ʼ21年は協会設立40周年
2020年6月
令和2年6月
  263号

発行人 土井章弘
編集人 松井三平

 《皆様のご協力に感謝します。助け合いの交流は深まりました。コロナ終息に共にがんばりましょう》
県病院協会にマスクを寄贈
5千枚を県内の医療現場へ
 

土井会長(左)から板野局長へ贈呈
  岡山市日中友好協会(土井章弘会長)は、会員中心に募ったコロナウイルス感染防止のための募金により、5千枚のマスクを購入し、このほど、岡山県病院協会(難波義夫会長)に贈呈した。

  5月1日の贈呈式には、土井章弘会長と松井三平専務理事が、岡山市北区駅元町、県医師会館内の同協会事務所を訪問。
 同病院協会の板野一郎事務局長に、贈呈目録とともに5千枚の入った段ボール箱を手渡した。

  土井会長は「会員らの協力で集まった寄付で購入しました。是非とも医療の現場に役立ててください」と挨拶。  
  板野事務局長は「大変ありがたい。県下の病院に打診し、早期に必要なところに届けたい」と感謝の言葉を述べた。

  友好協会では、コロナ禍が拡大してきた今年2月初めからコロナウイルス対策募金を呼び掛けてきた。募金には、岡山大学の留学生らも協力して、総額46万7千500円の浄財が集まった。
  友好協会では、この募金を活用し3月には岡山市とともに友好都市の洛陽市に2千枚を贈っている。
  今回の病院協会への寄付は、残りの浄財でマスクを購入、コロナウイルスと格闘する医療関係者に贈ったもの。

総贈呈量は7千枚
  これで友好協会が贈呈したマスクは、総計7千枚になる。一方、岡山側に対しては洛陽市や岡山外語学院中国校友会からマスクが贈られてきている。コロナ禍を通して日中の助け合い交流は一層深まった。
 
特 集 岡山市日中友好協会設立40周年記念
  「市民みんなで日中友好」理念に
 先人の切り開いた伝統受け継ぎ

  岡山市日中友好協会が1981年(昭和56年)産声をあげて来年設立40周年となる。赤木五郎初代会長から六車清茂、三島伯之、片岡和男、片山浩子、そして第6代の土井章弘会長へとバトンが渡され走り続けてきた40年である。その歴史は、困難な時代に先人が切り開いた日中友好の伝統を受け継ぎ、ひたすら〝市民みんなで日中友好!〟を貫き通し活動してきた会員や市民の足跡でもある。たかが40年、されど40年…。ここで、この貴重な歴史の記憶を記録し振り返り、新時代を担う人々に伝えていくことこそ、活動に関わってきた一人としての責任であると思っている。   (専務理事・松井三平)

〈1〉設立時の時代背景と出会い
  1980年(昭和55年)12月6日、岡山市の城下、電車通り沿いの禁酒会館で、ある会合がもたれた。その2年前には、懸案だった日中平和友好条約が実現していた。
  会合の名称は「岡山市日中友好協会再建準備委員会」。松井も参加した。これが、当協会の最初の歩みである。
[再建総会]総会宣言を高らかに読みあげる赤木五郎会長(中
央)。新たな日中友好運動の幕開けとなった。(1981年9月12日)
  そして1981年(昭和56年)9月12日、岡山市研屋町の農業会館で「岡山市日中友好協会」〝再建総会〟が開かれ、正式に活動をスタートした。

  そこで、私(松井)の日中友好活動との出会いについて少し説明しておきたい。
 私は、京都府南丹市園部町の出身。そこは、兵庫県にまたがる丹波地方の中でも口丹波と呼ばれているところで、丹波の代名詞のように言われている〝丹波篠山〟は隣町になる。

  産物といえば、松茸以外に最近では黒豆(丹波黒)でも知られるようになってきた。明智光秀や出口王仁三郎(大本教創始者)など『反逆児』が育ったところとしても知られている。
  中学、高校時代は吹奏楽部に没頭し、勉強は真面目ではなかった。岡山との縁は岡山大学に入学したことによる。
  将来は女子高校の英語の先生にでもなれればという不純な動機で英文科に進んだため、英語も中途半端に終わっている。

  中国との出会いは、学生時代隣に住んでいた徳島出身の理学部の先輩の影響が大きい。彼はどこかの政治党派に所属していて、毛沢東に心酔していた。
  なんとなく危なっかしい人物かなと思いながらも、おおらかな人柄に魅力を感じていた。日曜日には表町の丸善書店へ出かけ、昼は讃岐うどん屋でお昼を食べて帰るというのがお決まりのコース。彼から新中国のことを学んだのが中国を知るきっかけになった。
日中友好協会の創始者
内山完造氏

