協会の歩み 1993年
「雪解け水を地下ダムに貯めて」と新説を発表する奥田教授
1993年(平成5年) 93年度の協会定時総会
 新年度総会は1月23日岡山駅前日生ビル会議室で開催した。恒例のように議事、記念講演、懇親会の順で日程を進めた。講演は理科大・奥田節夫教授の「中国における水資源の諸問題」といい、天山山脈の雪解け水を地下ダムに貯水するなど新しい構想を披露した。また懇親会は有名作家の作品を抽選で貰えるという余興が大賑わいだった。提供して頂いたのは備前焼の浦上善次、洋画家の河合京子、日本画家の清水昭太、写真家の北山宏以上4氏。
岡山市が留学生に支度金
 岡山市が洛陽との交流を促進するため4月から旅行者に奨励金を支給することにした。条件は団体で訪中し洛陽に2泊以上すること、金額は1人5,000円。また留学生一人1回限りで1万円生活支度金支給を始めた。留学生に対する援助では高梁市が月額2万円の奨学金を翌年4月から始めた。高梁市には吉備国際大があり行政面で積極的な対応が迫られたもの。市が1億円を出資しその利息から初年度は14人に適用した。
油絵で曼陀羅図を画いた大橋皓志画伯
日中友好絵画展が人気呼ぶ
 日中友好絵画展が協会主催で4月22日から27日まで岡山市のロイヤルギャラリーで開催された。操風会主宰者の大橋皓志画伯の大作「曼陀羅図」をはじめ会員の習作三十余展が展示され連日鑑賞者がつめかけた。曼陀羅図は仏教がインドから白馬寺に伝わり更に日本へ渡来した由来を描いたもの。協会理事・宮本光研氏(長泉寺住職)の要望に応えた珍しい油絵の仏教画である。展示作品のうち24点は岡山で陳列が終わった後中国洛陽市へ贈られた。
 洛陽では白馬寺の回廊の一角に飾られ日本の画家展として人目を引いている。
賀陽町と淮安市交流始まる
 賀陽町と淮安市の交流が具体的に始まった。淮安市の上級機関である江蘇省アジア処長を団長とする要人3人が5月22日来訪した。先に来岡した中日友好協会副会長の肖向前氏に勧められたもの。竹竝町長の案内で吉備高原都市を見学したり岡崎嘉平太氏の墓詣りをした。
 真備町は吉備真備の出身地としてかねて友好相手を探しているが、5月7日川上町長、岩田議長の加わった訪中団を西安市長安県に派遣した。一行は全部で16人。名前が長安といい唐時代の都の面影を残した古い町。人口86万で農業が主体だが工業化もすさまじく日本からの訪中団を大歓迎した。
日本語学校がブーム
 各地で日本語学校がブームを呼んでいるが岡山市内にも新設校が誕生し中国人生徒が激増した。従来は長船日本語学院一校であったが前年秋に岡山外語学院が日本語科を新設した。以来申し込みが多くたちまち両学院合計で計50人を超え、5月の入学式はどちらも盛大に行われた。噂では更に一校新設の予定である。
人民中国社の祝賀会に当協会からお祝いに駆けつけた岡山代表団
人民中国社創刊40周年お祝い
 人民中国社の創刊40周年祝賀会に当協会から小路広史三誌友の会代表以下7人が参列した。式典は6月12日両国の関係者300人が出席、日本から出席したのは愛読者団体、中国書出版社、友好団体などだった。中国側は徐惟誠・中央宣伝副部長をはじめ政府要人や中日友好協会、各省出版部門の責任者もいた。
 岡山代表団は30テーブルの第2番卓に座り会長メッセージと時計を贈った。祝宴では急に指名を受けてそれでも「北国の春」を合唱し喝采を浴びた。
三光荘の改名で論争起る
 岡山県庁旭川対岸にある三光荘の名前を変えてほしいという市民団体が8月24日、県庁職員課を訪ねた。三光とは殺し尽くす、奪い尽くす、焼き尽くす、という3つの残虐行為を意味し中国人が嫌う言葉であるからというのが理由。激しいやり取りがあったが結局物別れに終わった。
 実はこの論争は協会報の2月号に掲載された投書が発端。「中国人を三光荘に案内した時に三光の名前を見て彼らは一瞬立ちすくんだ」という手紙が反響を呼んだのである。これを読んだ別の会員が山陽新聞の投書欄へ「三光の改名を」と呼びかけた。それをめぐって賛成論が殺到、中には日本人の恥だというものも掲載された。また慎重論も出で以後何回となく正反両論が山陽紙面で論争を展開した。勿論県庁も弁解の文章を協会報と山陽新聞へ掲載した。
 協会では火付け役の立場なので静かに見守ってきたが、大論争が一応収まったとして市民団代の要請で一緒に県へ抗議に出向いた。三光が残虐を意味する、いや三木知事の発想で光が三つの意味だと平行線のまま。やっと「文書で誤解を解くよう対処する」と言質を得て抗議団を解散した。
中国科学院の幹部を岡山に迎え歓談する小合副会長
小合康長副会長の死去
 故小合康長副会長の社葬は10月8日生々館でしめやかにとり行われた。生前の交友の広さを物語るように各界にわたる沢山の会葬者がつめかけ故人を悼んだ。小合副会長は協会設立以来の役員として日中友好運動に半生を捧げた。「中国には恩義がある。早く立ち直って貰いたい」が口癖であった。また研究所と名のつく特色ある企業を創業し県下はもとより広く全国的に注目される人物であった。
白鹿洞書院(九江市)の孫院長が興譲館高校で講演
白鹿洞書院から賓客来岡
 興譲館高校(山下五樹校長)は創立140周年記念式を10月1日開き、かねて交流のある江西省九江市白鹿洞書院の孫院長を招待した。同校は江戸末期、朱子学者の坂谷郎慮によって創立されたが建学の精神は白鹿洞書院を手本にしたという。記念講演では孫院長が「中日の関係は二千年の昔にさかのぼる。古いつながりを大切にしよう」と生徒たちに呼びかけ感銘を与えた。また校友会幹部と懇談会を持ち友好を確かめよう」と生徒に呼びかけ感銘を与えた。また校友会幹部と懇談会を持ち友好を確かめあった。
岡山市から正式訪中団
 岡山市と洛陽市は交互に正式訪問しているがこの年は岡山の番。10月23日高島助役を団長に石川工業社長・森谷康雄氏、岡山理科大教授・橋本礼治氏、市国際交流課・藤岡勉氏が訪中した。また市議会も11月13日出発し串田副議長、小橋留男、大橋英雄、苦水重徳、高津利明、寺田和子、中川事務局長の7氏が洛陽へ。
関西高に第5回倉石賞
 中国語教育に貢献した人を表彰する「平成5年度倉石賞」が関西高内に事務局を置く全国高校中国語教育研究会に決まり11月27日東京で表彰式が行われた。故倉石武四郎氏の業績を賛える名がつけられ中国語学会では最も権威のある賞という。関西高は中国語普及の熱意が強く部活動に取り入れたり商業科の必修科目にするなど熱心な研究が評価された。

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