協会の歩み 1991年〜1992年
1991年(平成3年) 機関紙が第三種郵便物に
 協会の機関紙「岡山と中国」が第三種郵便物に指定され、新年号から題字の横にその横文字が入っている。ご存知の方も多かろうが民間団体の機関紙では珍しい例で、わが協会の熱心な活動が郵政省に認められた証拠である。
 2月号に川崎短大・岡田政敏学長が三種指定を祝した一文を掲載しており、その中で「岡山と中国を結ぶ架け橋として広く江湖の期待に応えられんことを」と希望をこめている。三種認定の条件は公共性が第一で外に毎月の定期発行、有料部数などが決められている。
「中国の砂漠をなくすために」と熱を込めて説く遠山さん
遠山さんが砂漠緑化の講演
 91年度総会は2月9日岡山駅前日生ビル会議室で開いた。この年が岡山、洛陽間の友好縁組10周年に当たることから有意義なイベントを計画しようと熱のある議論が出た。また新見、信陽両市の縁組にも積極的に協力しぜひ実現させたいと期待が述べられた。総会の後鳥取大名誉教授・遠山正映氏の「私の夢は砂漠の緑化」と題する特別講演が反響を呼んだ。講師が半生を中国に捧げた経過を熱を込めて話すと会場に感動が広がり、その場で浄財を送ろう−と4万余円が集まった。
真備町中国庭園にある真備公の碑に見入るバス旅行の一行
親睦の一日バス旅行
 会員の親睦を図る目的で第1回日帰りバス旅行を行った。行先は井原市の内山完造さんの頌徳碑である。早朝協会事務所を出発、途中倉敷駅に立ち寄り、清音に出て昔の吉備街道を西に走る。乗客は女性が多くバス1台分四十余席を満した。
 まず真備町吉備寺を訪問。ここは吉備真備のゆかりの所で住職から古い来歴を拝聴、ついで真備記念館、中国風庭園など案内してもらう。奈良期の昔にこんな郷土の先人がいたのかと大いに感銘を深くした人もいた。
 そして井原の頌徳碑に着いた。既に内山書店の児島亨さん、内山正雄さんらが待ち構え温かく迎えてくれる。一同碑に花束を捧げ故人の冥福を祈る。碑は5メートルもあろうか自然石に元中日友好協会会長・廖承志さんの筆で内山完造先生頌徳碑と書かれている。春とはいえこの年の三月下旬はまだ雪が残っていた。みんな偉大な先輩の業績に深く胸を打たれた。この後は昼食を嫁いらず観音でとり田中美術館で彫刻芸術の枠を鑑賞、初めての親睦旅行を楽しんで夕刻家路に着いた。
半田山植物園で牡丹祭
 洛陽市と提携10周年を記念して3月20、21両日半田山植物園で牡丹祭を主催した。当日は好天にも恵まれ牡丹園は人が一杯、中央の仙女像を囲んでカメラのフラッシュが続いた。ここの牡丹は協会の斡旋と労力奉仕で洛陽から輸入した中国産二千本が市で管理されているもの。またイベントに子供の写生会を開いたところ人気を呼び2日とも終日チビッコで賑わった。優秀な作品の表彰も行い、一部は市中央図書館に展示した。
個人で中学校に図書館を寄贈した田口光代さんを囲み落成式
図書館を田口さんが寄贈
 河南省信陽市で7月1日、信陽第一小学校図書館の完工式が行われた。この図書館は岡山市新屋敷、田口光代さんが寄贈したもの。この日招待された田口さんは日本式和服姿で会場に現われ市会議員や教育関係者のわれんばかりの拍手を浴びた。
 田口さんが寄贈した裏には次のような秘話があった。ご主人の田口克己さんが先の戦争で中国へ出征した時信陽市を夜間行軍中に疲れ果てて道端に倒れた。それを見て若い中国人が肩を貸し市街地まで運んだ。若者のおかげで命が助かり今日がある−と生前はいつも述壊し、戦後彼は日中友好運動に余生をかけた。最大の恩返しは信陽市と新見市の都市縁組を実現したことだ。田口さんは前年ガンで死亡したが遺言も「中国のために尽くせ」の言葉だったので未亡人がそれを図書館建設という形にしたのである。
 感動的なストーリーは岡山のあらゆるマスコミに報道され多くの県民の心を打った。図書館は煉瓦造り2階建て、新感覚の真白い建物である。
大水害を救えと天満屋地下道で募金活動を展開
大水害救えと義援金募る
 中国各地を襲った大水害を救おうと、協会が呼びかけて県下で初めて義援金募集運動が展開された。実は6月頃から一般の新聞紙面に浸水被害がチラホラ報じられていたが、7月になって遂に大水害ということが判り、協会では緊急理事会を招集して決定した。