  私は、その後、社会人となって、大手の就職情報会社に勤務した。給料も良くサラリーマン生活もいいなと考えていたこともあった。
  しかし、どうしても学生時代に聞いていた中国のことが頭を離れず、思い切って会社を辞め、大阪で募集していた関西青年訪中団に参加した。

  この訪中団では、約3週間にわたり、北京、上海、南昌、井崗山などのいわゆる「革命聖地」を巡りながら、ほぼ毎日のように地元青年組織との討論会や交流会などに参加した。
  新中国の息吹とともに、文化大革命の影響がまだ色濃く残っていた時代に参加したこの訪中が、私のその後の中国との関わりの原点であったと思う。1977年(昭和52年)のことだった。

  帰国後、岡山の友好協会の門をたたいた。当時、日中友好運動といえば組織的混乱の時代で、日中友好協会(正統)岡山県本部と言っていた。
 中西寛治氏との運命の出会に
 岡崎嘉平太氏も講演で協力

[前史:毛沢東主席と会見]戦後の岡山の日中友好運動は早くスタートした。
 その1つが1956年の岡山県学術文化視察団の訪中だった。その時の毛主席との会見写真。中央の毛主席に向って左側に林修一団長、隣が郭沫若、右側に川﨑祐宣副団長、中西寬治秘書長。これらの人達が草創期の活動をになった。その後、分裂や混乱の時期を経て岡山市日中友好協会設立へとつながる。
 (1956年11月18日、北京・勤政殿)

  入って見ると、若手不足と人材不足のため、すぐに青年部長、岡山支部事務局長という肩書を仰せつかった。
  岡山の日中友好協会の初代事務局長で、内山完造氏と交流の深かった中西寬治氏との出会いもこの頃だった。
  当時の岡山支部長は吉岡一太郎氏(当時、岡山ヤクルト販売会長)だったが、その吉岡氏の紹介で、中西さんに会った。

  中西さんからは、岡山と中国との友好の歴史について、また事務局長としての心得、会計処理方法、組織運営、人との接し方、人間としての生き方などなど、多岐にわたり教えていただいた。
  ミーティング場所は、岡山市国富のご自宅か後楽園の駐車場(当時は無料開放)が多かった。週に最低1回、2~3時間は話していた。
  中西さんは、その頃は既に友好協会の組織を離れ、「内山完造顕彰会」や「郭沫若先生を迎える会」などの事務局長として活動していた。

  友好活動を始めた時、まずぶつかったのが、政党色の濃い組織との軋轢だった。
  当時、日中友好組織といえば、全国的にも政党関係が絡んで分裂と混乱の時代だった。岡山県でも、一部政党の組織的なかかわりが強く、市民組織とは言えない状況だった。
  もっと一般の市民が参加しやすい団体に出来ないかと考え、各方面に相談し、組織そのものを作り変える以外に選択肢は無いという考えに至った。

  1978年に日中平和友好条約が締結され、政府間はもとより、全国の県、市町村レベルで中国との友好都市関係を締結するなど、日中の友好ムードが盛り上がっていた。
  その時代の流れを背景として1980年開かれたのが「岡山市日中友好協会再建準備委員会」だった。準備委員には、村上栄(岡山大学医学部教授)、江草安彦(旭川荘児童院院長)、山本修一(西大寺商工会議所常議員)、吉岡一太郎(岡山ヤクルト販売会長)、華山恵光(岡山県仏教会会長)、中西寛治(内山完造顕彰会事務局長)、形山貞夫(中国医学研究会岡山支部長)氏ら(肩書はすべて当時のもの)が参加し、村上氏が準備委員長に就任した。

  その後、会を重ね、村上氏の推薦で赤木五郎氏を再建総会の呼びかけ人代表にすることが決まった。
  赤木氏は岡山大学学長、県立大学学長、川崎医大学長などを歴任し、当時の長野士郎県知事の後援会長など多くの肩書を持っておられた。
  会長就任のお願いのため、曹源寺の門前にあるご自宅に何度か伺ったが、怖そうな番犬がいて、赤木先生も私にとっては雲上人のような存在だったので、いつもドキドキしながら門をくぐったのを今でも思い出す。

