2021協会設立40周年へ! 2019年6月 令和元年6月 257号 発行人 片山浩子 編集人 松井三平 |
《岡山市日中友好協会定期総会記念講演・講演録》 上海滞在2年の経験で得た 日中友好への想い ◀下▶ 講師 上海交通大学客員教授 岡山大学名誉教授・元学長 森 田 潔 氏 |
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政治を変えるのは私たち国民 まず一度中国に行ってみて!! 次に、大学のグローバル化問題に少し触れてみたいと思います。 グローバル化に向けての私の戦略は、第一に中国にターゲットを絞ることでした。中国には日本に留学したいという人がいっぱいいますし、留学生を増やすとするのであれば、まず、韓国も含めてお隣の国から増やす方が早いのではないかと思ったからです。 お隣ですから、行きも帰りも旅費が欧米と比べて全く違いますし、帰りたければすぐ帰れます。それに中国では、日本語を学んでいる人たちがいっぱいいるからです。 中国からの留学生を増やす戦略で努力を続けました。中国各地を回ったのも、その一環でした。スーパーグローバル事業の中で、留学生を受け入れる計画では、10年後に1000人に増やし、その内70%を中国の人としようと思ってやっていました。中国からの留学生にターゲットを絞ってやりました。 グローバル化作戦 国際同窓生組織化 もう一つ、岡山大学のグローバル化作戦で戦略を立てたのが、世界各地にいる国際同窓生の組織化でした。 留学生として岡山大学にやって来た卒業生は約4千人いて、現在、世界中に散らばって各地で活躍しておられます。その人たちをきちっと組織して、岡山大学をアピールしてもらおうという戦略です。そして、その人たちに留学生を送ってもらおう、また、そのきっかけを作ってもらおうというものです。 こうして6年間で50ヵ所の国際同窓会支部を作ろうとスタートしました。私が全部出向いた訳ではありませんが、その内30数ヵ所には行きました。 ガーナにもその仕事で行きました。ガーナの大学と提携すると同時に、同窓会支部を作りました。そのガーナの大学の有力者が岡山大学の卒業生だったこともあり、ガーナからも留学生が来ていました。 中国の同窓生の皆さんは、岡山大学のことを「我が母校」と言ってくれます。日本人の卒業生から「我が母校」と言った言葉は聞けませんから、本当に感激しました。 学長時代、卒業生が、自分の卒業した大学をそれほど誇りに思ってくれない、このことが一番の悩みでした。 ところが中国の人たちはみんな岡山大学で学んだことを誇りに思ってくれているのですから…。母校のために頑張りますと言ってくれるありがたい組織です。 そういうことで中国との関係を強めさせて頂きました。 中国のここ30年の 発展は目を見張る ここ30年の中国の発展は、目を見張るというか、むしろ急激過ぎると思います。急激過ぎるが故に反って急激過ぎる弊害が、これから出てくるのではないかと、個人的には心配している程です。 中国は、ここ10年、20年で、私たちが50年かけて苦労して苦労してやって来たことをさっと実現している。「いいとこ取り」ではあるのですけれど。 麻酔医療の分野を見てもそうなんです。私たちがやって来たのは、麻酔とは危険で難しいものだったので、それを苦労して苦労してここまで安全なものにまで持ってきたのです。 彼らは、その苦労した時代を知らずに、安全な時代に学んでいます。ですから、麻酔医療の原点を理解せず、経験もしていません。そこが少し違うのです。中国の急激な発展故のマイナス面というものを、彼らは持っています。 この発展は、GDPの伸びを見ても分かるように、もう10年もすればアメリカを抜く勢いになっています。このままいけば、ですよ…。 インドはカースト制度があって伸び悩みですし、日本は安定成長の時代に入っています。いずれにせよ、中国はアメリカと並ぶ大国になるでしょう。 少し古い数字ですが、論文数というものがあります。大学人はこの数字を、比較する時によく使います。2017年、2018年当たりから、日本は論文の数で中国に及びもつかないような差を付けられてしまいました。中国は論文数でアメリカにも並んでくると思います。 