岡山市と天津市の医療関係者が交流する医療交流オンライン会議が、7月5日、岡山市中区の岡山旭東病院「バッチアダムスホール」と、天津市の政府や病院を結んで開かれた。 |
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岡山・天津初の懇談会方式で | ||
これは、岡山市日中友好協会と天津市人民対外友好協会が、2015年に締結した友好交流協定に基づき開かれる初めての本格的交流。 今回は、リハビリテーション分野について双方の医療従事者が意見を交換した。 岡山側は、岡山旭東病院と岡山リハビリテーション病院が、現在取り組んでいる急性期リハビリテーションの概要や病院の紹介について説明。 天津側は、天津市第四中心医院と天津中医薬大学第一附属医院が中国で手掛けているリハビリ医療の実情などを紹介した。 会議では、元岡山大学学長で同医学部出身の森田潔氏(岡山市日中友好協会副会長)が「今後、天津市と岡山がリハビリテーション分野においても、医療交流を行なうことが両国の医療の発展、地域医療の発展に貢献出来ると信じている。お互いが医療に対する〝想い〟を分かち合って両国の医療発展に尽すよう努力して欲しい」と呼び掛けた。 天津側も「こうしてお互いが話し合う意味は大きい。今後、実務型の交流を進めていくべきだと思う。岡山と協力しながら信頼関係を築いた上で、専門家を交えて交流していきたい。1日も早く直接顔を合わせての交流を楽しみにしている」と応えた。 岡山市日中友好協会の土井章弘会長(岡山旭東病院総院長)も「友好交流協定締結以来、いろいろな取り組みをしてきたが、懇談会が開催出来たのは今回が初めて。日中間には、いろいろと問題もあるが、だからこそ民間の交流が大切だ」と、相互訪問を呼び掛け、その実現に意欲を見せていた。 |
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洛陽市等と「未来を共有しよう」 |
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「友好都市 未来を共有しよう」をテーマとした2022年河南省・日本友好都市オンライン交流会が、7月21日、河南省鄭州市をメイン会場として開かれた。 交流会には、友好都市関係にある河南省内の都市と日本各都市の政府・行政や人民対外友好協会・友好協会など約60人が参加。孔絃佑駐日中国大使や垂秀夫在中国日本大使らも挨拶した。 交流事例として、今年3月に締結された岡山市立操南中学校と洛陽市東昇第二中学との交流協定について、校長同士のメッセージ動画が放映された。操南中の青木伸晃校長は調印書面とサッカーボールを高々と掲げ、力強く挨拶した。 友好都市関係では、岡山市の山中正博副市長と洛陽市の李新建副市長がスピーチ。山中副市長は、岡山市日中友好協会が5月に総務大臣賞を受けたことを紹介し、民間団体として行政と協力して友好交流活動に貢献していることを強調した。 協会からは松井専務理事が参加し、画面上で洛陽市人民対外友好協会の張璞副会長と張婧さんに挨拶した。 |
中国駐大阪総領事館総領事 岡崎嘉平太記念館を訪問懇談 岡山後楽園では丹頂鶴と対面 |
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中国駐大阪総領事館の薛剣総領事が、7月18日、着任以来初めて岡山を訪れ、岡崎嘉平太記念館や後楽園を訪問、「江田五月を偲ぶ会」にも出席、終日関係者等と懇談し親交を温めた。 一行はまず加賀郡吉備中央町の岡崎嘉平太記念館を訪問。杉原雅夫館長が出迎え、同町の山本雅則町長と共に館内を見学した。 この後、山本町長らと懇談。薛総領事が周恩来総理の故郷である江蘇省淮安市の出身であることもあって、話は大いに盛り上がっていた。 昼は、協会主催の昼食会が開かれ、同行していた大阪総領事館の一行と共に懇談。午後は、岡山駅前のホテルで開かれた「江田五月を偲ぶ会」に参加。その後、郭沫若氏と関係の深い岡山後楽園を訪問し散策した。 後楽園では、同事務所の石井謙次所長の案内により、参加者とともに園内を見学。郭沫若氏が贈った丹頂鶴と郭沫若詩碑の説明を受けた後、薛総領事は鶴舎の前に立ちスピーチ。 交流の歴史を直視 美しい未来を! 「日中友好の信念を表す鶴舎と詩碑は日中両国が切っても切れない関係にあることを示すばかりでなく、中国政府と人民が友好を回復し発展させたいと願う気持ちの表れだ。交流の歴史を直視し、偉大な先人たちの日中友好に果たした政治力を忘れず、万難を排して勇気と知恵をもって手を取り合い、日中関係の美しい未来を切り開くために努力して行こう」と熱く語った。 |
