協会の歩み 1984年〜1985年
范曽美術館がやっと完成、右から松田基、陳舜臣、鈴木保氏ら
1984年(昭和59年) 范曽美術館設立に協力 
中国の著名な文人画家范曽氏の絵画を集めた范曽美術館は、3月30日岡山市西大寺の現地で開幕式を行った。式には中国大使館から文遅臨時大使、葵子民文化部参事官。岡崎喜平太氏、作家の陳舜臣氏ら著名人らも参列した。また開幕式に先立ち前日の29日には三木記念ホールで会館記念講演会が開かれ、陳舜臣氏と美術評論家の鈴木進氏が中国画の歴史と范曽氏の業績について講演、美術館オープンについて賞賛を惜しまなかった。聴衆は約600人に上った。
 范曽美術館の設立に当たっては、個人名を冠する例がこれまで中国にないことから、容易には中国の許可がが下りなくて交渉はしばしば難航した。協会はその中に入って大使館を訪ねたり中国に働きかけたりしてようやく1年がかりで許可にこぎつけた。
総会で留学生が講演
 10月8日、岡山県農業会館で第3回総会が開かれた。冒頭に赤木五郎会長が1年間の協会の歩みを締めくくり、向こう1年の活動の方向を指示した。続いて松井事務局長が活動報告、決算報告を行い、会費の納入率を高めることを条件に了承された。引き続き活動方針、予算案を審議し、提案通り可決された。総会は新役員を選出して閉会し、記念講演に移った。内モンゴル大学よりノートルダム清心女子大学に留学している李静氏が「内モンゴルの自然と情緒」と題してスライドを交えて30分の講演があった。8月末の会員数は205名である。
日中友好バッチ好評!
 岡山市日中友好協会制作によるバッジ(会員バッジ)は会員だけではなく訪中団の記念として、また訪中団の土産として重宝されている。このバッジは後楽園の丹頂鶴を図案化したもので会員の村上隆氏(デザイナー)の作品。七宝焼でできている。頒価は1個500円。
瀋陽医科大学へ図書を寄贈
 岡大研究生劉震宇氏が帰国に際し「奉職先の瀋陽医科大学に日本の図書が少ないので寄贈してもらえないか」と言われたので、協会の運動として取り組むことになった。この経緯が山陽新聞や朝日新聞に報道され最終締め切りまでに60件約5,000冊の寄贈があり、中国へ向けて無事発送した。
武振国洛陽市長から贈られた牡丹が発芽し花が咲いた
友好の牡丹咲かせて・・・
 4月6日、武振国市長を団長とする洛陽市代表団5名が岡山−洛陽友好都市3周年を記念して来岡した。
 わが岡山市日中友好協会は4月7日に表敬訪問を受けた。訪問を受けるにあたって赤木会長をはじめ協会役員、岡山市日中青年交流会、清輝小学校児童、岡山県予防医学会の職員ら70名が熱烈に出迎えたるこれに対して武振国市長は協会の努力に対して敬意を表明し、今後の協力を誓った。そして協会へ洛陽牡丹の種子152粒を送った。ちなみに種を育てた岡本拓雄理事の庭では毎春友好の牡丹が咲いている。
実践中国語講座が開講
 日本と中国との交流が深まるにつれて市民の間に中国語修得熱が盛り上がってきたので、それに応えるため6月7日(1984年)に協会主催で「実践中国語講座」を開講した。
 中国語が始めてという人を対象に初級クラスを、1年以上学んだ経験のある人を対象に中級クラスを用意した。毎週1回2時間の講習で受講料は月額5000円、講師はいずれも中国人が担当することにした。反響がよくて次第に受講者が増え更に、上級クラスも新設し今日に至っている。また腕だめしに中国語検定の受験を希望する人が多く89年から協会が斡旋して岡山でも受験できることになった。
 
絶滅の危機からパンダを救う運動が展開
パンダ募金に協力
 「絶滅の危機からパンダを救おう」と全国で日中関係者らが救援に乗り出したが、岡山市でも実行委員会が発足し、キャンペーンを開始した。四川省人民政府からも感謝と激励のメッセージが寄せられた。
