祝 | 表彰は会員皆様ひとりひとりの永年にわたる 真摯な友好活動が評価されたものです |
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第16回自治体国際交流表彰(総務大臣賞)受賞 |
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岡山市日中友好協会(土井章弘会長)は、5月、第16回自治体国際交流表彰(総務大臣賞)を受賞しました。 理由は、国際交流活動において地域特性を活かし、創意と工夫に富んだ取り組みを継続して実施、地域の活性化、国際化に寄与しているというもの。 これは、1981年(昭和56年)設立以来〝市民みんなで日中友好〟を基本理念に取り組んできた私たちの友好交流活動が評価されたことに他なりません。 土井会長の決意は「受賞を励みに岡山市と連携し洛陽市との友好を発展して行きたい。民間を通じての交流が恒久的な平和に繋がると信じている」でした。 岡山、洛陽両市、中国駐大阪総領事館など各方面から祝辞も寄せられています。この賞は協会会員皆さんの日常活動と努力が実を結んだものです。 |
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全国レベルで受けた高い評価/決意新た | |||
総務省の自治体国際交流表彰(総務大臣賞)は、国際交流活動を行なっている自治体やその関連団体を対象に、活動が顕著な団体に毎年贈られている。 審査基準は、活動の先進性、独自性、継続性、活発性、協働性・連携性、効果など多岐に渡っている。第16回目となる今回は、岡山市日中友好協会と加古川市国際交流協会、沖縄県の3団体が選ばれた。 従来は総務省で授与式典が行なわれるが、コロナ禍で前年に引き続き報道発表のみ。後日、講評及び意見交換会が開かれた。 当協会が選ばれたのは①〝市民みんなで日中友好〟を旗印に行政と協働、40年間継続して民間交流や医療交流を実施 ②コロナ禍においても交流を継続 ③洛陽市との市民交流を継続 ④市民ボランティアによる植林活動の実施 ⑤岡山市の中学校と洛陽市の中学とのオンライン交流−などが評価されたものと見られる。 当協会には、表彰状と楯が贈られた。 |
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岡山市と協働した 友好交流活動推進 | |||
当協会では、6月1日、岡山市役所に大森雅夫市長を訪ね、受賞の報告をした。 参加したのは、土井章弘会長と副会長の宮本光研、黒住昭子、森田潔の3氏、松井三平専務理事等。 土井会長は、推薦のお礼を述べた後「受賞を励みに洛陽との友好を発展させて行きたい。来春には洛陽牡丹の咲く頃、岡山市民訪中団を再開出来れば…」と決意を述べた。 大森市長も「受賞は、永年の交流が実を結んだ結果だと思う。国と国との関係では大変な時期もあろうが、我々として出来るのは地道な交流だと思う。この人と人との繋がりが国をも動かすことになる。皆さんの地道な努力に感謝したい」と激励した。 |
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松井専務理事出席 10分間のプレゼン | |||
第16回自治体国際化表彰(総務大臣賞)の受賞講評及び意見交換会は、6月10日、東京・丸の内ホテル9階で開かれた。 参加したのは、受賞した3団体の代表の他、審査委員長、総務省、自治体国際化協会役員等総計9人。各自持ち時間10分間のプレゼンテーションを行った。 その後、環境(緑化協力事業)、医療(日中医療交流)、教育(コロナ禍でのオンライン教育交流)の各分野での特徴的な交流内容を報告した。 特に医療交流の成果として発行した「日中医療交流便覧」を紹介して注目された。 3団体のプレゼンテーションの後、審査委員会委員長で早稲田大学政治経済学術院教授の縣公一郎氏より講評と受賞理由が述べられ、昼食をはさんで意見交換した。 選考は、推薦を受けて、有識者等で構成される審査委員会で審査し総務省と自治体国際化協会が決定している。 |
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祝 辞 |
