ʼ21年は協会設立40周年 2020年8月 令和2年8月 264号 発行人 土井章弘 編集人 松井三平 |
特 集 | |||
富田町交差点角に事務所を開設 留学生交流や映画会等活動多彩 |
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〈2〉協会創立当時の記憶と記録 (専務理事・松井三平) □事務所開設 設立総会を準備する段階から、事務所探しを始めた。確か吉岡一太郎副会長(当時)のご紹介だったと記憶しているが、富田町交差点の北西の角にある建物の2階を借りることになった。 現在、1階にコンビニが入っている建物で家賃は5万円だった。入居の敷金や当座の運転資金を吉岡さんからお借りした。当時1階にはほっかほっか弁当の第1号店が入居していた。 私にとっては初めての専従生活の始まりだった。給与は5万円と決められたがまともに払えた月はなかった。足らない生活費は塾講師などのアルバイトで稼いだ。 事務所は10坪くらいの狭いスペースで、机や応接セットなどは県庁の廃棄用品を頂いた。 この富田町の事務所には3年間ほどお世話になり、その後、今も借りている錦町の田辺ビルに移ってきた。 設立当初からの会員であるAMDA代表の菅波茂氏は富田町の事務所を「発祥の地として残したら?」と言って頂いたことがある。確かにスタートアップ時の凝縮した熱い時間を過ごした場所であり、富田町の交差点を通るたびに当時のことを思い出す。 菅波氏とは、同氏が中国から中国医学の先生を招聘し『傷寒論』などの東洋医学連続講座を実施された時に協会として取り組んだり、太極拳同好会を開設したりと、共に活動させて頂いたことが思い出される。 □活動開始 組織的な整備と並行して、まず始めたのが中国人留学生との交流会や実践中国語講座開講、現代中国映画上映会、そして日中友好青年キャンプだった。 意識したのは岡大の学生や青年活動の組織化だった。ほとんどの事業は事務局を中心に、学生や青年組織の主体的事業として運営した。 当時の中国人留学生はすべて中国政府の国費派遣で、中国全土から優秀な希望者が集められ、中国東北部での合宿研修を経て、日本各地の大学に派遣されていた。 岡大への留学生達は卒業後、岡山に残りドクターになった人や民間企業に就職した人がほとんどだった。 □実践中国語講座開講 協会で開講した実践中国語講座の講師を河南省鄭州市出身で岡大留学生の王賓さんにお願いした。 私自身が中国語をマスターしたいと強く思い、同志を募集したところ、10人近くが集まり、協会内の教室で熱心に受講した。 王さんは発音に厳しく、巻舌音、有気音、無気音など、日本人にはなかなかマスターできない中国語発音の基礎を徹底的にたたき込まれた。 当時、中国語ブームのようなものがあり、協会講座に通っていた朝日新聞社の支局長が支局の会議室を使って講座を始めたいと募集したところ20人以上の受講生が集まった。 協会と朝日新聞講座生徒の発表会で、桃太郎の寸劇を中国語で披露したのが思い出に残っている。 王賓さんは卒業後、ダイキン社に就職した。後日、私が石垣島への旅行で添乗していた時、偶然、宿泊先の全日空ホテルで再会し感激した。彼は会社の社員旅行で来たと言っていた。彼とはその後連絡はとれていない。 □日中友好青年キャンプ この活動は1年に1回、夏の活動として始めた。中国人留学生と協会員等約50人が参加し、テントを張り、一緒にカレーラースを準備したりキャンプファイヤーを囲み、歌や踊り、自己紹介などをしたりして交流した。 笠岡の白石島、牛窓の前島、宇野港近くの喜兵衛島などで実施した。雨天に見舞われたり、ケガ人が出たりとハプニングもあり、苦労も多かったが、やりがいのある活動だった。 北京放送局からキャンプ場に向けて生放送でメッセージを送ってもらったりして、参加者が感激していたことを思い出す。 □現代中国映画上映会 現代中国映画を紹介しようと始めた上映会は10年くらい続いた。 「紅いコウリャン」「黄色い大地」「人到中年」「菊豆」など感動的な話題昨をビブレ岡山(当時)や西川アイプラザの会場などを借りて上映した。 特別編として「孫文」や「未完の対局」などを福武観光さんの協力を得て劇場で大掛かりにやったこともある。 