1999年12月
平成11年12月・12年1月
合併号
  130号

発行人 片岡和男
編集人 岡本拓雄
1999年の秋を飾る日中友好の二大イベント盛況裡に終わる
 1999年の秋を飾る日中友好の二大イベント、洛陽市申窪小学校と岡山綾南小学校の小学生が写した写真展と、申窪村から小学生二人を含む視察団が岡山を訪れた、その模様を以下お伝えしよう。

 日中双方の国旗の下に200枚の写真が並ぶ異例の展覧会は沢山の人目を呼んだ。何しろ会場は県下随一という岡山コンベックスであり、3日間の集客数は5万とも6万ともいう大混雑だった。

 小学生が撮ったこと自体が珍しいのに、それが中国農村の風景を対象としたため、風俗、習慣から見て興味を引いた。何しろどの家にも犬が番兵に立つとか、あひるが道路を占有するなど平気だ。顔を写真にくっつけて、眺めたり感心したり。日本側は大人も顔負けのスマートな作品で子供らしい目が至る所に光っていた。

 コンベックスでの展覧後は市内幸町岡山西川アイプラザで公開、綾南地区の父兄をはじめ多くの写真愛好家が見学に訪れた。作品はこのあとそっくり洛陽市に渡し同じテーマで彼の地で公開される。

せとうちライオンズ・クラブ 希望小学校建設資金募集
 岡山せとうちライオンズ・クラブ(番能和男会長)は洛陽市五頭鎮希望工程小学校の建設資金を募っている。五頭鎮は洛陽市の郊外といいながら黄土高原にあるため水利が悪く、農業さえも振るわない極貧村。同じような条件の申窪小学校を岡山市日中友好協会が募金し、校舎を寄付した前例にならい、新しい希望工程校建設を計画した。

 目標額は800万円で2年先の平成13年には完成を目指すという。すでにライオンズの友好クラブをはじめ市民多数の寄付を集めており、更に広く全市の応援を求めている。

洛陽市教育訪日団を迎えて                      綾南小学校長 高塚 幸巳
 岡山市立綾南小学校創立20周年を記念して洛陽市から5名の方々をお迎えし、ともに過ごした8日間は、短いながらもお互いの国情を超えた友情の絆を深く強いものにして過ぎた。その間、訪日団の方々からよく聞いた「二つの国は大きな海を隔てていますが、お互いの心は一つに結ばれています。(天涯若比隣)」という言葉が今でも忘れられない。また二人の児童、程君と陳さんの日中友好に果たした役割は大きなものだったと思う。綾南小での交流をたどりながら、振り返ってみたい。

 11月10日(水)は、訪日団の方々が初めて綾南小を訪れた日である。校門のところで6年生児童が「熱烈歓迎」の横幕と中国国旗で迎えた。体育館での児童会主催の歓迎集会では、国際交流クラブが中国語で歓迎の言葉と歌を発表した。練習の成果があったようで、児童の発音はすばらしいと訪日団の先生方にほめていただいた。また、中国雲南省の民謡「編花籃」には遠い故郷を思い出して万感の思いを抱かれたようである。ひとえに国際交流クラブを指導してくださっている王燕先生のお陰であろう。同日の午後、訪日団の韓団長、相校長、李通訳の3人と綾南小職員との懇談会が行われた。綾南小職員からは中国の教育について質問が集中した。日本と教育制度は同じでも学校教育の内容は大きく異なって、子供も先生も点数で評価されるという厳しいもので驚いた。

 懇談会の時、程君、陳さんは6年生児童の家に行って一緒に遊んだ。程君はやりたかったテレビゲームを、陳さんは折り紙を楽しんだ。二人と過ごした児童たちは次のように感想を述べている。

 「程君には一つの夢があり、今からがんばっていました。とても真面目で日本の勉強などに興味を持っていてびっくりしました。僕は程君と遊んで、申窪村や中国の人々の努力のすごさがよく分かりました。」「言葉が分からないので理解し合えない時もありましたが、共に過ごす機会が持ててよかったと思います。時間はかかってもお互いの文化などを知ろうとするのは大切だと思いました。」