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① | ||||
奥に秘められたもの 汲み取らなくては 則次 美弥子(91) 敗戦直後の暗く重い時代が、さらりとアニメで流れてきた。明るい色合いで気分は軽くなった。 画面下を、リュックサックを背負った同じ人型がさっさっと動いた。 …これは違う 隊列の中には子供も年寄りもいた 錦州から胡盧島までの炎天下を 喘ぎながら歩いた… そんな意地悪な自分が一瞬そこにいた。 私は77年前、中国東北部から引揚げた一人で、この日を待ちわびていた。 物語は静かに進んだ。3人とも口数は少なく一言の情報に、はやる心を抑えながら歩く。尋ねる先の残留孤児だった人達は、自分の今置かれている場所で懸命に働いていた。 …今 幸せなのかな 中国にいた方が良かったと 後悔していないかな… 私はそんなことも気になって仕様がない。3人は期待と不安を繰り返しながら、旅を続けた。 娘に会いたい陳ばあちゃん、捜してあげたい周りの人達。お互いを思いやる場面を随所に見受けた。 何気ない会話であったり、無言の写真交換だったりと、ほっとする一瞬に暖かい空気が流れていた。こう言うのを愛と言うのだろう。愛に国境はなく美しいものだった。 コロンコロン、トントンと聞こえてきた。水琴かな、鼓かな。私は遠い音に聞いたような気がした。3人の行く先々に、美しい景色が映る。 それは逸品の絵画。愛と音と絵の綾錦の中に、すっぽりと浸っていた。折しも、元上司からの電話は、麗華の悲しい終末の知らせであった。再会の望みは泡となった。 ご神灯が見えてきた。あのリズムがまた聞こえてくる。だんだん大きく響く。太鼓の伏線だったのだ。私は太鼓の連打に圧倒された。 その時、陳ばぁちゃんは何かに憑かれたように、人をかき分け、かき分け進んだ。紅潮した顔、きらりと光る目。娘を見つけたに相違ない。そして娘もまた母を見つけたのだ。 お互いの魂がぶつかり合ったに違いない。私にはそう思えた。 もしかしたら?娘への思いを潰された、やり場のない気持ちの表れだったのかも知れない。 歴史に翻弄されて…私は気が高まるのを抑えた。娘への絆は、国を超えて人間の本質に迫る尊いものだった。 戦争で忘れてはならぬ負の遺産の一つを、揺り起こし広げてくれた。戦争を知る世代も知らない世代も、この作品の奥に秘められたものを汲み取らなくてはと、強く思った。 (②にも感想文) |
第16回自治体国際交流表彰(総務大臣賞)経過報告 専務理事 松 井 三 平 |
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総務省は、2022年(令和4年)5月20日、第16回自治体国際交流表彰(総務大臣賞)の受賞3団体を発表した。その中に、我が岡山市日中友好協会があった。他の2団体は、公益財団法人加古川市国際交流協会と沖縄県で、純粋の民間団体は当協会のみ。今回の受賞について経過を振り返り、会員の皆様と共に喜びを分かち合い、これからの活動の在り方を展望したいと思う。 ◯ 受賞に至る経過 ◯ 岡山市国際課から 応募の提案あり 昨年11月末に、岡山市国際課より電話があり、この賞の存在を知った。応募の締め切りまでに、ほぼ1週間しかないが「応募してみますか?岡山市日中友好協会の40年の交流の実績は受賞に値すると思いますが、受賞を保証するものではありません」と言う内容だった。 国際課の方から熱心に薦めて頂いたことと、当協会設立40周年の昨年に、資料整理や書面を作成していたこともあって、申請書類の作成はできそうだと思い、応募を決めた。 