 会報で天災のひどさを詳報し募金に協力を依頼する△募金者の氏名と金額を掲載する△集まった金は大阪在住中国総領事に届ける−などで、早速8月号会報から紙面キャンペーンを始めた。すると会員から続々と愛の寄金が届き事務所はテンテコ舞い。運動期間は8月一杯の予定であったが、10月までひっきりなしに献金が続いた。中でも理事会が中心になって街頭募金を始めたのは効果的だった。天満屋サテスタ付近で幟旗も勇ましく「中国大水害救援」と大書して各自募金箱を胸に声をからしたのは人目をひいた。
 こうして総額132万8,147円の浄財はすべて中国総領事へ届けられた。千総領事から「日本人のご好意に感謝します」と丁寧な礼状が、また、寄付した全員に感謝状が届いた。
岡山市が訪中団派遣
 岡山市、洛陽市友好提携10周年を記念して、岡山市民訪中団(団長・安宅市長)が9月28日岡山空港を発った。一行は160人、全日空チャーター機で一路上海へ。上海で一泊後は中国機で洛陽到着。洛陽空港には同市幹部が大勢出迎えてゴッタ返す。その夜のレセプションは友誼賓館で盛大を極め「友好は子々孫々に」と双方から心のこもる挨拶の交歓があった。張世軍市長代理は「洛陽と岡山は数千年の兄弟の仲」と強調した。
 岡山の物産展開幕式に全員参加の後は龍門石窟、関林、白馬寺など九朝の都の名刹、古跡を見学し文化遺産に感嘆した。また中国一のトラクター工場や黄河見学もあった。三泊の次は西安に足を伸ばし始皇帝の兵馬俑、華清池、小雁塔など見物した。最後は北京で万里の長城、明の十三陵、故宮を訪ね楽しい友好親善の旅を終わった。
編鐘という名の古代楽器が初めて来日し宮廷音楽を聞かす
洛陽韶楽文化団公演
 洛陽韶楽文化団(団長・李延齢対外友好協会副会長)が11月3日文化の日に新装の岡山シンフォニーホールで公演し2000人の市民の拍手を浴びた。韶楽とは古代中国の宮廷に伝わる音楽。その音はあるいは勇ましくあるいは寂しく溜息がもれるという。
 今回は笙、箏、胡弓、編鐘など古代楽器をみな揃えて来日、25人の楽人が本邦初公開の腕を力一杯披露した。曲名は唐時代の曲「春江花月の夜」をはじめ三国志の英雄、少数民族の祭など25曲で二時間半熱演した。公演の合間には聴衆との間で花束の贈呈、カメラの撮影などまた歌姫が握手攻めにあうなど親善ムードが最高潮に達した。
1992年(平成4年) 総会で千総領事が講演
 2月の総会で役員改選が行われ六車会長が退任して三島会長が就任、新たに小路理事が誕生した。人事のあと記念講演は千昌奎・中国駐大阪総領事が「日中関係の回顧と展望」と題して見事な日本語で友好が大切なことを説いた。また六車前会長、家野四郎、末広恵一、中村薫の四氏に感謝状が贈られ、協会の活動に協力した功績を賛えた。
京劇の名優が来岡し孫悟空など公演、観衆を魅了
梅姉弟が京劇の名演技
 京劇の本物が岡山に来た。テレビ会社の主催であったが協会が後援、新装の岡山シンフォニーホールで2月17日、見事な演技を披露した。一行は梅葆、梅葆玖以下65人。この2人はかの有名な京劇の文化財といわれた梅蘭芳の娘と息子。マスクもいいし声もよし。父親譲りの見事な踊り方は見る人をたちまた魅了、ほぼ満席の観客はこの豪華な顔ぶれに十分堪能した。
 演技に先だち前日顔見せの歓迎パーティーを八仙閣で開いた。梅さん姉弟はその席でも親しくみんなと乾杯したりカメラにおさまった。
「カメの甲羅を彫ったのが文字の始まり」と説く福田講師
中国文化教養講座が始まる
 中国文化講座という教養講座を4月から開講した。かねて会員の中から「中国文化にしぼった」中味の濃い講座がほしいという声に応えるもので、岡山大を筆頭に県内に散らばる名物教授を講師に依頼した。また会場確保のため山陽新聞と共催の形をとり高島屋裏のカルチャー教室を利用した。諸先生は別記のような豪華メンバーで程度は相当高かったが結構満員の盛況で始まった。
 トップが岡大の看板教授・福田襄之介先生。亀甲文字の昔から説いて1時間半うんちくを傾けた。会場は学生時代に返った真剣な老頭児が多かった。5月度は石田米子教授の魯迅講話だった。4月度の古代から一気に現代にテーマがとぶ。紹興に残る文豪の生家から説き起し留学時代の苦難、内山完造との出会いなどにも及ぶ。女性らしい行き届いた資料を頂いて中国文化の深い味わいを香いだ。
 6月は前期最後ということで台湾出身の鄭正浩助教授にご登場願った。大変博識な人で日本語もペラペラ。日本文化の中にいかに多くの中国文化が溶け込んでいるか−を写真やスライドでお祭り、行事、風習、風俗に至る広範な分野にわたり解説された。後期は9月から始まり再びトップに福田襄之介、10月に岡本不ニ明・岡大助教授、11月新村容子・就実女子大学助教授が公開講座の壇上に立った。