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(順不同) 祝辞は 中華人民共和国駐大阪総領事館(薛剣総領事) 洛陽市人民政府外事弁公室(叶恵玲主任)洛陽市人民対外友好協会(叶恵玲会長) 衆議院議員、逢沢一郎 岡山市(大森雅夫市長) 岡山市・洛陽市友好都市議員連盟(田尻祐二会長) から頂きました。 努力と実績が評価された 薛剣総領事 「中日国交正常化50周年という重要な節目に、土井会長率いる岡山市日中友好協会の長年のご努力とご実績がこのように認められ、評価されましたことを、大変うれしく存じます。 土井会長をはじめ、岡山市日中友好協会の皆様には、今回のご受賞を機に、中日両国の地方・民間交流に倍旧のご努力を賜りますよう心より期待申し上げます」。 理解と相互信頼を高めた 叶恵玲主任・会長 「1981年に洛陽市と岡山市において友好都市関係が設立されて以来、両市は一致協力して、共に前進し、経済、教育、文化、スポーツにおける両自治体と市民の交流と協力を積極的に推進し、両都市の経済発展を促進し、両都市の人々の理解と相互信頼を高め、中日友好の発展を促進した。 41年来、貴会の積極的な推進により、小浪底の中日友誼林は樹木が茂り、申窪村小学校の生徒は次々と卒業し村を出て行った。友好病院の提携、青少年のホームステイ、文物保護などの分野で実りある成果を挙げ、両市の市民が一丸となってコロナと闘い、支援し合い、両市市民の深い友情を体現している。我々は、貴会と共に、両市及び両国の友好事業を前進させるため、引き続き努力する所存です」。 長年の交流活動に敬意 逢沢一郎衆院議員 「皆様の日頃からの献身的な努力や精進、また長年にわたる洛陽市との交流活動に、改めて敬意を表します。 これからも中国洛陽市との国際交流への取り組みに、ますますご期待申し上げます」。 功績が広く認められた 大森雅夫市長 「長年のご功績が広く認められたものと存じます」。 交流の継続を高く評価 田尻祐二議員連盟会長 「40年間にわたる海を越えた民間交流・医療交流の継続が高く評価されたことを心よりお慶び申し上げます」。 |
住所変更は出来ない〜日中両国のこれから〜 お互い交流を深め理解し合うよう努力しよう 日中友好協会会長(元中国大使) 丹 羽 宇一郎 氏 |
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私とすれば大変喜びとするところです。 私は、経済界で30年以上にわたって中国各地を回り、また日本大使としても中国のほとんどの地域を歩いて来ました。そう言った実体験、あるいは〝第1次情報〟というものをベースに話をしたいと思います。 真実とは何か、真実をどうやって知るか、という問題です。情報化社会の中で、SNS上などではフェイクニュースなるものも飛び交い、アメリカの某大統領に至っては「オレの言うことが真実なんだ」と主張、他は全てフェイクニュースだとおっしゃる。 |
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【真実を知るための努力】 大使として2年半 最も中国を歩いた 一体、真実はどこにあるのでしょう。皆さん方が、日中関係と言われる場合、どの様なニュース・情報をもって「日中関係はうまくいっていない」、また「うまくいっている」などと判断されていますか。 私自身は、真実というのは、自分がこの目で確かめる、自分がその人たちに会って話を聞くことで得られると思っています。新聞記事とか業界紙とか、いろいろの情報というのは〝2次情報〟でしかありません。 大使として中国に行って2年半、私は最も多く中国各地を歩いたと自負しています。この目で中国、中国人を見てきました。なぜかと言いますと、新聞が書き、中国政府が発表している事は本当だろうかと、自分の目で確かめたかったからです。 そんな話をしていたら、私の友人でもある、元駐日中国大使の程永華さんから「丹羽さん、私はあなた以上に日本を歩いていますよ」と言われました。彼は、歴代最長の9年間、駐日大使を務め、日本全国の都道府県をくまなく回ったそうです。 私は日本国内でも全てには行っていませんから、これにはやられましたね。 このように、自分で確かめることをベースに中国を見た感想は「政府の言っていることは必ずしも100%その通りではない。日本の25倍もある大きな土地ですからいろんな考え方があって、いろんな文化の違いがある。皆さん政府の言う通りはやっていません。全部の地域を一つに纏めることは非常に難しい」ということでした。 