チラシ作成からチケット販売、ポスター作製、フイルムレンタル、当日の映写機操作などすべて青年組織で実施した。 チケット販売会議では専従職員の私とボランティアの青年たちとの温度差もあり、ノルマに対し喧々諤々の議論をし、実行委員を辞めていく者もいた。私も赤字を出すまいと必死だった。 □会報発行 現在の会報「岡山と中国」の創刊号は1983年2月25日付となっているが、協会設立後2年間は会報が発行できなかったため、それまでは「会員通信」として、ガリ版やワープロで作成していた。 その第1号が1982年5月1日付で発行され、その後83年1月25日付の7号まで続き、会報「岡山と中国」の創刊号につなげた。下の写真は「会員通信」第2号で、ガリ版刷り2ページだった。 設立当時の行事の様子やかかわった人々の紹介など貴重な記録となっている。 何故か6号だけが欠番となっており、会員の方でまだお持ちの方がおられたら教えてほしい。 「会員通信」No. 2 号 上部右部分の拡大図 |
相澤孝夫氏(相澤病院最高経営責任者 松本日中友好協会会長)講演録〈下〉 | |||||
松本日中友好協会の活動について | |||||
若い人達を日中友好の輪に 今回は、松本日中友好協会の活動についてお話ししたいと思います。 創立されたのは、1981年(昭和56年)5月です。この長野県は、旧満州に開拓団として行かれた方が非常に多かったところです。最後は葫芦島から引き揚げてこられたわけです。 そういう想いがあって「葫芦島市と仲良くしよう」といった人達が中心となり、中国大使館にも働きかけて、発足しました。 ですから、かなりご高齢の方も多く、中国にまで行くのはたいへんだとして、それなら〝日本の中にある中国〟である中国大使館と交流しようとなったのです。 このころから、中国大使館との交流を一本の柱として活動して来ました。2003年に私が会長になった後も、当時、駐日中国大使だった王毅さんや、後任の程永華大使にも松本に来て頂きました。 もう一つのポイントとして2012年4月に、中国大使館にしだれ桜と藤を植樹しました。しだれ桜というのは千年以上の寿命があるそうで、千年以上末永くお付き合いしていきたいとの気持ちを込めたものです。 植えてお終いではなく、毎年2回、剪定や消毒など木の具合を見に行くのですよ。すると〝いっしょに食事でもしよう〟となり、また交流が始まります。毎年4月には、観桜会をやっています。 大使が来られた時には、相澤病院には大勢の中国の人が働いていましたので、大使に病院に慰問に来て頂いて、中国の人達を前に〝頑張りなさい〟と励ましてもらいました。中国の人達にとっては、大変励みになり、頑張ろうという気持ちになってもらえたようでした。 もう一つ始めたことは、定期総会には必ず大使館からどなたか来てもらい、中国の最近事情について話してもらうことです。日本について中国の人がどう見ているのか、これを知ることにもなります。 日中友好写真展も開きました。昨年は中国大使館の外交官が撮った写真を展示しました。中国人が見た日本はどうなのか、どんな写真を撮るのか、興味がありました。 ただ、内部的には非常に大きな問題がありました。会長になって一番の問題点は、会員の方の高齢化ということで、80歳以上の会員が半数以上おられました。 勢い、身体が不自由になって出席できないとか、お亡くなりになる方も出てきて、会員数が減ります。すると会費収入が減り、十分な活動もできなくなり、マイナスのスパイラルに陥ります。 財政基盤の強化が急務と考え、イベントをしてその収入を注ぎ込んだり、若い人達を中心に会員の増強を図りました。 2017年には、孔子学堂にお願いして、中国語講座を毎月開くようにしました。孔子学堂は、中国が文化や言語を日本に伝えようという組織で、中国語の教科書などを無償提供してくれるのです。特に若い人を対象に実施しています。 また、2018年には、廊坊市との交流が途絶えておりましたので、民間同士の交流をしようと、訪問団を送りました。 そして、もう一つは、私たち役員が高齢化してきているので、せめて50歳代の人達に2年後には交代していきたいとのメッセージを発しました。