 陳さんは、来日以来ずっと食欲が無かったがこの時出されたものは全部食べたと聞いている。子供同士の気安さに心を開いたのだろう。

 また、授業や遊びを一緒にした6年生の児童は、私は最初言葉が通じないと遊ぶことは無理だと思っていたけど、言葉が通じなくても一緒に遊んだり楽しんだり出来ることが分かりました。きっとそこに見えない何かが私たちをつなげていたのでしょう。中国の人たちが来てくれたお陰で私たちは申窪村の小学校の人たちといっそう交流を深める事が出来ました。私たちは来年卒業してしまうけれど来年もそしてこれからも、もっともっと交流を深めて欲しいです。」と話している。

 11月12日(金)は創立記念日だった。朝から雨が降っていたが、綾南小と申窪村小の友好記念碑の除幕、創立記念式、記念音楽発表会などがあった。程君、陳さんは音楽発表会のとき2曲、中国の歌を歌ってくれた。「四季歌(四季の歌)」と「歌声与微笑(歌とほほえみ)」である。堂々と歌って、大きな拍手を受けた。また、相校長は離日する際に、この音楽発表会の「かわいい生徒たちの美しい歌声が今でもまだ私の耳に残っています。私はこの歌声を一番のお土産にして我が校の生徒達にあげたいと思う。」と書かれた手紙をくださった。

 11月13日(土)の綾南フェスタでのお店回りで友好を深められ、また岡山市や岡山県内だけでなく大阪や京都方面まで視察された大変慌ただしいスケジュールを元気にこなされて、11月16日(火)に空路帰途につかれた。

新中国建国50年記念文化講演会(最終回)      元 駐日中国大使館公使 丁 民 さん
法輪功

 開会の挨拶の中で、三島会長が触れられた問題にお答えして終わりたいと思います。
―法輪功
 法輪功の集団が中国の政治の中枢である北京の「中南海」を包囲するまで、私は、うかつにもこれについて全く知らなかった。デモの3日前にアメリカに住んでいる教祖の李洪志が気功を広めるために帰って来て弟子達に指示を出して騒ぎを起こした。

 法輪功は健康のための気功で、最初から宗教的な色彩を帯びたものではなかった。自分の気功(法輪功)は、中国に昔からある二つの流派を組み合わせて作った健康のための気功であると李は語ったことがある。

 中国では気功を習いに行くと普通はマスターするまで、2ヶ月で幾らと金を取って教える。ところが法輪功は金を取らないで教えるので皆これに入っていった。金は取らないが金をまきあげるのは上手で、書籍、録音テープ、ビデオ、写真、図解などを大量に製造して売りつける。原価5元くらいのものを90元くらいで売って大儲けをし、その上税金を納めないので莫大な財産を作った。李洪志は世界のあちこちに豪邸を造っている。

 自分は病気が治せるのだ。せむしの人でも私が背中を5回くらいたたくと曲がっていた背中がシャンと伸びたとか言って自慢し、入会を誘う。講演会でそんなことを言って宣伝するが、実際に治ったのを見た人はいない。そういうことでやっていたのが、だんだん迷信的な内容になり、邪教じみてきた。地球は今年爆発する。しかし、私が今それを喰い止めて30年位後に引き伸ばした。また江沢民主席も何回も私に頼みに来たとか、ある筈もないことを平気で皆の前で言っている。

 気功は仏教から生まれたのと道教から生まれたのがある。法輪というのは人体の丹田(臍の下)のあたりにあり、それが体の中を回って悪い所を良くする。病気になっても病院に行くことはない。法輪功をやれば治る。宇宙のあらゆる物質はすべて霊体で、宇宙と社会の災いは自分を通してのみ救われるといいふらして世を惑わしている。

 ほかの気功は、ある程度教えて自分で出来るようになったら後は個人任せであるが、法輪功は全国に網の目のように組織を作った。北京に全国規模の「法輪大法研究会」を設けて李洪志が会長になり、後に各省・自治区・直轄市に39の法輪功支部、1,900余りの拠点、23,000余りの修練所を次々に作った。これは皆非合法組織である。