【一流の新聞だって−】 自分の目耳で確認し 〝1次情報〟得ないと もう一つ、私が情報を確認しなくて大失敗した例をお話ししましょう。まだ、伊藤忠商事の若手社員だった時代のことです。 ある時、有力紙・ニューヨークタイムスの写真と記事を読んだのです。そこには「これからアメリカ大豆が不作で世界的に不足する」と載っていました。さぁ、これでは世界的に大豆が不足し、価格は暴騰すると予測したのです。その記事を信じて、担当していた私は、今に暴騰すると確信して大豆を買い付けました。 すると、その後、農業地帯全般が慈雨に恵まれ、アメリカ農務省は、大豆は豊作予想だと発表したのです。価格は暴騰どころか大暴落、大損です。私も〝クビ〟を覚悟しました。社長から呼び付けられ大目玉でした。 あの名高いニューヨークタイムスだから無条件に信用したが故に、大失敗でした。その時、私は、ヨシ!2度と再び、自分の目で確かめ、自分で感じない限り、いくら一流の新聞社の記事といえども、そのまま信じるのは止そうと、決めたのです。 自分の目で見、自分の耳で確かめた第1次情報を得なければダメなのです。このことを常に頭に入れておく必要があるのです。 【新疆ウイグルを訪れて】 この目で現実を直視 とてもひと言では… 私は、中国各地を歩いたと申し上げましたが、それは各地域のトップクラスの人と会ったということです。そういう人に会い、話をしない限り〝歩いた〟とは言えません。 モンゴルにおいてもウイグルにおいても同じです。現地の市場をのぞき「どうです、おかみさん、今日、何が売れていますか?」と直接聞いてみるのです。 ウイグル族のトップの方にも会いました。ご馳走にもなりました。 あの新疆ウイグル地域には、ウイグル族の人が1000万人、中国人が1000万人、全部で2000万人の人が暮らしておられます。 新聞などが、ウイグル族や少数民族の言葉や文化を、中国当局は学校で教えないとか、盛んに書いていますね。 しかし、聞いて見ると、少数民族の言語や文化は、数少ない子供たち相手に親や古老から口伝えに教えられていくものが多く、とても学校や本で勉強するには不可能に近い。 これは、昔のアメリカのインディアンの場合と同じで、現地言葉で話していた人も、その内みんな英語を使うようになっていった。 中国の場合も同じです。中国語で勉強し、中国語が話せなくては、中国人と仕事も出来ません。商売して収益を得るにしても、ウイグル語だけでは無理です。 その他、諸々の重要な事を頭に入れて、ウイグルの人達が本当に、新聞に書かれているような厳しい状態におかれているのかどうか、ウイグル族の市場に連れて行ってもらいました。 私はその市場で帽子を一つ買って、かぶって歩きました。すると「丹羽さん、それはどこのウイグル族の帽子ですか?それをかぶっていると、アイツはあの部族と親しいのか、あの部族の回し者か、と思われるかも知れませんよ」と注意されました。 それを聞いて、そういう風にモノを見なければいけないのか、ウイグル族と言っても色々あって、貧富の差もあるのかと、実感しました。こういうことも考えなければならないのです。 また、ウイグル族の家庭も招待されて訪問しました。私は、一番奥に座ってくださいと言われるままに、絨毯の上を歩いて奥の隅に座りました。 ところが「君は礼儀を知らない」と後から叱られました。ウイグル族にとって絨毯の上は食物を置く大事な場所で、日本で言うテーブルです。その上を歩いたと同じだという訳です。 誠に申し訳ありませんでした、です。なるほどひと言でウイグルと言ってもいろいろあるのです。各族の習慣一つ取っても多々ある。それを頭に入れた上で、私たちは考えておく必要があるのです。 【忘れられぬ習主席の言葉】 住所変更出来ぬ間柄 争っても全く無駄 日中のこれからについて、話を始めるに当たって、私は習近平国家主席のある言葉を今でも忘れることが出来ません。 習主席は、私が中国大使だった当時副主席でした。彼とは副主席時代、顔を合わせています。当時彼は、こういうことを言いました。 日中両国は住所変更の出来ない間柄です。つまり、両国は、否応なくこの先100年、200年お付き合いしなければなりません。一時的に武器を取って争ってみても、全く無駄です。 これは、習主席の本音だと思います。会う度に言っていました。 私が申し上げたいのは、いろんな背景があるのでしょうが、両国はこれから100年、200年お付き合いするのです。銃をとって殺し合ったりして、誰が一体得をするのですか。