しかし、数はともかく質においてはまだまだ日本が上にあり、日本優位のものはいっぱいあります。 しかし、国力全体とすれば、日本はもう中国に及びも付かないような現実になっていると思います。 世界の大学ランク 東大がやっと42番 そういったことを大学だけで見るのに、世界大学ランキングというものがあります。 そのランキングで日本は、トップ50位に東京大学1校が入っているだけで、それも42番目です。100位以内では京都大学が入ります。ランキング上位と言えば、北京大学であり、精華大学でありといった所です。 安倍さんが政権を取り返した時、教育に力を入れるとして、日本の大学ランキングを世界ランク100位以内に10校入れると宣言しました。 それから5年経った今、東京大学ですら、あのような状態です。国の政策としては、大学を改革しようとしているのでしようが、現実は真反対に動いています。 大学が厳しい状況にあるのはよく知られているところですが、それは政策が間違っているからだと思います。日本の文科省は、全体的にお金がないから、全体を絞っているのです。ですから東京大学でさえ、苦しい苦しいと言っている。 中国は全く正反対です。北京大学を支援すると言ったら、もう北京大学にお金をどんどん投入する。周辺の大学を合併させて、ランキングをあげていく、こういった調子です。 日本で大学合併と言えば、最近、名古屋大学と岐阜大学の合併構想が進んでいるようですが、まだこれからでしょう。 しかし、いずれ岡山大学もその方向に行かざるを得ない時代が来ると思います。その時、どの様に組むのか、その戦略を考えておかないといけないでしょう。今のままでは危ういと思います。 といって日本の大学が頑張っていないのではありません。何処の大学も必死なのですが、世界が目指している大学の流れに、日本の政策がのっていないのです。私は非常に憂慮しています。 大学ランキングに話しを戻しますと、岡山大学は、日本の大学の中で上の方だと思われている方が多いと思いますが、実際は25位くらいで、広島大学は13位くらい。昔はもっと上位だったのです。 そう言った意味でも岡山大学はどんどんグローバル化を進めて、アピールしていかないと立ち後れるのではないかと心配しています。 岡大学長室には 郭沫若の書を掲示 岡山大学の学長室の入り口に、郭沫若氏の書が掲げられています。私が学長の時、ここに持ってきたのです。 郭沫若と言えば、中国では知らない人はいませんが、残念ながら日本の若い人たちは全く知りません。麻酔科の若い人たちが中国に来てよく訪ねてくれるので、観光案内をするのですが、郭沫若はもちろんのこと孫文とか周恩来、魯迅すら知らないというのです。 それは恐らく、日本の高校生は大学受験の時、世界史を学んでいないからだと思います。日本史を選択して世界史を捨てているからでしょう。 この書を見て、中国の人はみんなビックリされます。郭沫若について、歴史的評価はそれぞれあるのですが、しかし、中国革命における要人の一人であることに間違いなく、偉大な人物であると思います。その書が岡山大学にあるのですから。 これは、1978年(昭和53年)に岡山市日中友好協会にあったものを、大学に寄付して頂いたのです。郭沫若は、戦前日本に留学し、当時の岡山の旧制六高で学び、卒業して九州大学医学部に進んでいます。 郭沫若は六高卒業 岡山大学の同窓生 青春時代を3年間、この岡山で過ごしているのです。この間、日本人の佐藤をとみ(富子)と結婚し新婚生活を送り、子どもも、もうけています。 六校は岡山大学の前身であり、そこを卒業しているのですから、郭沫若は、我が岡山大学の同窓生なのです。 学長当時、北京の政法大学を訪れた時のことですが、中国革命に尽した人たちの伝記が並んでおり、その中に郭沫若も当然ありました。 その説明に「第六高等学校を卒業し…」と書かれており、残念なことに岡山大学の名前がありませんでした。そこで、書記の方に「第六高等学校の後にカッコで現岡山大学と入れて頂けませんか」とお願いしました。 翌年、訪ねましたら、嬉しいことにちゃんと「第六高等学校(現岡山大学)」と書かれておりました。郭沫若は、本当に多感な時代を岡山で過ごしており「第2の故郷は岡山である」と述べているのも、よく分かります。 