12月の第1週の3日間、本当に集中して申請書類一式を書き上げ送付した。年が明けて、数回にわたり追加資料の提供要請があり、手応えは感じていた。 しかし、しばらく音沙汰がなかったので、やはり無理だったのかと思っていた矢先、3月29日付けで決定通知書が届き、主催者の自治体国際化協会より電話を頂いた。 5月の正式発表までは慎重に取り扱うようにとのお達しだったので、公表は出来なかったが、本当に嬉しく会長や複数の役員、お世話になった国際課に早速報告した。 何より国際課の方が我が事のように喜んで頂いたのが嬉しかった。 ◯ 講評内容 ◯ 受賞評価ポイント 先進性や独自性 今回の表彰の審査基準は①先進性②独自性③継続性④活発性⑤協働性・連携性⑥効果(地域の国際化、地域経済の活性化、地域の知名度やイメージの向上等)だった。 協会は、左記の《評価のポイント》を得て受賞基準をクリアできたのである。 以下、総務省と自治体国際化協会による「受賞団体評価ポイント」から抜粋する。 ☆岡山市と洛陽市の姉妹都市交流事業の主体として、40年間にわたり交流を継続している点が評価できる。 ☆地元当局とロケーションを調整して長期にわたり植林活動を継続していることは、地域住民間の信頼関係の構築や環境問題解決にも寄与しており評価できる。 ☆緑化事業(環境)、医療交流など、具体的な複数の重要な分野において、双方向での技術面・人材面での交流が行なわれている点が評価できる。 特に少子高齢化が進む中、医療に関わる交流の意義は大きく、先進的であり、他の自治体の模範になると考えられる。 ☆SDGsに関連する事業を経済的にも困難な地域で展開した協会の事業の先進性、また時代に合わせた資金調達の工夫は継続性の視点からも評価できる。 更に医療関係者、一般市民や中学生の交流、訪問など、幅広い人々が参加できる事業が行なわれ、活発性 の面においても評価できる。 ◯ 講評と意見交換会 ◯ 勇気を振り絞って 10分間のプレゼン 6月10日、東京駅前の丸の内ホテルで「講評と意見交換会」が開かれた。受賞3団体が審査員の前で発表し、改めて講評を受ける会だ。 各自10分の持ち時間なので、当方が準備していたのはパワーポイントもスライド5枚と簡単なものだった。 しかし、当日、加古川市や沖縄県が準備されていた資料は説明内容も豊富で写真もスライド内容、デザインも素晴らしかった。 正直「しまった」と思ったが、時既に遅し。その時思い浮かんだのが、設立以来40年間支えて頂いた歴代会長や会員の人々、洛陽の友人の顔、様々な活動の場面だった。 何より協会は財政基盤もなく、活動すべて、関わった皆が〝手弁当〟でやってきたからこそ、ここまでやれたのだという思いをエネルギーに代え、勇気を振り絞って10分間のプレゼンテーションに臨んだ。 ◯ その後の評価 ◯ 各方面からの評価 反応は予想以上 7月18日に、中国駐大阪総領事館の薛剣総領事一行が岡山へ来られた時、協会主催の昼食会挨拶で、薛総領事が総務大臣賞に触れ「我が事のように嬉しく思った。コロナ禍の、この時期に受賞したことに大きな意義がある。日本政府が日中友好を重視していることの一つの表れとも言える」と高く評価頂いた。 そして7月22日に開催された中国・河南省と友好都市関係にある日本各地の自治体や友好団体とのオンライン会議の席上でも、受賞が触れられた。 洛陽市の副市長がわざわざ協会が受賞した総務大臣表彰状を画面に出して見せ「洛陽市との40年にわたる民間交流が日本政府に評価された」と紹介して頂いた。 また、岡山市の竹中副市長も、協会の受賞を報告し「この会議にも出席している松井専務理事に感謝する」とわざわざ名前を挙げて紹介して頂いた。 ◯ 今後の課題 ◯ 会員と喜びを共有 基本理念を貫く 今回、当協会は幸運にも総務大臣賞という全国レベルの大きな賞を頂いた。それは、とにもかくにも設立以来堅持している『市民みんなで日中友好』という基本理念を貫いてきたことが評価されたものだと思う。 まずはこのことを会員の皆様と共有したい。この理念を継続することこそ今回表彰を受けた責務と言えるだろう。 そして受賞理由にもあるように他の模範となるべく努力し続けないといけない。 そのためには、行政との協働を模索しつつ、時代に即した様々な活動を提案し、心ある人に依拠し、組織を作り、DXを駆使して効率化し、必要な資金を生み出して日中友好の大義に向かって休まず歩んでいくことだ。 |