数年もすれば、闘いも終わります。戦争が100年も続く訳がありません。 隣近所はとかく仲が悪いものです。隣の国とも同じでしょう。しかし、中国のトップが言った言葉は、彼の本当の気持ちだと思います。 日本だけハワイへ逃げて行く訳にも行きませんし、中国だって同じです。住所変更は出来ません。日本人と中国人は仲良くやる以外になく、何十年と争う事は出来ません。 【日中国交正常化の舞台裏】 尖閣問題はどうみても 〝タナの上〟のはず 50年前の国交正常化首脳会談で、毛沢東主席と周恩来総理が交わしたという言葉を思い出します。 それは、毛主席と周総理に田中総理と大平外相が同席して、国交正常化の交渉をします。その中で、田中総理にすると、尖閣諸島の問題に触れずに(了解も得ないで)調印して日本に帰る訳にはいかないのです。 そんなことをしたら、日本で袋だたきに遭うし、あれだけお世話になった台湾とは断交しなければならない。しかし、国交正常化を決断すると即、外務文書を作らねばならない。 そんな中で、「尖閣の話は分かったが、毛主席も周総理も〝この国交正常化が終わってから、ゆっくり話をすれば良いのではないか〟と言っている。どうしても調印までにこの問題を片付けろと(外務省が)言うのなら、国交正常化交渉は、これで終わりだ。今日は出来ない」という発言があったと言います。 それに対し、田中総理も周総理も〝しょうが無いな…〟といった形(棚上げ)で別れたと言われています。 これが果たして本当であるのかどうか。出席者は既に全員亡くなっています。確認する訳にいきません。且つ、日本にも中国にも公式記録には〝無い〟となっています。 私が可能な限り調べた限りでは「多分間違いないだろう」でした。この尖閣問題については、多分〝タナの上〟にあるのではないかと思っています。それを前提(ベース)に考えるべきだと思います。 【日中友好目指すべき方向】 〝霧の中〟だが両国に 戦争する理由なし 日中関係は、尖閣問題も含めて、私は〝霧の中〟にあると思っています。 しかし、以前、習主席になってからも言っていたように、これからの100年を考えたら、友好に反するようなことは、中国も考えていないと思います。 日本は戦争をやって中国に進出する気は全くありません。中国にとっても、日本は資源のある国でもないし、戦争によって所有するメリットは全く無い。戦争をやる理由がありません。 日本にも中国と戦争をする理由が無い。なぜなら、日本の25倍もあるような土地、そして、日本の10倍以上もいて、しかも中国語しか喋らない国民を持つ国を、日本はどう背負ってやっていくのか。何も出来ないし、ヤル力も無いでしょう。 中国も日本なんか欲しくないですよ。なぜ、それなのに、中国相手に戦争をやるような構えを見せたり、あるいは構えをしようとするのか。私には解りません。 昔、私たちは中国人を侮辱してきました。私が小学生の頃の事です。「汚い」「アホ」とか「チャンコロ」とか、当たり前のように子供の遊びの中でも言っていました。 しかし、一部には〝チャンコロ〟だとか侮辱する言葉も残っています。これには、気をつけなければいけません。 中国は今や、科学者の数が世界一です。これはOECDが発表した数字で、中国には科学者といわれる人が140万人から160万人いるそうです。アメリカですら120万人から130万人ですから、中国よりずっと少ない。 ですから、科学的知識においては、最早、日本の50万人から60万人では太刀打ち出来ないのです。 ところが、彼らにはそれを実行に移して、製品にしたり、商品に仕上げる能力となると、まだまだなのです。製品にする、商品にするための中間層の労働者となると、その大部分は日本に比べると20年は遅れています。 今から勉強しても追いつくのに20年は懸かります。しかも、中間層というのは、中国では6億人から7億人いる。それらの人たちを日本と同じ水準にまで教育するのは、並大抵ではありません。 製造能力において日本は世界一です。メイドインジャパンが世界一。メイドインチャイナではありません。 そこで、技術面で世界一の中国と、製造能力で世界一の日本が協力することが必要になるのです。 住所変更が出来ず、100年200年続けて仲良くやっていくんだということは、経済的に見ても、日本と中国はお互い助け合って、知識の交換、製造能力の世界的部分の交換をすることが不可欠なのです。 そういう意味で私は、日本の将来の若者たちにも、こうした考え方を日本の平和のために持って欲しいのです。 