 不思議なことに法輪功にはインテリと言われる人が多く入っている。中には大学の哲学教授もおり、法輪について理論的に説明して勢力を拡大した。中南海で騒ぎを起こしたきっかけは、天津師範大学教育学院の何●▲教授が「青少年の気功に賛成しない」というタイトルで、法輪功の奇跡に疑問を持った内容の文章を発表した。自分の研究室の若い研究員が法輪功をやったため気が狂ってしまった実例があるから警告したのである。この文章こそ行動を起こすチャンスだとばかりに、4月19日、多くの修練者が突然天津師範大学教育学院に現れて座り込みやデモを行った。李洪志は天津のこの事件を利用して全国から人を集めて中南海を包囲し「法輪功の要求を認めよ」と政府に圧力をかけようとした。中国政府は非合法活動と脱税の罪で教祖の李洪志を逮捕しようとしたがアメリカへ逃げたため逮捕できなかった。指導部の幹部が何人か逮捕され、一応の決着はついた。
(紙面の都合で以下を割愛いたします。ご了承下さい。文責・岡本)

悲劇の青春を訪ねる旅(最終回) 満蒙開拓青少年義勇軍殉難者祈念
                                岡山県立総社高校教諭 青木 康嘉
 旧大隊道路はそのまま残っていた。供養した場所から、約1キロぐらい西に行った所でバスを降りた。今は赤煉瓦の集落が立ち並ぶ。

 当時冬の暖房用の薪を取りに付近の山によく行った。時折「ノロ鹿」が出没し、撃ったこともあると言う。雪の広野の薪運びで、凍傷にかかって手足を切断したり、死亡した隊員も多い。

 山と営舎の間に、現在は高速道路が走っている。近くには巨大な火力発電所がそびえ建っている。

 大茄子訓練所の当時の生活を聞いたら、元隊員の人の話は尽きない。55年前にタイムスリップするように、少年の瞳に戻る。

 入営した日の夕食が「お祝いの赤飯」かと思ったら、紅い高梁飯であったこと。右手先生の指導する軍事教練の厳しさ。広大な農場作業の厳しさ。特に夏の除草や秋の収穫は忙しかった。しかし、日本のように冷たい水は飲めなかった。「故郷の冷たい水が恋しかった」と言う。

 大茄子訓練所付近の冬の寒さは、氷点下40度。風呂から上がってタオルを振ると、そのまま凍って棒になった。一番困ったのが便所だった。大便が直ぐ凍ってしまう。そこで便所当番が鋸とツルハシで岩石状態になった物を破砕し、モッコで運ぶ。凍った物体の飛沫が全身につきまとい、それがオンドルの暖かさに溶けたときの「匂い」の話。

 そして、何よりも辛いのは冬の不寝番。寒さや眠気との戦いもさる事ながら、狼の恐怖が付きまとった。家畜を襲い、屋根や人間を軽く飛び越えることはよくあった。「だから、頭上の狼を見ることは厳禁でした。上を見た瞬間、目に砂をかけて目つぶしをするんです」(竹中福男さん談)

 こうした、越冬生活に終止符が打たれた。昭和20年になると、関東軍は満蒙開拓青少年義勇軍を戦略と戦力に利用し始めた。

 3月には大連の関東軍三八〇部隊へ軍馬の育成に3名が派遣された。5月には皆木先生以下31名が次々に現地部隊に派遣された。こうして大茄子に残ったのは、幹部無き15歳の少年30名のみだった。

勃利空襲と逃避行

 七台河市から、勃利駅まで約40キロ。有料高速道路をバスで約1時間走った。

 北満の大地と丘陵は、トウモロコシ、大豆、ひまわりなどの畑が美しい。遠く列車の窓から見た風景が、手の届くところにある。

 勃利駅前は、喧騒な庶民の町であった。駅の裏を少し牡丹江側に走り、トウモロコシ畑の側で、逃避行の中死亡した5名の慰霊を行った。

 今回の旅に参加予定であった坪根孝さんは、4月に入院された。さぞ参加されたかっただろうと思う。昨年の暮れ、坪根さんに講演してもらった時の資料に添って振り返ってみることにしたい。

 昭和20年8月10日早朝、ソ連の参戦を知り大茄子訓練所は騒然とした。村上中隊は残留部隊約30名。この年5月、後輩の藤森中隊も175名が派遣されていた。

 中隊の物資を、穴を掘って隠した後、雨の中勃利の街をめざして歩いた。駅前近くの広場には、兵隊数十人、義勇軍、開拓団の婦女子等約3,000人いた。義勇軍2人に1丁の銃と弾薬、それに2日分の乾パンが支給された。