 8月1日、岡山市高島屋1階で「パンダ絶滅の危機を救うキャンペーン」の出発式が行われ、実行委員会代表の池田隆政氏と協会赤木五郎会長がそれぞれ挨拶、「笹枯れのために飢えているパンダを救おう」と決意を表明した。出発式にはパンダ救援に役立たせようと市内の朝日塾幼稚園児が描いた絵が展示され、同幼稚園の園児約70名も参加した。高島屋では14日までパネル展とNHKビデオを上映した。なお募金と共にパンダパッジの販売も行われた。
 また9月18日には四川省から代表団が来岡、わが協会と共催で講演会を開いた。危機にあるパンダの詳しい話や、生き生きとしたビデオテープが上映され、パンダの救援が訴えられた。
 岡山のキャンペーン実行委員会からは10万円が代表団に手渡され、また朝日塾幼稚園児らが絵を贈った。
 
洛陽安徽路小学校で大歓迎を受ける児童交流団
岡山から児童交流訪中団
 協会報5号に児童交流訪中団の記事が六車副会長の署名で掲載されている。以下はその要旨。
 私は第一次訪中団に参加して一昨年洛陽市を訪れた際に安徽路小学校で熱烈な歓迎を受けた。その夜市長から赤木団長に「学校同士で縁組みしてはどうか」と提案があり団長は私に努力するよう依頼した。私も賛成なので帰国後、清輝小学校側に話して同意を得、早速児童の作品交換を始めることに決めた。
 間もなく、洛陽市の経済視察団が来岡した。この一行に清輝小の作品を託したところ、先方も安徽路小の作品を持参していた。こうして訪中、訪日の度に贈ったり貰ったり。二つの学校は親密の度を深めた。そこで更に一歩を進め、私は、洛陽市に児童交流をしたいと提案した。またこのことを清輝小学校へ伝えた。結局、日中友好協会の事業として協会が主体性を持ち、学校側が協力することに決まった。紆余曲折があったが、今年4月28日岡山洛陽市縁組3周年を記念して日中児童交流友好訪中団を結成した。団員は児童9名大人26名計35名で、8月2日出発と決定された。
 我々はこの行事によって子供たちが自分の目で直接外国を見て世界観を広め、かつ児童同士の肌のふれあいで、お互いに理解を深め、日中友好が将来一層強く結ばれ続くことを望んでいる。
         (岡山市日中友好協会 副会長 六車清茂)
内山完造生誕100周年を記念して来日した周海嬰氏内山正雄氏
周海嬰氏の一行を歓迎
 11月7日、文豪魯迅の子息周海嬰氏(北京放送局幹部)、上海魯迅記念館の楊藍副館長、元内山書店に勤務の王宝良氏そして現在東京の昭和女子大学に留学中の周海嬰氏の令嬢・周寧さんの4名が来岡した。この一行は内山完造氏の生誕100周年を記念して来日したもので、岡山では内山完造顕彰会と岡山市日中友好協会が接待した。
 一行は、NHK岡山放送局見学とインタビュー、岡山大学訪問、范曽美術館、後楽園参観、岡山高島屋見学など忙しいスケジュールをこなした。特に郭沫若が卒業した岡山大学(当時の旧制六高)では大藤眞学長表敬のあと文学部の教授、学生ら約50名に迎えられ魯迅の想い出話がいつまでも続いた。
第4回総会開催
 11月10日、岡山国際プラザ(岡山商工会議所2F)で第4回総会が開かれた。赤木五郎会長の「設立以来既に3年余りを経過し、その間会員は勿論各方面の温かいご支援と深いご理解によって日中友好推進のために貢献できたことを喜びとします」という挨拶のあと、松井事務局長の活動報告、決算報告、活動方針、予算案の提案があり、一括審議して承認した。活動方針の主なものは、内山完造生誕100周年記念事業、范曽美術館1周年記念活動、中国民族歌舞の紹介、中国三誌の普及、研修生の受入れ等である。
 会員数217名。賛助会員16法人。
1985年(昭和60年) 「現代中国映画上映会」発足
