孤児・残留婦人等65名、生還率40%の開拓団である。(『第六次龍爪開拓団の足跡』より) 戦後72年。開拓関係者の高齢化もあり「懐かしく開拓団跡を訪ねる旅」だけでなく、さらに発展して開拓団という共通の歴史を土台に、戦後生まれた者同士でも「日中の交流を促進」することが大切ではないかという企画であった。 交渉は現地で行き当たりばったりであった。幸いに、龍爪地区日の出にある雑貨屋の主人劉正峰(58歳)がいて、「日本人が懐かしい所を訪ねてくることはいいことだ。戦争はあったけど、ここに来る日本人は皆いい人ばかりだ。よく来てくれた」といって龍爪地区を案内してくれた。 しかし、2年前まであった旧日本人開拓団住宅は昨年壊されていたし、その所有者のおばあさんも病に伏せっていた。 春日郷や上岡山地区へも足を運んだ。緬羊農家やこれまで交流してきた住民の家に招待された。 住民参加の食事交流 劉正峰の「お招きいただきましてありがとうございます」との挨拶から始まった。テーブル席で「この交流を子どもや孫まで続けたいですね」とも話された。 日中両国の交流期待 王占春(48歳)は「戦時中は中日両国で不幸なことがあった。日本人も巻き込まれてしまい、残念なことになった。これからも日本と貿易していき、両国の交流が続くことがいいと思う。我々中国人も平和を望む」と話すと、テーブルにいた参加者から拍手が沸いた。 また「私は、龍爪で生まれた。日本人のことは親から聞いたことがあるが、多くは語らなかった。日本の人々は敗戦で帰るとき、そんなに悪いことをした人はいない」。 宴も盛り上がってきたら「私は農業をしていて、トウモロコシ、大豆、稲、瓜を作っている。朝収穫して市場へ持って行く。日本では農業に補助金が出るそうだが、中国では出ないよ」(笑い)といった愚痴も。(いずれも通訳は、西上普美) 約2時間余りの宴会ではあったが、以前からの顔見知りから、住所や電話番号、名前や年齢も知る〝知人・友人〟となった。 今後も継続していくことが出来るかが大切であることは言うまでもないであろう。 緑園(大房身)と長春公園 この度長春を訪れた理由は、参加者の中の守屋八束(76歳)が新京(長春)で5歳近くまで育った地である。守屋八束の父親は新京の日本軍の軍属(経理)として勤務し、緑園地区に住んでいた。 8月13日、旧満州国政府関係者家族・高級軍人家族・高級満鉄職員等家族等約5万人は、新京(長春)駅を出発した。朝鮮経由で日本へ戻ることを試み、何度も列車は止まりながら南下した。 在留邦人21万人避難 守屋親子は、北朝鮮の鎮南浦で8か月過ごした。そこで母親が赤痢にかかり、不安な日々を過ごしたという。38度線を越える時も何度も足止めを受け、身ぐるみはがされながら昭和21年6月帰国した。 『満洲開拓史』によれば、当時、新京特別市には、旧満州国政府関係者、満鉄職員、在留日本軍人など21万人の日本人がいた。 ソ連参戦後、奥地や周辺地区から約12万人の避難民が新京(長春)市に流れ込んできた。長春駅近くの室町小学校、八島小学校、新京商業学校に収容された。 そのうち、開拓団は東安省・三江省をはじめ、黒河・北安など辺境からの流入者が多い。暴民の襲撃・掠奪に遭遇しつつ、多数の病人を抱えての流入だった。その数約3万名という。 学校の収容所はすぐに一杯となり、緑園地区の4か所の軍官舎(大房身)に収容された。 難民収容所の分会跡 龍爪開拓団関係者でいえば、室町小学校で12名、大房身で12名が死亡し、今岡姉妹は残留婦人・残留孤児となった。こうして開拓団関係者は約6千名近く死亡した。 新京市に流入した日本人難民12万人のうち、死亡者は19,040名にのぼった。その多くは、長春公園(当時は植物園)や南湖公園に埋葬されたという。 早朝、参加者の4名で、新京(長春)関係地を歩いた。ヤマトホテル・室町小学校(現・天津路小学校)、新京神社跡(現在幼稚園で鳥居が一本残っている)、今も残る給水塔2本、新京商業学校(第7中学校)を散策した。 この小学校の女教師は「5年前までこの建物は残っていました、あの位置です」と指さした。 遺骨多い長春公園 長春公園に到着して、現地ガイドの祁永恒(54歳)は「この辺りを掘れば、日本人の骨はいくらでも出てくる。日本人の慰霊ツアーを毎年案内している」と言って、草の上の小枝を取り、土を掘り始めた。 すると、3センチぐらいの白骨が出てきた。帰国が出来なくてさぞ無念だったろうと思う。全員で合掌して弔った。 急がれる遺骨収集 日本と中国の間では、未だに「遺骨収集」の合意ができていない。日中国交回復して45年、日中平和友好条約が締結して来年で40年になる。 日中の首脳対話や外交交渉の大事な一つとして「遺骨収集」を取り上げてもらいたいと思う。 (敬称略、青木康嘉・記) |
芸術祭参加作品・関西テレビ ドキュメンタリー番組 ★ 上 映 会 ★ |
||
兄と弟 | ||
ー 満州 おもいでの河へ | ||
◇日 時 8月26日(土)10時~正午 ◇場 所 岡山国際交流センター(岡山市北区奉還町2-2-1) ◇参加費 無料 ◎参加希望者は当協会まで申し込み下さい。 主催 岡山市日中友好協会 |
2017年にー[4] 日中国交正常化45周年 |
|||