六高を卒業した当時、岡山には医科大学がなかったため、九州大学医学部に入ります。その後、医師になることをあきらめ、文学の道に進み、その文学の才能を活かしている間に革命運動に係わっていきます。 その中で蒋介石らと袂を分かち共産党の方に行った事から、蒋介石派から追われることとなり、非常に危うい状況に陥ります。その時、彼は日本に亡命します。 魯迅を助けたのは内山ですし、郭沫若の日本亡命を支援したのも内山でした。 中国共産党の新中国で郭沫若は、副首相まで務めます。そして、当時63歳になっていた1955年(昭和30年)、 中国学術文化視察団の団長として来日し、12月の14、15の2日間、岡山にも訪れています。 六高跡や後楽園を訪問、岡山大学では約1000人の学生らを前に講演しています。後楽園を訪れた際、当時いた丹頂(鶴)がいないことに気付き、中国から丹頂を贈ることもされています。 もう一つ、新しい発見がありました。それは、私が勤めている瑞金病院に、郭沫若夫人の足跡が残されていることです。 夫人とは、岡山で新婚生活をおくった郭安娜(日本名・佐藤をとみ)さんです。彼女は1949年に夫・郭沫若を追っかけて中国に渡ります。ところが、郭沫若は、中国人・丁立群と再婚しており6人の子どもまであったのです。 安娜さんは失意の内に中国で生活していくのですが、中国政府は、彼女を郭沫若の妻として扱い、ちゃんと生活を援助していたようです。 その中で彼女は、瑞金病院に500万円を寄付して看護師養成センターを作っているのです。彼女はもともと看護師ですからね。その建物も残っており、寄付の事が病院の案内板に記されていました。 また、昨年には、郭沫若のお孫さんに当たる藤田梨那氏(国士舘大学教授)が来岡、岡山大学で講演して頂きました。藤田教授は、安娜さんの娘さんの子ども、つまりお孫さんです。 このように郭沫若と岡山との関係はたいへん深いものがあるのです。 郭沫若記念館は日本に1ヵ所、中国に3ヵ所あります。日本は、千葉県市川市で、日本に亡命していた時の旧宅を移築し記念館にしたもの。 それに中国には、出身地の四川省楽山市と、革命時代を過ごした重慶、晩年の北京の自宅を記念館にしたものです。ぜひ皆さんも訪ねてみられると良いと思います。六高のことがかなり出てきます。 私の上海での生活 便利で素晴らしい 私は現在、上海生活をさせて頂いています。実は、2年間ニューヨークで留学生活を経験しましたが、それと比べても、上海での生活は正に素晴らしい環境です。決して息子の言った「きたねぇ…」状況ではありません。 しかもあらゆる物が手に入りますし、生活は本当に便利です。国際性から言えば東京より国際性を持った都市かも知れません。 中国では、政治的には規制がいっぱいありますが、いわゆる社会面、生活面では日本の方がはるかに規制が多くて息苦しい。中国では政府の方針に逆らわなければ、何をしても自由と思うくらい規制はありません。皆さん自由に活動されています。 最近の中国では、現金を持ち歩くと言うことはありません。電子マネーで全て支払っていきます。私もここに2枚のカードを持っています。面白いのは2枚とも銀行名が〝中国銀行〟なのです。 1枚は、岡山の中国銀行のカードです。もう1枚は中国の中国銀行が発行しているカードで、私も中国にいる時使います。この中国の「中国銀行」の文字は、郭沫若の書だそうです。 上海には、岡山関係の企業や人も多く、私の生活を助けてくれています。岡山大学上海事務所もありますし、県人会もちゃんとあります。企業関係の会にも参加させてもらい、貴重な経験をさせて頂いています。 中国と日本は、選ぶことのできない隣人で、文句を言ってもしようがないでしょう。お互いに理解し合うことが大切なのです。 それには、お互いが訪問しあって、できれば住んで生活してみることです。訪日客数は年間3000万人を超えましたが、圧倒的に増えているのが中国、韓国の人たちです。 逆に、日本から中国に出掛ける人は年々減っている。また、中国に住んでいる人も残念ながら減ってきています。 原因や理由はよく分かりません。私の周囲の中国の人たちは、日本に対しイヤな感情は持っていませんし、尊敬してくれています。 