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② | |
母娘の絆描くなら 回顧シーン欲しい 青木 康嘉 映画を見るにあたって背景を解説します。 奈良県の最南端、和歌山県と接する日本一大きな秘境の村「吉野郡十津川村」がある。人口は3000人弱である。 1941(昭和16)年2月11日、「集団第十次滲泌河十津川開拓団」が満州へ移民した。 哈爾浜(ハルビン)から西へ満州里方面に向かって約400キロ「竜江省扎蘭屯(ジャラントン)駅」付近である。 大きな都市で言えば、斉斉哈爾(チチハル)の西である。『満洲開拓史』によれば、328人の団員が移民した。「根こそぎ召集」によって、終戦時243人の老人男性と女性・子どもが残っていた。 ソ連が参戦して約2週間後、十津川開拓団に突然警報が鳴って、着のみ着のままで逃避行が始まった。(死亡者127人、生存率48%) 岡山地裁「中国残留孤児訴訟」(2004~2008年)で十津川開拓団に住んでいたSさんは次のように証言している。 Sさんは、1935(昭和10)年4月30日生まれの10歳だった。 「私たちが扎蘭屯に着いたときには、もうたくさんのソビエト兵がいました。町の宿に一家五人泊まっていた時、ソビエト兵が押し入ってきて、母に乱暴しようとしました。 父は母を守ろうと必死で抵抗したが、ソビエト兵から銃を突き付けられ、暴力を振るわれ守れませんでした。父、私、弟、妹の目の前で母がソビエト兵に強姦されたのが瞼に焼き付いて消えません。 ソビエト兵達は、母を含めて沢山の日本人女性をどこかに連れていき何日も強姦しました。一週間して母が宿へ戻り、毎日恥ずかしいと泣きじゃくっていました。 ソビエト兵に集団で強姦され、ナイフで傷つけられて、肉体的にも精神的にも痛み付けられ、母は数日後に死にました。母はそのとき38歳でした。」 その後、斉斉哈爾(チチハル)で父も伝染病で亡くし、中国人夫婦の養女となった。近所の中国人から「日本鬼子」とののしられて、貧しくて小学校も2年しか行けなかった。 1953(昭和28)年Sさんは生存確認されていたにもかかわらず、1963(昭和38)年「戦時死亡宣告」された。 1979年一時帰国したが、誰も身元引受人になってくれず帰国できなかった。1991年、岡山県で身元保証人が現れて永住帰国した。 今回の映画『再会の奈良』では、中国の陳ばあちゃんが、残留孤児の養女、麗華を1994(平成6)年、日本へ帰国させたが、数年前から連絡が取れなくなり心配して、孫娘のようなシャオザーを訪ねて、一人奈良にやって来ます。 シャオザーは、日本語が話せるけれど、日本の社会は残留孤児2世3世をはじめ、中国人には厳しい現実が描かれる。 中国人との結婚を拒む恋人の親、居酒屋のバイト、柿の選果場の仕事現場、今なお残る分断と不寛容の日本社会の現実が立ちはだかる。 定年を過ぎ、妻を亡くし、一人暮しの元警察官、吉澤(國村隼)の下心と世話好きがホッとする日本人役である。 行方不明の中国残留孤児、麗華の結末は、吉澤の元同僚から教えられる。 しかし、その後、お祭り会場に駆けつけるのは「奈良の村祭り」という観光的な画像を映画で描く常套手段なのか。何のために行ったのかよく解からない。 最後にうつむきがちに夜道を歩く3人を見て、何を理解させようとしたのか理解に苦しむところがあった。 母と娘の60年にわたる〝絆〟を描くなら、陳ばあちゃんと麗華の幼いころの回顧シーンが必ず欲しかった。 どんなふうに日本人残留孤児を中国で育てたのか。それなしに〝絆〟は見えてこない。そこは残念でならなかった。 さみしさ感じるも 私には大きな気付 内田 俊理 見終わって、まず〝さみしいな〟と感じました。ラストがハッピーエンドにならなかったことです。 そして、一人ひとりの登場人物が、人とのつながりが薄い中、懸命に生きていこうとしている姿に、これが現代の日本なのだろうかと感じさせられました。 