りゅう ちょう 早稲田大学スポーツ科学研究科 劉 暢 さん 口来日の〝きっかけ〟は 私は2000年、10歳の時、初めて日本に来ました。父(劉政安氏、中国科学院研究者)が当時、牡丹の研究で島根大学に留学中でしたので、この間、小学校5年生から中学2年生まで4年近く松江市で過ごしました。 日本の生活習慣などいろいろな面で中国と異なりがありますが、先生や友達がとても親切に私を見守ってくれていたので、楽しい毎日を過ごせたことが印象的でした。 (ちなみに政安氏は「洛陽牡丹」を、当協会を通じて岡山に輸入する際の洛陽市側担当者として尽力、その後も岡山関係者と交流されています) 口早稲田大学でどんな研究を 2014年4月に早稲田大学スポーツ科学研究科の修士課程に入り、昨年春に卒業し博士課程に進学しました。現在は武術の国際化に注目しており、日本武道(柔道、空手など)の普及過程と比較しながら研究を進めています。 研究以外では、武術を練習したり、教えたり、また日本を旅行したりして、留学生活を楽しんでいます。 全日本武術太極拳選手権大会に、去年に続いて今年も参加できたこと、友達を招いて観戦に来てもらったこと、そして精一杯応援したりされたりしたことなど、これらのことが日本における武術の発展を築き上げているんだなと感じました。 二連覇しましたが、去年と比べて剣術が上達し、槍術が後退しました。何事も費やしている時間と比例して結果が出ると改めて感じました。 口武術太極拳の面白さとは 武術太極拳の一番の面白さは〝わざ〟の練習を通して、体が鍛えられるだけでなく、護身、そして人間形成など、多方面にわたって役立つことができるという点にあるのではないかなと思います。 自分が武術を始めたきっかけは、5歳の時、暴れん坊だった私を〝しつけるためだった〟と父から聞いています。 口日本で挑戦したいこと まず順調に3年間で博士号を取得することです。その後は日本の大学で就職し、業績をあげて武術の研究および普及に尽力したい。 口将来の〝夢〟を語ると 中国の国家体育総局で政策決定者の立場から、体育・スポーツを通して国力向上、国際交流、人々の健康、子供の教育・発達等々に役立てるような政策を考案し、社会貢献をしていくことです。 口好きな言葉は 「天将降大任于斯人也、必先苦其心志、労其筋骨、餓其体膚、空乏其身、行拂乱其所為、所以動心忍性、益其所不能。」 (『孟子』告子下) (天が地上の人に大任を下そうとする時、まずその人の心を苦しめ、肉体を苦労させ、餓えに苦しませ、体を弱らせ、しようとすることをしくじらせる。それは人の心を揺さぶって忍耐を育て、それまでできなかったことを、できるようにさせるためである)。 |
|||
上海・陸行中学から 民族音楽通し交流 | |||
一行は、陸行中学の民族音楽社団(日本のクラブ活動にあたる)に属する12名の生徒と引率教員3名。 県立岡山南高校での交流や、同23日に倉敷市真備地区の「マービーふれあいセンター」で開かれた岡山県高校生芸術フェスティバルへ特別出演。同25日に関西空港から帰国した。 高文連では隔年で中国との文化交流をメインとした相互交流を実施している。 |
|||
孔子学院設立10周年 スピーチコンテスト開催 | |||
今回出場したのは、総勢13人で、中学生や高校生の参加もあった。コンテストでは、スピーチの他、スピーチに対する質疑や、パフォーマンスの披露もあり、会場は大いに盛り上がった。 優勝したのは、西村順子さんで、パフォーマンスでは太極センスを披瀝、副賞として中国旅行招待が贈られた。準優勝は2人、三位は3人だった。 審査には、駐大坂総領事館や中国遼寧省国際文化経済交流センターなどの関係者も加わっていた。(写真はスピーチの模様) |
活動日誌 | |||
7/ 1…上海への高校生派遣事業第1回研修会(日中教育交流協議会主催。県生涯学習センター) 7/ 6…認定NPOにむけた実態調査(協会) 7/17…高校生派遣第2回研修会(県生涯学習センター) 7/21…県高等学校文化連盟招聘上海高校生訪日団来岡(~7/25) 7/22…岡山中国語センター運営委員会(協会事務所) 7/25…会報編集委員会 7/30…上海派遣高校生出発(岡山空港~8/3) |
|||
先憂後楽 | |||
国際交流の中で、一番大切なのは通訳だ。通訳のいかんによって交流の成否が決まるといっても過言ではない。 今夏、日中高校生交流が活発に行われている。県高等学校文化連盟(高文連)は上海浦東地区の陸行中学と、県日中教育交流協議会(日中教育協)は上海市静安区の第一中学と相互交流を実施している。その中で、岡山に約20年在住している姚延延さんは、高文連の訪日団に四六時中同行し、歓迎会や観光の通訳のほか、買い物同行や旅行上の案内まで誠心誠意活躍し、高文連や訪日団の先生方からも高い評価を得ている。この分野では姚さんのような中国の方に優秀な方が多く層も厚い。 このような人材は得がたい。ただ言葉がしゃべれるということだけではなく、意図するところを、それぞれの国の感性で伝えて、ストンと腑に落ちる通訳が望まれる。 医療通訳は命や健康に関わることだからより精度の高い通訳が要求される。人間ドックなどの検診結果を伝える時に『影がありますね』を直訳するのはやさしいが、キチンと伝えるのは大変難しい。 このような中で、協会附属の岡山中国語センターでは、日本人で実践活動に使えるレベルの中国語話者を育成すべく、今春から道上知弘講師を迎え内容を強化してきた。 友好交流通訳から医療通訳まで、日中間の相互理解を深め、相互利益を増進するために優秀な通訳の育成こそが友好活動を保証すると考えて取組みたい。 (松井) |