チャンスがあれば 住んでみるのも ところが日本人は、中国があまり好きではないなどと平気で言っている。私が思うに、よく知らないからだと思います。自分の目で見ようとしないから。日本人は、まず中国に行ってみて、チャンスでもあれば住んでみる事をしないといけないと思います。 今後日本は、少子化で人口が減っていくと、経済的にも高度成長はあり得ないでしょう。働く人が減ると年金が成立しなくなります。正に年金が成立しない時代、それが目前なのです。 そこをどうやって生き抜くか、それを考えて見ると、どう考えても、隣国・中国と仲良くしなければなりません。日本はこれから、高度成長、大きな発展はあり得ないし、今のままの状態を続けるだけでは、沈んで行くだけです。大学も同じことかも知れません。 内山完造は、戦後、国交がまだない時代に日本で初めて日中友好協会を立ち上げ、初代の理事長として尽力しました。岡崎嘉平太も日中関係改善に大きな働きをしています。 日中友好のために 多くの岡山人活躍 こうして見ると、岡山出身の方が、各方面で日中友好のために活躍され、重要な役割を果たしていることが分ります。 それだけに、日本と中国は、政治的にはいろんな問題を抱えていますが、仲良くしなければならないのです。 そこで、政治を変えるのは私たち国民です。私たち国民が仲良くすれば、政治も変ります。そういう人たちを増やしていくことが大切だと考えています。 まずは一度中国に足を踏み入れてみて下さい。できるだけ多くの日本人の方に中国に行ってもらえるように、努力したいと思っています。 (完) この講演録は、今年2月16日開かれた定期総会で記念講演として行なわれた要旨を纏めたものです。 |
雄大な風景、長城に感嘆 生 本 久 子(赤磐市) |
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初めての北京−。日本のテレビで見ていたのとは、ずいぶん違うと思いました。 到る所に新しいビルが立ち並び、大都会です。道路は広く、街路樹や花が植わっていてきれいでした。 驚くことに、街路の植え込みにも草がほとんど生えていませんでした。 バスの車窓から気を付けて見ていると、ところどころに花を植える作業員がいました。大変行き届いているなと思いました。 また、市の中心部を離れると、古い建物を壊して、新しい建物を建設していました。そうした工事現場があちこちにあり、中国の国力を感じました。 中華料理は少し心配していましたが、どれも野菜たっぷりでおいしかったです。ビールはアルコール度が2%くらいなので、水のように飲めました。 慕田峪長城では雄大な風景に、よくこんな大規模なものが造れたものだと感嘆しました。 ここの土産物には値段が付いていなくて困りましたが、洛陽の観光地では値段は付いていました。買い物をす 最後に、旅行中お世話になった旅行会社の陳さんですが、彼は日本に滞在したことがあり、日本語ペラペラで、中国の事を色々紹介してくれました。 彼が「僕は中国が好きです。」と言っていたのが印象に残っています。 中国にまた、行ってみたいですね。今回の旅行は、旅行に慣れた方々が多かったので、何の問題もなく楽しく過ごせました。最後の晩の I さんのハーモニカ演奏、良かったです。皆さん、本当にお世話になりました。 |
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青年部 水蜜会 | 県中国人留学生学友会と バドミントン、粽作り交流 |
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青年部水蜜会では、月に一度のペースで岡山県中国人留学生学友会との交流を中心としたイベントを開催している。 初めてのスポーツイベントということで、参加者が集まるか非常に不安だったが、応援者含め16人(日本人6人、中国人10人)と予想以上に多くの参加者が集まった。 日本人ペア対中国人ペアという対決形式にし、コートの周りで両チームメンバーが応援。最初はぎこちなくスタートしたが、やはりスポーツは国境を越えるのか、試合を重ね、汗をかき始めると両チームとも白熱し、最終的には一打ごとに大きな声を出し合うほどに熱中した。 