  こうして諸準備が整って、1981年9月12日、農業会館に、発起人ら約100名が集い、岡山市日中友好協会再建総会が開催された。
  会長には赤木五郎氏、副会長には村上、吉岡、山本、江草の各氏ら5人が就任。理事には現在も副会長として活躍されている宮本光研氏らとともに、私も事務局長として末席をけがした。
  私はその後今日まで事務局を担うことになるのである。
  スローガンは「市民みんなで日中友好!」だった。

  また、岡崎嘉平太氏(日中経済協会常任顧問)には、多大なるご支援、ご協力をいただいた。岡崎先生にはその後何度か大きな行事のある時にはご講演をいただき、協会特別顧問にも就任いただいた。
  来岡時の常宿は城下にあった『後楽』で、何度かお迎えに上がったのを思い出す。講演のお礼を申し上げると「岡山と日中友好のことならいつでも来ますよ」とやさしくお話しいただいたのが印象に残っている。
  新生「岡山市日中友好協会」はこうしてスタートした。
 
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相澤孝夫氏相澤病院最高経営責任者 松本日中友好協会会長)講演録〈上〉
 相澤病院が推進する中国との医療交流

  世界から来て頂ける病院づくり  
  地域の病院の将来のため考えた

  相澤病院の相澤孝夫です。この会にお呼び頂きましてありがとうございます。私にとって岡山は記念すべき思い出のあるところですし、今後とも友好を賜りたいと願っております。

  さて、最初は、私たちが取り組んでいます相澤病院のことについて少しお話ししたいと思います。
  相澤病院は、長野県松本市内で救急医療と急性期医療に取り組んでいる病院です。山で遭難する方やスキーでけがをする人が多くて、そんな方がヘリコプターで運ばれてきます。
  街の中にある病院ですが、なかなか狭い地域の中で苦労してやっております。
  1908年(明治41年)に私の祖父が相澤病院を立ち上げたのが最初です。私は理事長としては3代目、院長としては4代目です。
  中国から患者さんに来て頂こうと思ったのは、2013年(平成25年)くらいからです。なぜかと言いますと、今、日本は人口が急激に減ってきていますね。

  県の人口減が激しい  わが病院の将来は…
  特に地方の長野県は人口の減り方が激しいのです。ところが、私たちの相澤病院はというと、人口がどんどん増えている時に(増加に合わせて)病院を造ってしまっていたのです。
  このまま人口減が進んでいくと、恐らく10年か15年もすれば、病院は〝余って〟しまう。だとすれば、中国なりアジアから患者さんに来て頂かないといけないことになる。そのことを将来のために考えておかねばなるまい、ということで、そういう方向に向かったのです。

  その後、JCI(日本医療機能評価機構)認定や陽子線治療センターの開設、世界基準の病院の資格取得などを進めました。そういう資格を持っていると、世界から、安心して来てもらえるそうなんです。
  JCIの取得は全国で6番目と早かったのですが、その審査に世界から委員がやって来た時「何でこんな山の中の病院がJCIを取るのだ?」と不思議がられましたよ。
 しかし、今になって効果が出ています。これがあるから、海外から患者さんが安心して来られるのです。

  外国人患者受け入れ  拠点病院になろう!
  そのうちに、(患者さんを)日本に来てもらうだけでなく、こちらから中国に出向いて行って、日本の医療の進んだところを知って頂いたらどうか、ということになりました。
  そのことは、中国の方のお役にもたつことですから、中国に出掛けて行って活動しようと始めたのです。
  そして、外国人患者受入拠点病院とかジャパンインターナショナルホスピタル推奨病院等の認定や認可を取っています。
  実は、1995年(平成7年)に松本市は、河北省の廊坊市と友好都市協定を結んでおりました。ちょうど北京市と天津市の中間に位置する都市です。

  廊坊市の病院を見学   医療交流のスタート
  人口は何と800万人。24万人の松本市とは比較にも何にもならないのですが、その廊坊市の市長が、医療体制を何とかしたいということで医学訪問団を送られ、相澤病院に来られたことが、交流のきっかけです。
  私たちも、どんな状態なのか廊坊市の病院を見に行きましたが、ちょうど戦後すぐの相澤病院のようでした。その時、何かしてあげようということで相澤病院にある医療機器を20点ばかり寄付しました。
  ところが、医療機器と言いますと「軍事に転用される恐れがある」とかで、もめにもめて1年近くかかったことを覚えています。