本当に、若い人達に引き継ぐことを考えています。 こうして、観桜会とか中国語講座納涼懇親会、友好都市中学生卓球交流大会、表敬訪問団派遣とかいろいろと事業をやっていくのですが、そこで大変だと思ったのは、若い方々の中国に対するイメージが、なかなか良い方向に向いていないということです。 訪中団を計画しても、参加するのは、現役を退いてお金と暇のある高齢者ばかり。若い方々は参加しない。 松本にある信州大学の教授に聞いても、提携している河北医科大学からは中国人学生がどんどん留学して来るのに、日本人学生は中国に全然いかないそうです。 若い人が、中国は怖い国だとか、変な国だとかそんなイメージを持っているのは事実です。現実とは全く違うのですがね。今後、どんな活動をすれば良いのか模索中です。やはり私は、あきらめずに少しずつお互いに良いところを認め合いながら、また、違うところもお互い許容しつつ、友情を育て、世界の平和をしっかり守っていくのだということを、強く訴えていきたいと思っています。 若い人達をどうやって日中友好の輪の中に巻き込んでいくのか、これが大きな課題だと思っています。 どうしても、昔中国で大変な事態に面した方々は、昔の中国が念頭にあって、何かをして差し上げるとか、面倒を見てあげるとか、そんな感じになる。 しかし、現実には、中国は今ものすごい勢いで発展しています。世界第2位の経済大国でしょう。昔の様な中国では全くありません。 そういう国であるし、そういう国と未来を創っていくために、どうすれば良いかを、我々は真剣に突き詰めていかなければならないのです。 岡山市日中友好協会の皆さんと一緒に交流しながら、若い人達を巻き込み日中の明るい未来を創っていきたいと思っています。 |
「黃霊芝物語」を発刊 岡﨑郁子氏が研究の集大成として |
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黃霊芝は、台湾人作家で小説や短歌、俳句、随筆など幅広いジャンルで活躍、しかも、日本語での作品を書き続けた〝異端〟の文人。2016年87歳で没している。 岡﨑氏は、台湾への留学経験もあり、台湾文学研究をライフワークとしており、今回の著書は同研究の集大成ともいえる作品。 黃霊芝物語について「台湾の文化に関しては現地の人や社会に密着した内からの視覚があり、研究資料の発掘に対しても尋常でない臭覚がある」と評価が高い。 岡﨑氏は、このほか「台湾文学−異端の系譜」もある。 「黃霊芝物語」は、研文出版(東京)発行。定価は本体7000円。 |
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上海市人民対外友好協会が 支援のお礼で「桃の図」寄贈 |
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贈られてきたのは、呉昌碩の第四代の弟子にあたる張国恩画伯の「桃の図」。取り敢えず寄贈証書と作品集。原画については後日、コロナ禍終息後に贈呈するとの事。 当協会では、新型コロナウイルスが中国でまん延し出した今年2月頃、交流のある洛陽、天津、上海などそれぞれの人民対外友好協会を通じて激励のメッセージやマスク贈呈などの支援活動を展開した。 今回の寄贈はそれに対するお礼といった意味あい。 当協会は、1980年代の初頭から内山完造墓碑建立、旭川荘主催による福祉交流支援、高校生教育交流などを通じ、約40年近くにわたって上海市とは友好交流を続けてきている。 御挨拶 =全文= 上海市人民代表大会常務委員会副主 任 上海市人民対外友好協会会長 沙 海 林 盛夏の候、益々ご清祥のことと、お慶び申し上げます。 去る数か月間、新型コロナウィルスによる感染拡大が世界を大きく影響し、人類社会に未曾有の挑戦をもたらしました。こういう危機的な時期にこそ、人々が守り合い、助け合うことの意義を一層痛感いたしました。 感染拡大が発生してから、貴協会より、上海へ応援メッセージを寄せられ、我々は深く心を打たれ、多くの中国国民・上海市民も励まされ、力をいただきました。 上海出身の芸術家・近代書画巨匠呉昌碩の四代目弟子にあたる張国恩は、自分の感動、感謝と敬意を筆と墨に託し、書画作品を通じ、ウィルスに打ち勝つ信念と、上海を支援してきた海外の友人への感謝を伝えるため、当協会を通して、作品贈呈をしたいという意を示しました。 ここに、貴協会に贈呈予定の「大きな桃の図」の寄贈証書と作品集をお送りいたしたいと思います。一日も早く、感染拡大が収まって、お目にかかり、そして正式に作品を贈呈出来るのを期待してやみません。 ご健勝をお祈りすると同時に、中日両国人民が手を携えてより美しき未来を迎えられますことを祈念いたします。 |