 8月14日、牡丹江に向けて出発した。1時間後、振り返ると勃利の街は空襲にあっていた。その後、山肌を縫うような道で、ソ連軍機による空襲と機銃掃射を受けた。阿鼻叫喚の地獄。蜘蛛の子を散らすように、山へ畑へと逃げる。すぐ側で、立花君が撃たれて死亡した。ガクガクと震えが止まらなかった。また、春名君、花房君もここで死亡した。3名を埋葬するどころか、遺品一つ持ち帰っていないことを坪根さんは後悔している。

 翌15日も亜河駅付近で、空爆と機銃掃射にあった。パイロットの顔まで見えた。ロケット弾が機関車を直撃した。大豆畑や高梁畑に這いずり回って逃げた。

延吉と捕虜収容所

 延吉の街には、フルハト河が静かに流れている。かつて間島市と呼ばれ、関東軍第三軍司令部があり、日本人居住区があった。

 市内から一望できる山並みの麓に捕虜収容所があった。約1万人もの日本軍の捕虜が、ここへ収容されては、数ヵ月後にはシベリアの強制労働へと送られた。

 東京城から歩いて来た義勇軍も最初ここにいた。収容所の板場に、破れたドンゴロス(麻袋)で寝た。1日2回湯飲み茶碗1杯ほどの高梁粥が支給されただけだった。

 藤島さんは、ここを脱走して延吉市内の野上さんという老夫妻の家に住ませてもらった。収容所の元日本兵との物々交換をして暮らして越冬した。「その時、日本兵に近づいただけで、ソ連兵に何度も撃たれそうになったんじゃ」と言う。

 坪根孝さんや廚子琢之さんは、「義勇軍の仲間内が弱肉強食の世界だった。ネズミを取り合い、喧嘩もした。またこの収容所で、6人が昭和20年の11月から12月頃にかけて亡くなった」という。

 亡くなった仲間を、延吉の南側の山裾斜面まで運んで埋めた。しかし、山裾は赤煉瓦の住宅が建ち並んでいた。近くで手を合わせることしかできなかった。

 こうして、延吉の厳しい越冬の末、葫蘆島から帰国したのは、昭和21年の9月から10月頃だった。(紙面の都合で一部割愛しました。)
[注]悲劇の青春の旅は一応これをもって掲載を終わるが、詳しくは青木康嘉氏の著書がある。同名51ページ、一部500円。協会で取り次いでいるので希望者は申し込んで下さい。

定例総会と互礼会
 岡山市日中友好協会の平成12年度総会は春節に当たる2月5日(土)に開催する。当日は午前10時から定例総会を開き、10時半からは記念講演会、正午から互礼会を開く。総会と講演会は、いつもの駅前日生ビル5階会議室、互礼会は同じビルの9階八仙閣で行う。

 また恒例のバザーを互礼会場で開くので会員のご協力をお願いする。提供して頂く品物は何でもよいわ訳ですが、会員に喜んで買って貰える日用品とか、酒類、菓子類、食品など。年末頂いた贈答品の残りも可です。品物は1月29日までに協会事務所へお届け下さい。バザーの売上は中国の福祉のために使わせて頂きます。記念講演会の講師は、国定剛氏(前中国銀行上海駐在員事務所所長)で演題は「最近の中国事情」

 なお参加費は7,000円、当日受け付ける。

洛陽廟の奇瑞 長泉寺に完成                       長泉寺住職 宮本 光研
 岡山市南方、長泉寺(宮本光研住職)の楽陽廟落慶式は11月21日執行された。信徒ら約100人と中国洛陽市の白馬寺から2人、スリランカから1人の僧侶も加わり、厳かに盛大に祝宴を終わった。この日絶好の小春日和で珍しい建築様式が秋の陽に映えて感動する人が多かった。

 楽陽廟のいわれについて宮本光研住職が語ってくれた。

 洛陽白馬寺の海法大師が98年12月、78歳でご遷化。お葬儀に馳せ参じて驚いたことに霊廟『普同塔』が寺庭に新築されていた。

 その形、方位、スケールがわが設計『楽陽廟』の意図とあまりに似ていた。ああ、大師も同じことをお考えだったか、という思いに打たれた。信徒さんの永代供養廟、わが墓塔でもある。未来を想い定めて「普同」(皆同じく)といい「楽陽」(楽しく明るく)と名称したのも同じ意味である。