経験者は少なかったが、みんな思い切り体を動かし笑顔に包まれた良い交流となった。 また、6月2日には、同じく岡山県中国人留学生学友会主催の、端午節のイベントに水蜜会メンバーが招待を 旧暦の端午の節句、中国では粽(ちまき)を作る風習がある。一緒に粽作りを体験し、留学生の手さばきが素晴らしく、日本人一同見入ってしまった。 具材も、豚肉、あんこ、棗(なつめ)など様々で、中国の食文化に触れることができた。 今後の水蜜会イベントについては以下HPで告知予定。 https://m.facebook.com/suimitsukai/ (青年部、星野耕平・記) |
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20周年記念講演会 《8月10日13時半より》 NHK 中村源太記者 「日本を取巻く国際情勢と日中青少年交流の意義」 岡山県日中教育交流協議会 |
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講師は、NHK報道局国際部記者の中村源太氏。同氏は、岡山出身で、操山高校1年の時、協議会が主催した『第一回STUDENT EXCHANGE in 上海』に参加。 これが大きな契機となり、大学、就職と国際関係を目指すこととなったという。 現在、NHKでは語学力を活かし、中国、韓国を担当し、最近では中国・全人代の取材などで朝のニュース番組に出演するなど活躍している。 演題は「日本を取巻く国際情勢と日中青少年交流の意義」。アジア地域での現場取材に基づいた臨場感溢れる内容やエピソードも聴けそう。 グローバル教育が言われて久しい今日、国際的に活躍する人材が求められている。高校生など若い方の参加を募っている。 参加費無料 【問合せ先】 岡山県日中教育交流協議会事務局(☎086−225−5083)もしくは当協会事務局まで。 |
会員消息 |
【入会者】 石川 鈴子さん(岡山市) 近藤 美江子さん(岡山市) 生本 久子さん(赤磐市) 株式会社林原(岡山市) |
活動日誌 | |||
5/ 4…洛陽市民族宗教局訪日代表団来日(~8日) 5/11…県日中教育交流協議会総会・理事会 6/ 3…洛陽医療検診訪日団来岡(~11日) 6/ 5…神戸中華同文学校訪問(蘆志鴻氏同行) 6/13…㈱アジア・コミュニケーションズ第30期株主総会 6/17 …中国語センター企業研修講座開講 6/20…本年度第3回理事会開催(協会事務所) 6/23…中国語検定試験(岡山ビジネスカレッジ) 6/28…「岡山と中国」会報発送(協会事務所) |
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先憂後楽 | |||
4月から5月にかけ、あわただしい日々を過した。4月21日~25日まで岡山市民訪中団で北京と洛陽へ、5月4日~8日には、洛陽から白馬寺印楽方丈ら宗教局訪日団を迎え、岡山、奈良、京都、大阪を随行し、17日~20日まで台湾の保安宮芸術文化祭に参加、23日~25日には高校生交流の事前調査のため上海を訪問した。 週明け27日、訪問のまとめや整理などをしなければならない時に、夜中から尿路結石が動き出し急遽破砕術を受けることに。火曜日に石は降りたかなと油断していたら、水曜日の朝から背中に激痛が走り、再度病院へ。『腎臓の中に潜んでいたもう一つの石が動いたようですね、今日割りましよう』と若いドクター氏。すぐに第2回の破砕をしていただき、長く体内に留まっていた2個の石は、金曜日になってほとんど外に放出された。 お世話になった方、同行した方へのお礼や今後の対応を考えるべき時期に、その時間もないままバタバタと時間は過ぎ、新たな問題や課題が容赦なく降りかかる。 案外、人生もそのようなものかもしれないと悟った気になった。あの内山完造翁は「花甲録」をしたためている。引退し、時間が出来たらこれまでの半生を振り返り、記録を整理したり、読み返したりして自分史でも書くかな、と思っているうちに、きっとどうにもならない事が起きる。「常に備えよ」だ。 (松) |