【胸を張って若者たちに】 日中友好の唯一の道 交流し理解すること 現在、私たちの前には、尖閣問題だけでなく、ポスト・コロナ禍対応、ウクライナ問題など、多くの難題が迫ってきています。 それに対し若い人達から、今の大人は何もしていないのではないか、難題を〝棚上げ〟ばかりして逃げている、それはないだろう、そういう見方もあるかも知れません。 しかし、そんな見方に対し私たち大人は、我々の努力というものを若者たちに見せて、お父さんお母さんたちも、日本の将来への平和の道を捜し求めてやっているんだ、決して棚上げして逃げているのじゃないよ、それが今の大人の務めだからだ、と伝えるべきだと思います。 皆様方もぜひこの気持ちで、胸を張って進もうではありませんか。若者たちに胸を張って道を歩くよう呼び掛けましょう。それが我々の願いでもあるのです。 従って、日中関係、中日関係は、みんなが胸を張って歩けるように、現在のいろいろな諸問題をぜひ自分たちの力で解決したいと思います。 両国の国民が、お互いに出来るだけ交流を深めて、理解をし合うように努力することが、日中友好の唯一の道だと考えます。 若者には、日本語、中国語にこだわらず、お互いが共通語で話せるように努力して欲しい。 そして、皆さん方にはご自分の親族、お孫さん、子供たちに、胸を張って「お父さんもお母さんも、努力してちゃんと話し合う道を創っておくから」と言えるように、私もやりますから皆さんも務めて頂きたいと思います。 ◎この講演録は2月26日開かれた定期総会記念講演(オンライン講演)の要旨を纏めたものです。 |
重森三玲・貝崙追悼上映会 ドキュメンタリー岡山と吉備中央町で開催 |
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岡山会場には約120人、吉川会場には約60人と、両会場共に盛況となり、両氏と交流の深い関係者や造園ファンらが詰めかけ、庭園の美しさ・見事さに見入り、故人を偲んでいた。 今回上映されたのは、貝崙氏制作(監督・脚本)による「永遠のモダンを庭園に」と「石・砂・苔・水」。父・三玲の歩みや業績をたどってのドキュメンタリー。貝崙氏は中日文化研究所専務理事としても活躍していた。 また、上映後、岡山県立美術館長(現・顧問)だった鍵岡正謹氏が追悼講演。三玲の先駆的活動を評価、枯山水を現代に活かした庭園造りの意義などについて熱っぽく語った。 また、三玲の〝最後の弟子〟だった庭師、岩本俊男さんが三玲との思い出を、プロデューサーの中橋真紀人氏も貝崙氏との想いを話した。 吉川会場では、参加者らは、重森三玲パネル展示室や記念館、茶室「天籟庵」、それに「友淋の庭」なども見学した。 主催は岡山市日中友好協会と、岡山会場が県立美術館、吉川会場が吉川地域づくりの会、それぞれ共催した。 |
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『再会の奈良』 岡山で上映 7月1日より7日まで 「シネマ・クレール丸の内」 |
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日中国交正常化50周年を記念し、日中合作で制作された映画「再会の奈良」が、7月1日から、岡山市北区丸の内1丁目のシネマ・クレール丸の内で上映される。 「再会の奈良」は、中国残留孤児問題をテーマとしたストーリー。「日本に帰国したまま行方を消した残留孤児の養女、麗華を捜しに中国から訪れた陳ばぁちゃんと、偶然出会った元警察官らを取り巻く麗華探しの旅の物語り」。 上映期間は7月1日から同7日までの1週間。各日とも午前10時開演で、時間は予告編込みで1時間50分。1日1回の上映。 料金は、一般が1800円で、各種割引もある。 上映については、今年1月から奈良県での先行上映を皮切りに、全国で順次ロードショーを続けている。 岡山市日中友好協会では、3月に上映に先だって中国残留孤児問題についての講演会・勉強会を開催。「再会の奈良」についても上映に協力、鑑賞を呼び掛けている。 鑑賞券希望者は当協会事務局(電話・086−225−5068)まで。先着5名! |
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追悼 〝満友〟末永弥吉さんを偲ぶ 長春そして丹東… 池田武久 |
