協会の歩み 1996年
郭沫若の書「行楽園と鶴」五言絶句を額装して賛助会員に配る
1996年(平成8年) 15周年を祝う記念式
 第15回年次総会は2月10日(土)駅前第一生命ビルで開会した。まず三島会長が15周年の節目を強調し今後も日中友好のために努力することを誓った。そして記念行事として、@15年史を編纂するAイベントとしては王綉画伯展覧会を開くB岡山市民親善訪中団(岡山市主催、チャーター機による大型訪中団)を全面的に支援すると発表した。続いて決算、予算の承認などの末、役員改選は一部交代の外は全員留任した。そのあと記念講演「干支の話」は元京都大学人文科学研究所所長・尾崎雄ニ郎教授が文字の発明から始まる中国古代文化について難解なテーマを判り易く爆笑の中に解説して終った。
 午後は八仙閣に会場を移して互礼会が始まった。最初は協会発足時から援助を惜しまなかった賛助会員11社に感謝状を贈呈、更に記念品として郭沫若書五言絶句「行楽園と鶴」の額装を贈った。これに対し授賞者を代表して石村道雄氏(中銀常務)の謝辞があり宴会に移った。会場一杯に旧正月を祝う「恭禧」「恭禧」の言葉が飛び交い、余興の中国服による伝統の踊りなど披露され慶祝ムードに包まれた。一方、恒例によるバザーは会員持参の食料品、書画、衣料、雑貨などたちまち売り切れ。また釋海法白馬寺和尚の掛け軸即売展にも愛好者が集まり気に入った名品が次々持ち帰られた。バザー、軸展の売上げ利益は洛陽市老人ホームに届けられる。
 ※役員一部改選は新規に赤木宣雄さん、退任油谷道子さんが決まった。また授賞した賛助役員は以下の11社。
 日本感光色素研究所(速水正明社長)、両備バスグループ(松田基代表)、最上稲荷総本山(稲荷日應管長)、岡山高島屋(西村誠一社長)、研美社(油谷道子社長)、中国銀行(稲葉侃爾頭取)、トマト銀行(吉田忠明社長)、岡山理科大(加計勉学長)、河合外科(河合進院長)、マツダ商事(金本新吉社長)、六車清茂。
井原市の小田川河畔に建つ内山完造先生頌徳碑(廖承志氏の書)
協会の招きで来岡した王綉さん(洛陽博物館長)は毎日揮亳で多忙
王綉画伯の個展賑わう
 協会創立15周年を飾るイベントとして、洛陽を代表する牡丹画家王綉さん(洛陽博物館長)の近作展覧会を3月20日から24日までRSKメディアコムで開いた。初日から大勢のファンが詰めかけ匂うばかりの牡丹の色に感嘆の声が上がった。即席揮亳にも応ずとあって申込みが殺到し、ついに画伯の滞在中には描き上がらない。結局、帰国後に描いて送るということになった。展覧会は新見市でも開き26日王綉さんが現地で立会った。
 また絵画展に併設して中国物産展を同じ日程で開催し、市民の間に中国ブームを起こした。これは玉撰洞(洞冨美男社長=会員)の肝入りで東京、大阪などの業者が協力、書画骨董などいわゆる中国のものを陳列、漢方薬とか墨、筆、硯さては紫壇、陶器などが人気を集めた。
雲南省の大地震救援の寄付
 中国雲南省の大地震に際し当協会は30万円を寄付した。地震発生と同時に行動を起こしたのはAMDA(菅波茂医師=協会会員)で世界のどこよりも早く医師を派遣し応対した。その後現地の実情は救援物資の必要が痛切であることが判明、チャーター機で医薬品と毛布など送る手筈を整え関係先にSOSを流した。わが協会はこれに応え、松井事務局長が協会の善意を現金にして託して渡したもの。また岡山市民親善訪中団(安宅市長団長)は4月15日訪中した際、145人全員の協力で14万5千円を雲南地震の復旧に役立てるよう、洛陽市長に寄付した。
岡山空港は臨時も定期も年々増加し近く滑走路を延長する
岡山から定期チャーター便
 岡山県は今年も岡山空港と上海空港を結ぶプログラムチャーター便を計画し旅行会社に協力を呼びかけた。期間は4月23日から10月23日までの12便、上海以外にも杭州、桂林、広州行きが含まれる。航空会社は東方航空と南方航空の両社。岡山県は昨年初めてプログラムチャーター便を試み広島県と競ったが敗れた。結局実績のある広島が勝って今春から広島空港−上海間の路線が開設されている。そこで一歩遅れたとはいえ今年の成績が良ければいずれ次の選考では中国側の認可を得られると再度挑戦した。
 県国際チャーター便推進本部の梶尾参事は協会を訪れて「ぜひチャーター便を利用する視察団を中国へ派遣してほしい。岡山は中四国の要路に位置しており、他県には負けられない」と語った。
親善訪中団が歓迎攻め
 岡山市と洛陽市が友好都市の縁組みを結んで15年になるのを記念して市民親善訪中団(団長・安宅市長)が4月14日岡山空港を発ち一気に洛陽空港に到着した。空港には出迎えの市幹部や市民ら大勢が待っており滑走路の横で歓迎の式典が始まった。以来丸二日間歓迎攻めの行事が昼夜続いた。