  そんな交流を通じて感じたのは、お互い話し合うといろいろと面白いし、お互い知り合って人となりを知ると非常にお付き合いしやすいと言うことです。
  中国の方々は一度知り合いになると、ずっと絆というものを何時までも大切にしてくれます。
  当時、私たちの病院に来ていた中国人の看護師や医師達が、当時の廊坊市には救急車が無かったことから、ぜひ救急車を導入すべきだと市に提案し、救急システムを作り上げ、救急外来を設けたということもありました。
  そうこうしているうちに、天津市の病院関係者から声が掛かり、地方の病院の状態を知りたいということで、うちの病院に来られたことがあります。

  天津へも交流が拡大   職員の相互交流も
  私もその天津市の病院に行って見ましたが、もう日本の超一流の病院とほとんど変わりません。天津市は人口2千万人程度の大都市ですが、そこの心臓関係の病気を一手に引き受けているような超最先端の病院なのです。
  中国の病院というと、最先端を走っている病院と、普通の医療をやっている病院とに分かれており、この差が大きいのが現実だと思います。
  また、天津市関連ではリハビリ施設の運営協力や、高齢者医療介護に関する協力等とも取り組んでいます。
  このように、最初、廊坊市との交流が始まったことをきっかけに、職員の相互交流や友好病院の提携も進み、どんどん交流が広がっているのが現状です。
  もう一つは、中国人の看護師や理学療法士を相澤病院で育成しようという取り組みです。向こうで希望者を募集して選抜してもらって、来てもらう訳ですが、混沌とした中での取り組みでした。

  日本に来る前に日本語を学んでもらうための日本語学校の運営もしました。これも非常に大変でした。
  その時に、やって来られた方達ですが、現在、相澤病院で働いている人、日本各地で看護師として働いている人、中国に帰った人と様々です。
  そんな人達と年2回くらい食事会をするのです。困った事とか大変な事とか、話し合っています。先輩と後輩がお互いに教え合ったり、見ていると面白いです。

  日本という国はなぜ   こんなに安心安全 !?
  当時来た人達が異口同音に言っていたのは、日本という国はなんでこんなに安心して安全に過ごせるのか、という事でした。しかし、なかなか町内会のお付き合いなどは難しいみたいでしたね。
  こうして国家試験に合格して巣立っていくのですが、中国人看護師さんの評判は、ともかく一生懸命やってくれるということで、感謝の手紙を幾つか頂いています。
  病院内では、やはり考え方とか意見の出し方が、日本とちょっと違います。日本人は、どちらかというと遠回しに意見を言いますが、中国人はストレートに言いますから、ちょっと違うよね、となる。その辺はありますが、みんな仲良く仲間としてやってくれております。
  そこで、こう言った事業を進める中で、一番の注意点について話しましょう。

  まず一番の注意点は   しっかりした契約書
「相手は“知らない”ということを理解してやらないと−」と相澤氏
  それは、最初にしっかりした契約書を作って、一人ひとりやる事です。人には個人差があり様々です。日本人だって同じです。
  私どもは、修学期間中の生活費、学校で掛かる費用、そういった費用を全部病院で負担しています。そして4年間病院で働けば、返さなくてもよいとなっています。
  これを、きちんと契約書でお互いが合意してやっていくことが非常に大事です。それをいい加減にやると、トラブルになります。挙げ句の果てに「中国人はケシカラン」とおっしゃるのですが、そんな方には「あなたの方が悪いのですよ」と申し上げたい。
  きちんと契約して、お互いが理解し納得しあった中で始めるべきです。これは日本人の場合も同じです。

  もう一つは、中国など漢字圏の人と、それ以外の人とは分けて考えることです。
  うちには、漢字圏以外のインドネシアやフィリピンの方も来られます。留学生として来られた方ですが、漢字を見て「これは面白い〝絵〟ですね」とおっしゃる。
  漢字も〝絵〟という概念で見られるので、漢字が全く通じず大変でした。差別する訳ではありませんが、分けて考えなければならないでしょう。もうビックリですよ。
  中国からやって来た看護師さんらに「一番困ったことは何か」と聞くと、学校で習った日本語が通じなかったことだと言いますね。勉強した日本語と実践的な日本語とは全然違うようです。我々の英語の場合と同じですね。