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末永弥吉さんの急逝を知ったのは協会の荒木さんからのメールでした。余りに突然のことで信じられませんでした。 共に心臓に病を持つ身でしたが、彼の方が遙かに元気でしたから。彼は昨年10月に亡くなられていたのです。 末永さんとは、彼が私のパソコンのブログに飛び込んできて自己紹介をされ、ずっと旧満州からの引き揚げ者仲間を探しているとのことでしたので、長春会と安東会を紹介したところ即入会されました。 その後、岡山市日中友好協会にも入会され、以降何度も一緒に中国旅行をご一緒しました。 引き揚げ仲間の縁 彼は、長春(新京)生まれです。日本の敗戦を長春から疎開した丹東(安東)で迎え、妹を亡くした後、営口経由で葫蘆島から引き揚げています。 私は、丹東で生まれ長春で敗戦を迎え、葫蘆島から引き揚げました。時期的にはやや私が早かったようです。 このように我々は共通点が多く、年齢も私が2歳上だっただけなので、話が合い中国旅行も長春会、安東会のツアーではお互いの所縁の地を何度も一緒に訪ねて歩き回りました。 勿論、岡山市日中友好協会のツアーではホテルのルームメイトでした。この他の満州関係のツアーにも何度か誘いあって行きました。 また、2人だけの個人旅行にも何度も行きました。コロナ禍でこの2年半は何処にもご一緒出来ないまま、永久のお別れになろうとは思いもしない事でした。 かくも早い逝去を心から残念に思います。合掌。 |
活動日誌 | |||
3/12…令和2年度緑化協力事業報告書送付 3/17…岡山市立操南中学校と洛陽市東昇第二中学友好交流校締結調印式 3/26…中国残留日本人問題を考える講演会(岡山国際交流センター) 4/ 4…協会定款変更認証届。法務局登記 4/20…協会本年度第2回理事会(協会) 4/22…日中読書会(和楽亭) 5/ 9…市教委指導課来局 5/17…日中国交正常化50周年事業委員会(事務局) 5/20…当協会へ第16回自治体国際交流表彰(総務大臣賞)正式発表(東京) 5/22…玉野市日中友好協会総会に参加(猪木理事報告) 5/28…岡山県日中教育交流協議会令和4年度総会・理事会(県生涯学習センター) 6/ 1…総務大臣賞を岡山市長に報告(会長・副会長ら岡山市長室) 6/ 7…長泉寺寺子屋文化講座で松井専務理事が講演(長泉寺) 6/10…自治体国際交流表彰(総務大臣賞)講評 及び意見交換会(松井専務理事報告。東京丸の内ホテル) 6/14…矢掛町訪問(山部教育長、三谷小学校) 6/16…岡山髙島屋、中国語翻訳打合せ 6/16…西日本日中友好交流大会オンライン参加(ZOOM) 6/24…天津市との医療交流打合せ(岡山旭東病院) 6/30…会報6月号発送 |
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会員消息 | |||
【入会者】 学校法人川崎学園(川崎誠治理事長) 一般社団法人倉敷成人病センター(安藤正明理事長) 中谷 泰久さん(岡山市) |
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先憂後楽 | |||
協会が自治体国際化表彰(総務大臣賞)を受賞した。岡山市と洛陽市の40年の交流が評価されたものだが、1981年の創立以来「市民みんなで日中友好」を唱え続けて実践してきた協会と会員の活動そのものへのご褒美と確信した。 6月10日には東京で受賞発表と講評会があり、他の2団体の加古川市国際交流協議会と沖縄県の方と一緒に参加した。双方とも素晴らしい内容だったが、とりわけ沖縄県のプレゼンは圧巻だった。もはや一県の国際交流というより「琉球王国」の外交活動のようだった。 かつて沖縄からは世界各地に移民を出しており、その地域に県民会が出来ている。1年に1度世界ウチナーンチュ(沖縄人)大会が開催されるがそのネットワークが国際交流の柱となっているのだ。この沖縄と伍して当協会が総務大臣賞を頂いたのかと思うと改めて背筋が伸びた。 当方の説明中、歴代の会長や支えていただいた会員の方、そして洛陽市の友人の顔が浮かんだ。時に激しくぶつかり合いながら最後は日中友好の同志としての気概で進めてきた。そんな光景が走馬灯のように蘇り、こみ上げるのをこらえながら10分間の任務を果たした。好事魔多しとも言う。兜の緒を締めなおし、新たな任務に向かいたい。 (松) |