また、苦労を重ねてこられた中国残留孤児の人たちへの日本の公的な支援というものが手厚いものではないのだとも感じさせられました。 作品をふり返ってみると、元警察官の吉澤一雄さんは、普段も人との関わりが少ない中、偶然、シャオザーさんと陳おばあちゃんの麗華さん探しに関わり、だんだんと寄り添っていく姿が光りました。 自分ができる範囲で最後まで関わる姿に暖かさを感じました。 麗華さん探しをする中で、初めは細い繋がりがだんだんと太くなっていき、問題を少しずつ解決していく姿に、現在の日中友好の光を見る気がしました。 繋がりを作れば、なんとかなるということでしょうか。 作品の中では、大きな事件は起きませんでしたが、淡々と営まれている日常の中に本当は自分の人生に大きな意味をもつようになるものが潜んでいるのでは、と思いました。 そこに希望を読み取ることの必要性を感じました。 この「再会の奈良」を見ての〝さみしさ〟は、私の大きな気づきにつながる〝さみしさ〟だったと思います。 残留孤児の問題に 心痛む思いで感銘 木下 建治 「再会の奈良」、早速7月3日に鑑賞させて頂きました。 中国と日本、残留孤児の問題について今までは語りでは聞いていましたが現実の状況を知り、この映画でなんとも言えない感銘を受け涙しました。 過去の出来事とはいえ現在もこの問題で苦悩されている人々が多くおられ、心痛む思いでいたたまれない自分であります。 私も改めて日中友好と残留孤児の問題に関心を持ち、微力ながら協力したいと決意させて頂きました。 ありがとうございました。
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活動日誌 | |
6/24…天津との医療交流リハーサル(岡山旭東病院) 6/28…真備町、吉備真備交流打合せ 6/30…会報「岡山と中国」発送(事務所) 7/ 1…岡山県日中懇話会理事会(西川原プラザ) 7/ 4…倉敷市市長公室訪問(倉敷市役所) 7/ 5…天津医療交流オンライン会議(旭東病院) 7/12…操南中青木校長ビデオ撮影(操南中) 7/13…真備中学校訪問 7/14…認定NPO法人継続申請書類提出(岡山市民協働企画総務課) 7/18…大阪総領事館一行来岡(吉備中央町、岡山市、後楽園) 8/ 6…岡山外語学院30周年記念式典(岡山外語学院) 8/19…会報「岡山と中国」8月号発送(事務所) |
会員消息 | |||
【新入会員】 内田 俊理 氏(岡山市) 木下 建治 氏(岡山市) 渋野 晃弘 氏(岡山市) 岡﨑 佳子 氏(岡山市) 【訃 報】 村上 尚 氏(大阪府) 7月24日ご逝去。初代瀬戸内日中友好卓球交流会会長。当協会設立時の発起人の一人であった村上栄岡山大学医学部教授(当時)のご子息。 |
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先憂後楽 | |||
今年は日中国交正常化50周年。年度初めの総会で、記念事業を行うと明記し、ひとつずつの活動を50周年記念と銘打って実施してきた。5月には総務大臣賞を受賞し、これまでの活動が国レベルで評価され、50周年に錦上花を添えるが如く、今後の活動に大きな弾みとなった。 一方、総会では重点目標の中に『温故知新、以て師となすべし』という言葉を指針とした。この指針に基づき、郷土が生んだ偉大な学者であり政治家である吉備真備公の顕彰活動を、日中間の教育交流やオンラインツアーなどへの協力を通じて実施、次代を担う青少年に日中関係の長くて深い交わりを学び伝えていく活動を残された下半期にやり遂げたい。 100年に一度といわれる激動の世界情勢、そして新型コロナの世界的蔓延という中で、日中関係も複雑で厳しい状況も存在している。この局面に対して、日中友好の旗を高く掲げることと同時に、悠久の歴史の中で切っても切り離せない中国との関係を今一度ふり返り、これからの友好関係を見つめていく契機としたい。 今すべきはお祭りでもセレモニーでもなく、市民の中に入って友好を共に考えていく地道な活動だ。 コロナが第7波に突入し終息が見えない。十分に気を付け、熱い夏を乗り越え、友好活動を実践していきましよう! (松) |