 2月2日、協会の若者たちの自主的活動として「現代中国映画上映会」が発足した。第1回として「逆光」がビブレホールで上映され、約90人のファンの人が鑑賞した。ひと口に「日中友好」といっても、その範囲は広く、中国旅行、講演会、中国語学習者の交流等々いろんな形態・方法はあるが、新しい現代の中国を描いた映画の上映会は、現代中国を知り理解する上で非常に効果があると関係者を勇気づけた。(資料D)
歓迎レセプションで挨拶する教育考察団の勝団長
教育考察団を歓迎
 范曽美術館の1周年を記念して南開大学の滕維藻校長を団長とした教育考察団が来岡した。前年は来日できなかった范曽氏自身も来日し、中国大使館からは宋之光大使が岡山で合流した。
 一行は3月29日の日航機で大阪空港に到着、その足で岡山に向かった。岡山駅では協会の赤木五郎会長、松田基范曽美術館長ら関係者多数が出迎えた。この度の教育考察団の来日は、范曽美術館設立1周年記念事業に参加することも大きな目的とされていた。30日には岡山大学・岡山理科大学を訪問し交流を深めたが、特に岡山理科大学との間では長期的な学術交流の提案もされるなど今後の交流の拡大が期待される。
内山完造展開かれる
 内山完造生誕100周年記念行事の皮切りとして、2月14日から19日まで岡山高島屋で「内山完造展」が開催され、内山完造氏の生前の活躍を示す多くの著書、遺族から寄せられた写真や直筆の原稿などが展示された。
 初日には主催者の内山完造顕彰会会長・吉岡一太郎氏、協会の赤木五郎会長、遺族の内山正雄氏、児島亨氏など関係者がテープカットした。大中国展の期間中とあって見学者が絶えず、岡山が生んだ偉大な日中友好の功労者に思いを新たにした。(資料E)
協会派遣の留学生をいつも暖かく迎えてくれた洛陽大学の正門
洛陽大学へ第1回留学生派遣
 1985年8月、洛陽大学へ岡山から初めての留学生を協会が派遣した。この名誉を荷ったのは総社高出身のOL笹野佳子さん。彼女はNHKの人気番組シルクロードを見てから中国志向が強くなり県立短大中国語講座に通うとか華僑総会の講習会に参加するなどして留学の道を探った。その熱意を知った協会が洛陽市を通じて洛陽大学と交渉し道を拓いたもの。彼女は翌年8月、1年間の留学を終えて帰国した。
 留学中、まだ受入れ体制が十分でなかった同大学は、彼女の学習成績や学習態度・生活態度が良いとして、市政府や大学の諸先生から高い評価を受けた。また洛陽大学では留学生のための留学生楼、食堂の新改築、カリキュラムの整備など、本格的な受入れ体制に着手した。そこで86年には入れ替わりに渡部真弓さん、西上普美さん、長谷川俊雄さんの3名の留学生を派遣、以後継続して洛陽大学に留学生を送る制度が整った。
 岡山市と洛陽市が友好都市5周年を迎え、益々実質的な交流が望まれている中、派遣留学生を中心にした若い世代の人材が各分野で日中友好の一翼を担い活躍していくことが期待される。(資料F)
日本語講師を洛陽に派遣
 協会会員の家野四郎氏が9月26日、日本語講師として中国に出発した。これは市日中友好協会と中国人民対外友好協会洛陽分会との協定により実現したもので、家野氏は昼間は友誼賓館で、夜も夜間学校で中国の人々に日本語を教えた。
内山完造夫妻の墓碑を建つ
内山完造氏の墓碑が上海に建立
郷土が生んだ日中友好の先駆者、内山完造氏の生誕100周年にあたり、日中合作作業として準備を進めてきた碑が完成、11月14日上海市宋慶齢陵園(万国公墓)において除幕式が行われた。
 除幕式には日本側から中西寛治氏(内山完造顕彰会理事長)を団長とし、日中友好協会全国本部顧問小澤正元氏、内山完造顕彰訪中団のメンバー12人が、中国側から上海市対外友好協会副会長で中国作家協会上海分会副会長の杜宣氏、魯迅記念館の楊藍館長、その他上海市の幹部ら約30人が列席した。杜宣氏が「今日の友好の礎を築いた大先輩に学び、その精神を受け継ごう」と力強く挨拶した。

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