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郭沫若直筆の詩文 受領書の原本発見 |
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受領書には「昭和36年4月6日提出の詩文の寄附を採納します」とあり、県知事の公印が押印されている。宛先は「郭沫若氏訪日来岡記念詩碑建設委員会会長田中文男」となっている。 当時建設委員会の事務局長をしていた故中西寛治氏から聞いた話では、1956年12月に来日した郭沫若氏を団長とする訪日学術代表団の岡山での歓迎会の席上、郭氏はメニューの裏側に後楽園の詩を即興でしたため、帰国後、友好協会宛に郭氏直筆による詩文が送られて来て、それをもとに後楽園の詩碑が出来たという。その原本を岡山県に寄贈したとの事だった。 |
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故中西寛治氏法要 25回忌を長泉寺で |
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中西さんは、当協会設立発起人の一人で、全国で初めて設立された日中友好協会の岡山県支部初代事務局長。 長泉寺の法要では、名誉住職で協会副会長の宮本光研大僧正が読経をあげ、日中友好事業への貢献と当協会設立に対する中西さんの功績を讃えた。 宮本氏は、中西さんからお寺の法人化への貴重な示唆を頂いたことへの感謝の気持も祈りに込めていた。 法要には松井三平専務理事も参列した。 |
活動日誌 | |||
6/25…「岡山と中国」6月号発送(事務局) 7/ 1…第3回理事会(ANAクラウンプラザホテル) 7/17…上海市浦東陸行中学とのリモート交流打ち合わせ(岡山南高校) 7/22…中西寛治氏25周忌法要(長泉寺) 7/29…三重県日中友好協会事務局小菅さん来岡懇談(事務局) |
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先憂後楽 | |||
新型コロナウイルスの感染拡大が続いている。東京、神奈川、大阪などの大都市圏以外に岡山などの地方にもクラスターが発生して増加している。ワクチンや特効薬が出来て地球上にコロナが見えなくなり、以前と同じようなライフスタイルが戻るまでには相当な時間がかかるだろう。 このような中、完全な終息まではコロナ感染予防をしながら経済的、国際的交流活動を実施していくという対応となる。ウィズコロナだ。前提となるのは、必要な人がいつでも安価に受診できるPCRなどの検査体制と病院の受入れ態勢、そしてAIを駆使したアプリの携帯だろう。 中国では「健康碼」(健康コード)と言われるバーコードを提示しないと交通機関やレストラン、ホテル、スーパー、劇場、観光地などが利用できない。つまり、これをインストールしていないと生活ができない。瀋陽の友人が『日本は検査不十分で、追跡が甘い。感染経路についても中国では徹底的に調べてつぶしていく』と強い口調でウィチャット電話してきた。埼玉に住んでいる息子さんのことも気になるのだろう。 来年は岡山市洛陽市友好都市締結40周年を迎え、遅くとも9月ごろから具体的な準備にかからないといけない。協会も設立40周年を迎え、歴史を振り返ると同時に新たな情勢を踏まえた友好活動の方針を指し示す時期が来ている。 困難な中にも希望を見出して頑張りたい。『打つ手は常に無限であるからだ(滝口長太郎)』(松) |