  日本流“暗黙の了解”  外国人には通用せず
  もう一つは生活面です。中国の生活習慣と日本のそれは全く違うのです。自転車の走り方、家に入るときの履き物の脱ぎ方等々、一つ一つ教えてあげないといけません。
  日本には、誰でも知っているから(常識だから)言わなくていいという〝暗黙のルール〟みたいなものがあるでしょう。
  しかし、風習も文化も違う外国から来た人には、一から一つひとつ教えないとならないのです。そういう状態にある事を分かってあげず「ケシカラン」ではいけないと思います。
  日本という国が、本当にグローバル化しようとするのだったら、生活に係わるルールについても「知らないんだ」と思ってあげることも、大事なことではないかと思います。

  それから、いろんな資料とかパンフレット、試験内容とかあるでしょう。これも彼らにとっては分からないと言いますよ。分かっていないことを理解してあげる事も大事です。
  レポートを書くことも大変なようです。私たちは日本語学校に通っている人には1カ月に1回、生活レポートを書いてもらっていました。レポートを書く時の訓練になりますから。

  “微妙なニュアンス”  これも「分からない」
  就職して困った事は、コミュニケーションの難しさだと言います。日本語特有の〝微妙なニュアンス〟というのがあるでしょう。
  最近は、日本人でも、若い人すらお年寄りの言っているニュアンスは分かりませんから、当然、外国から来た人には無理です。そのことを理解してあげないといけません。
  よく地域でもめるのは、貸与して住ませているマンションの〝ゴミ出し〟です。「何曜日は何で、何時までに出せ」というものです。
  留学生にゴミの分別など分かる訳がありませんから、しょうが無いから、病院の職員が処理に回っています。
  また、病院にはいろんな団体から視察が来ます。すると中国の団体となると、大きな声で喋るとか、勝手にどんどん前に行くとかあって「あの人達はマナーが悪い」とかの声が出る。
  気持ちよく日本で勉強してもらい、見学してもらえるように留意してやっております。

  中国での医療事業は  リスクが高く難しい
  中国での事業ですが、当初、現地に病院でもつくろうかと思ったのですが、それはあまりにリスクが高いので止めました。
  それで、北京にある北京天壇医院と組んで、普華医院リハビリセンターを運営することになり、2015年(平成27年)から始めました。
  中国で医療事業をするのは大変難しい。厳しい法律があるし細かな規約もあって、一方、医療法人の場合、日本側の法律・規約も関係してきます。
  私たちは、中国の弁護士さんで日本の法律にも詳しい人にきちんと係わってもらって進めました。おかげで何のトラブルもなく、今、やれております。
  各国それぞれ法律が全然違うということを理解して行く必要があると思います。
  そんな関係もあって、国の方から「訪日治療相談室」といったものを開いて欲しいとの依頼がありやらせて頂いております。

  中国の方で、日本に来て治療を受けたい方の相談を受けて、その方が希望する病院をご紹介するという業務です。この仕事を始めて気付いたことは、日本の病院の受け入れ体制が十分でないということです。
  パターンが3つありまして、まず来て欲しいと強く思っている病院と、来て欲しくないと思っている病院、そして最後が絶対来て欲しくない病院です。
  ですから、これらをうまく宣伝しないと、後から問題になると思っています。必ず、日本の病院を紹介する時は、その病院の経営体制がどうなっているのか等を十分熟知しておかないと失敗します。そう強く感じましたね。

  外国人患者受け入れ   体制整備が不可欠
  日本できちっとやっていくためには、きちんとした契約を結んで「何処まで誰が何をするのか」を決めないとトラブルのもとになります。
  もう一つは、中国語のパンフレットをきっちり作っておくことが極めて大事ではないかと思っています。業務的には、外国の患者さんが来られた時、しっかりとした医療通訳ができるような体制にしておくことが重要です。医療の言葉は非常に特殊ですからね。
  また、病院としては、院内の掲示板とか表示を、中国人に来て頂きたいのであれば、中国語の看板を表示しておくとかも大事です。

  医療滞在ビザも問題   ここにも配慮がいる
  このほか、医療滞在ビザは期間が決っており、治療の状況によっては期間内に済まないこともあり、その場合どう対応するか、こんな事も考えておかないといけません。
  そういった小さな細かなことをキチンとやっておかないとダメなのです。
  私たちの病院には、外国から来ている人は3年間に38人しかいませんが、圧倒的に中国の人が多いです。ほとんどの方がドック(健康診断)です。フォローアップを希望される方もいます。