下電グループが友好提携
 下津井グループの代表者。永山久也氏は4月に訪中してグループとして上海紅十字会の福祉事業を援助することを申し入れた。「中国は近代化に懸命な様子なので私にもできることがあれぱお手伝いしたい」と遠慮がちな提案。早速それが実って運輸業者らしい運輸関係の技術者養成と車両(バスとトラック)贈呈を始めた。また利害を離れた形で紅十字会と合併のタクシー会社の構想を持ちこれは後に実現、以来上海市松江県に本社を置き日本車が毎日上海の市中を走っている。
白馬寺の釋方丈を迎えて仏教会が歓迎会を開催
天満屋で中国イベント賑わう
 天満屋で友好イベントが花咲かり。6月24日から29日まで6階、7階で洛陽展(岡山、洛陽両市主催)名僧墨蹟展(協会など主催)物産展(同)大黄河秘宝展(NHK主催)が大賑わいした。いずれも日中国交回復20周年の行事でこんなにデパート全体が日中友好に沸いたことは珍しいといわれる。
 また洛陽の名刹・白馬寺の釋方丈が墨蹟展もかねて初めて来日、岡山空襲の日に当る6月29日蓮昌寺で平和法要を営まれた。法要では日中双方の仏教会が「平和を祈り戦争に反対する」と共同声明を読み上げ集まった多くの市民に深い感銘を与えた。なお方丈は初めての旅を記念して奈良・唐招提寺に詣で鑑真和上と対面した。平常は扉で閉ざされているが特別の計らいで開扉され方丈は満足げに日本の古都を楽しんだ。
都市縁組、県省縁組進む
 新見市と信陽市の都市縁組は4月16日新見市総合福祉センターで調印式が行われた。信陽市の程国 市長はこれに先だち15日大阪空港から岡山入りした。空港には市長車、議長車など出迎えたのは勿論だ。調印式の晴舞台は市民多数が集まった。
 この年は引き続き岡山県が6月1日江西省と友好協定書に調印した。県はかねて江西省と交流を重ねていたが、5月末長野知事を団長とする友好訪問団を結成し省都南昌市を訪ねた。調印式には県、省双方のトップが顔を合わせ友好関係の固い繋りを誓った。岡山県が他国の自治体と縁組を結ぶのはこれが最初である。
 さらに11月、こんどは和気町が上海市嘉定県と友好協定を結んだ。和気町はこれまでも藤本町長らトップが訪中、また農業研修生を受け入れるなどしていた。これで1年間に3つの縁組が成立したことになる。
新見と信陽の両市の子供が仲良くキャンプ合宿
信陽で子供のキャンプ
 新見市の小中学生が友好関係にある信陽市へ夏のキャンプに出かけた。日本の子供はキャンプに馴れているが中国では初めてとあって迎える側は準備が大変だったとか。それでも見事な交流を実施した。すなわち双方の子供だけでテントを張ったりカレーライスを作ったり。結構楽しく遊び仲良しになったという。信陽市はこの日、洗面用に給水車を、飲料用にミネラルウォーターを用意、万一に備えて女医さんも待機したと聞かされ新見の親たちを感激させた。
郭沫若生誕100周年の行事
 郭沫若生誕100周年の記念展が県日中懇話会の主催で12月に県文化センターを会場に開かれた。東京で開催された記念展をそっくり借用したもの。展示品は北京の郭故居から運ばれた生原稿、写真、書など大切な一次資料ばかり。六高時代の写真は白線帽をかぶっている若々しく清気みなぎる青年。連日新聞にも報道され観客を集めた。
 一方これに歩調を合わせわが協会では郭沫若講演会をアイプラザで開いた。講師は郭沫若研究家の名和悦子さん。彼女は岡山大学文学部教授・石田米子さんの弟子で、長年にわたって郭さんの資料を集めた地方では珍しい研究家である。それによれば岡山は日本妻の砂糖をとみさんと同棲し留学中最も楽しい時間を過ごしたところだという。四川省から届いた手紙を分析し彼の心境と両親のわが子を思う文面の紹介に講演の多くの時間をさいた。なお講演の要旨は翌月の会報に掲載した。
肖向前氏(左から3人目)が岡崎嘉平太氏の墓前に立つ
肖向前氏が岡崎氏の墓詣り
 中国の要人である中日友好協会副会長・肖向前副会長が12月に来岡した。岡崎嘉平太氏の墓詣りが目的だった。生前2人は非常に親しい間柄であったという。肖氏は国交回復を秘めた重大任務、岡崎氏はLT貿易の実務責任者。共に日中友好に尽くした仲であった。賀陽町にある六角堂の墓所で神妙に手を合わせた。
 肖副会長はその日竹竝堅町長らと昼食の後「江蘇省の淮安市は周恩来の生地です。岡崎先生の生地である賀陽町と縁結びするのにふさわしい」と持ちかけた。これが縁で以後町長らトップの相互訪問、青少年の交流が始まっている。

戻る   このページのトップへ トップページへ