 長泉寺・楽陽廟は93年、白馬寺から玉仏釈迦像を頂いたことで始まる。釈迦堂を建てるに当たり、信徒の永代廟も構想された。そして今般11月21日、晴れて御廟が落度し、白馬寺印慧、鋼楽法師が招提された。

 昨年末、洛陽でシンセサイザー「西村直記コンサート」が開催された。その折、白馬寺へ同行し、恐れながら海法大師のお骨片を頂戴すべく申し出た。その結果、大師のお骨「真身舎利」二粒を賜わることができたが、驚いたことにお舎利が青緑色の結晶だった。火葬の遺骨から青い骨粒が何十粒も採れるなど聞いたこともない。釈迦の仏舎利は白い米粒状と知らされていたことから不思議な感に打たれた。中国仏教が舎利採取の伝承をもっている。日本仏教に長たることは間違いない。

 それと大師の御舎利が今もあたたかい。体温のような霊気が感じられるのだ。御廟の2階スリランカ請来の仏舎利塔にまつられている。玉仏の霊妙なる微笑とともに皆さま方に値遇していただきたい。

 
活動日誌
10/15~20 上海威海路第三小学校来岡
10/22~26 せとうちライオンズクラブ訪中団洛陽を訪問
11/12~16 洛陽申窪村小学校代表団来岡
11/19 中国三誌友の会第81回例会
11/19~28 洛陽白馬寺訪日団来岡
11/21 第39回中国語検定試験 ノートルダム清心女子大学にて実施
11/21~23 日中こども写真展開催
12/7~14 上海市盧湾区教育視察団来岡

会員消息
【入会】
岡山市南古都、小林克嘉さん

日中囲碁交流 5勝4敗で中国勝利 
 洛陽市からアマの囲碁棋士9人が岡山のアマ棋士と対戦、友好の好試合を楽しんだ。遠来の客は李海専業五段を筆頭にアマながらいずれも強腕の棋士で終始手に汗握る熱戦だった。対局は12月2日トポス内の囲碁サロンで開かれ双方初顔合わせのあと斉藤正弘会長からルールなどの説明があり、早速持ち時間45分で開始した。結局洛陽勢が5勝4敗で勝ったが、友好第一を重んじる両者はそんなことに頓着無くお土産の交換をしてはしゃいでいた。

 なお囲碁団を引率したのは方双建・洛陽市外事弁公室副主任で、市長を表敬訪問するなど忙しい日程をこなし、12月4日大阪を経て帰国した。成績は次の通り。印が勝者

日本側 中国側
松井 朗4 --- 周 誠3
河原 弘之助2 --- 王潼玲初
大熊 文行6 --- 李 海5
増田 雄一6 --- 田 豊順
森 立志6 --- 劉 霞4
立花 一也 --- 王 忠良3
村上 晃5 --- 劉 進勝
河本 質6 --- 袁 超4
西井 健一 --- 王 紅星2
算用数字は段を表す。

外国人就学生の来岡増える
 岡山外語学院(片山浩子校長)の秋の入学式は11月26日に行われ47人が入学した。内訳は中国が殆どで、他に韓国、ロシア、ネパールなど。今回の入学で就学生の総数は166人になり、これまでにない最多の数になった。そこで本館の教室だけでは収容できないので、別の建物を借用、2教室を増やした。同じ傾向は他にもあらわれ、長船日本語学校の在校生も新記録、英数学館も春の段階で定員をオーバー、秋は募集しなかったという。

先憂後楽
 中国では、建国50周年を期に全国各地で空港や公共施設の整備が実施された。法輪功問題や国営工場改革など多くの課題を抱えながら、秋にはアメリカの支持表明によってWHOへの加盟が固まった。このことの持つ意味は計り知れない。

 日中関係では昨年の江沢民総書記の訪日で交わされた青年交流が始まった。県下でも修学旅行を含めて学校間交流が活発になり、3月には日中教育交流協議会が設立された。

 協会も再来年20周年を迎えるが、新世紀の交流に相応しく民間団体としての優位性を発揮して役割を果たしたい。(松)


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