 初日は歓迎レセプション。親友誼大酒店一行145人を迎え「乾杯」が賑やか。劉市長、安宅市長もテーブルを回って互いに友好都市を賛えた。翌15日は早朝から行事が始まる。まず記念祝典が行われ両国国旗の掲揚、国歌斉唱。つづいて両市長の挨拶。市議や市民の祝辞が続いた。安宅市長は「両市の友好は永遠に継ぐべきものだ。その証に記念の桃太郎像を贈る」と目録を渡した。その後龍門石窟、関林を見学。夜はグランドのマスゲーム鑑賞に招待され10時を回って宿に帰る。
 翌日一行は白馬寺へ、一方協会の役員たちは婦幼保健院、第二福利院の老人ホームを訪ねた。どちらも市長同道なので旗を振る子供たちの出迎えで派手な対応に驚く。老人ホームでは一昨年から継続の寄付金贈呈式が行われ今回も30万円を渡した。ホーム内を慰問したがどの老人も「楽しい生活」を感謝していた。洛陽滞在中はホテルに旧知の人が訪ねてきて旧交を温めた。15年前提携時の市長・任普恩氏とその家族までが「岡山の友人に会えてよかった」と手を握って別れた。元留学生たちも顔を見せた。市民レベルの交流が15年の間にすっかり定着したように思えた。午後の列車で西安に向かうまで多くの見送りを受け再見を繰り返した。
 訪中団は西安に2泊し兵馬俑、華清池、大雁塔など参観した後、空路敦煌に飛んだ。ここは今回の旅行の目玉観光地ともいえるところ。砂嵐を浴びて鳴沙山に登ったりラクダの背中で隊商の夢心地を味わったり文字通り童心に返る。そして目指す莫高窟に案内される。砂漠のオアシスに千年以上も昔の仏像と壁画がほぼ完璧な状態で残っているのに感動する。激しい黄砂の中にも拘らず予定の時刻に空港を発ち上海に降りて2泊、22日岡山空港に帰着した。
中国銀行が上海に駐在事務所
 中国銀行(稲葉侃爾頭取)は上海駐在事務所を5月2日に開設した。同行は中国の開放経済に伴い中国本土との関係が深くなり香港事務所より更にふみこんだ華中に事務所を設けるもの。スタッフは国定剛開設事務室長他2人で上海国際貿易センタービル20階にオープンした。中国本土には漢字で同名の国立銀行があるので表示には特に気を配り、称号は「日本CHUGOKU銀行」とした。
 香港事務所は岡山県とその近辺からの進出企業100社に情報提供や支援体制を敷いてきたが、このうち半数が上海事務所の扱いになると見られる。なおこの上海事務所の開設で中銀の海外事務所はニューヨーク、ロンドン、香港を合わせて4ヶ所になる。
左から川崎祐宣、司会者、山本遺太郎、中西寛治氏らのてい談会
川崎祐宣氏、中西寛治氏逝く
 わが協会に常に好意を寄せた川崎祐宣氏は6月2日、また協会設立以来援助を惜しまなかった中西寛治氏は7月22日あいついで死去した。2人は中国に対する愛着が深く友好運動に大きな功績を残した。川崎理事長は医科大学同士の提携や留学生の受入れ、中西氏は郭沫若、内山完造両先人の顕彰に特に骨を折られた。
 また2人は昭和31年冬まだ国交回復の遥か以前に岡山県学術文化視察団(林秀一岡山大教授が団長)を結成して訪中、毛沢東主席と会見して世間を驚かせた。同席した郭沫若氏が岡山と縁があるため顔をたてたのか主席は多忙の日程の中を数時間をさいて会議に応じ、くつろいだ巨人の「素顔」を見せた。
 川崎理事長は会見の席でタバコの火を主席に付けてもらったことを語り草とし「世界中で毛さんにこんなサービスを受けた人はいないだろう」が自慢であった。
 協会報1990年12月号に同じく訪中団に参加した山本遺太郎氏(当時吉備路文学館館長)とのてい談が掲載されている。3人とも明治生まれの男らしく世相を論鋒鋭く斬りまくり「日本の政治家はダメだ。毛主席の髪を煎じて飲ませたい」としめくくっている。
旧満州開拓団跡を尋ね松を植えて友好を誓う
旧満州開拓団跡を尋ねる
 旧満州開拓団跡を尋ねる会(加藤孝之団長・有漢町長他17人)は戦後51年を経て8月3日から10日訪中した。訪ねる先は既に跡かたもない大豆畑で、僅かに土塀が残ったり井戸があったり。花束を捧げ位牌を飾りお経を小さい声で唱えた。一行はハルビンから800キロ、バスで3日費やしやっと上房大主開拓村に着いた。そこはかって上房郡から入植した人が多くこの名がついた。大半の人が戦後ソ連軍に追われて死亡し生存者は3分の1にすぎなかった。
 慰霊が大きい目的とはいえ日中友好に役立てたいとの趣旨から訪問先には教育助成金や遊具を贈りまた植樹した。資金は一般から募ったもので総額86万円に達した。

戻る   このページのトップへ トップページへ