  陽子線治療に内モンゴルから来られた方の場合は、ちょっと熱が出たと言っては国際電話を掛けてくるのです。そんなの現地で治療してくれれば良いようなものの、そこまで頼りにされているとなると、病院として嬉しくもあり親切にお答えするのです。するとまた電話…。
  こんな交流が何時までも続けば本当にいいですね。
  この陽子線治療は、お子さんのガン治療にも良いのです。子どもさんを連れてこられる訳で、家族の方も必ずいっしょです。

  北京では患者会も  こんな交流は嬉しい
  治療は1ヵ月くらいかかりますので、家族の方とも仲良くなります。私もたまに病室に行って、子どもさんとハイタッチですよ。こんな関係は医療の持つ一つの良さかも知れません。
  そうして、年1回程度、治療後の状況確認・フォローアップの意味も含めて北京で患者会というのを開いています。患者さんと家族の方が集まってガヤガヤやって帰って来ます。
  こういった少しずつの努力の積み重ねが、強固な関係性を築いていくのではないかと思っています。
(以下、続きは次号に掲載します。次号は「松本日中友好協会の活動について」です)

  少しずつの努力の積み重ねが
  強固な関係性を築くことになる

 
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 中国語〝音読道場〟「浪乗り会
                講義再開で参加者を広く募集中

  今年で発足10年を迎える独特の中国語レッスン方式『浪乗り会』。コロナウイルス感染防止のため一時中断していたが、6月にリニューアルして再開した。
協会事務所でのレッスン風景

  内容は、ひたすら大きな声を出して読む〝中国語音読道場〟で、今回、一工夫凝らした上に新たな受講者も加わり盛況なうちにスタートした。
  講師は、黒住昭子氏と国定剛氏の二人がボランティアで務めている。

  受講料は、受講1回500円で、出欠連絡は不要とユニーク。毎週水曜日午後6時半から同8時半まで、ひたすら大きな声を出して中国語を読む。
  これは、日本の中国語教育の草分け的な存在であった中山時子氏(故人)が編み出した勉強方法。

  同会では、多くの中国語学習者の参加を呼び掛けている。連絡先は、当友好協会事務局(電話086−225−5068)まで。

  ◇黒住昭子講師の話…………
  中山先生独自の勉強法を受け継ぎ、毎週地道に続けて来ました。中国語を長年学んできた人も始めたばかりの人も、一緒に学べる場は貴重だと思います。常に基本に立ち返り、ひたすら音読する。それにより、これからも中国語の奥深い世界を楽しむ人が増えることを期待しています。多くの中国語学習者の参加をお待ちしています。

活動日誌 
 5/ 1…岡山県病院協会へマスク贈呈(土井会長、松井専務理事)
 5/11…中国語センター打ち合わせ会(事務局)
 5/29…協会事務局員・平野さん退職
 6/ 1…協会初中級中国語講座開講(事務所)
 6/ 3…会報編集会議(協会)
 6/12…岡山市との協議(岡山市国際課)
 6/15…会報データ化打ち合わせ(山本理事・事務所)

先憂後楽
  先日、ある中小企業の経営者が集まるZOOM会議に参加した。兵庫県で7店舗経営している飲食業の社長は、コロナの関係で、3カ月で約1億円の手元キャッシュが消え、倒産、廃業を真剣に考え、弁護士にも相談に行ったという。一方、社員のやる気とチームワークで、宅配やテイクアウト、新商品開発などを行い、盛り返してきていると報告した。社員が自ら提案し、行動して難局に立ち向かっている姿に、再起を期して頑張ろうという気持ちになっていると熱く語った。

  いまコロナ禍の中で、多くの企業が、持続化給付金や、雇用維持のための雇用調整金などの国の助成制度で生き延びている。小生が任されている旅行会社もその支援を受けながら、旅行需要の復活の時のために、お客様との連絡を絶やさず踏ん張っているところだ。

  ただ、支援を得て、長期の借金もしてウィズコロナ時代を生きながらえて終息後、果たして以前の状態に戻るのか?旧態依然のやり方だけでは市場に対応できなくなるのではないか?その見通しを持っていなければ、持続的に発展できないのではないか。

  新たな生活様式で言えば、交流を大きな柱とする当協会の活動も新たな活動スタイルが求められる。上海市からZOOMで高校生交流をやろうと提案がなされている。リアルの交流ができなくても相互交流の方法はある。

  航空便や渡航制限が緩和されて、リアル交流ができる日を待ち望むと同時に、今できることを見つけ、新たな交流スタイルにも対応していける協会でありたい。   (松) 



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また、ご入会いただくと、毎月お手元へお届けいたします。入会案内をご覧ください。


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